「ダビデの子と神殿」(2017年3月26日礼拝説教)

「ダビデの子と神殿」
詩編110:1~7
ルカによる福音書20:41~21:6

 神に自分をささげ、神に自分自身を委ねるということ、私たちはどれだけ、このことをしているでしょうか。
 今日は、「ダビデの子と神殿」という説教題とさせていただきましたのですが、実はちょっと(かなり)タイトルのつけ方を失敗したかなと思っています。ルカによる福音書の講解説教を続けてきておりまして、さてどこからどこまでをその日の礼拝で語るか、なんと言う説教題とするか、私はだいたい1~2ヶ月前にそれらのことを決めるのですが、聖書の切り取り方によって、読み方や語り方は違ってきます。今日は、新共同訳では4つの項目となっているところから、ひとつのメッセージを読み取ることにいたしました。そして準備を始め、この4つに分けられている箇所をひとつの箇所として読むとき、ここには確かに「ダビデの子と神殿」について書かれてはあるけれど、その根底にある事柄は、人間の側の思いと、神の思いの違いが語られていると思えるようになりました。
 そして、説教を書いてみてつけるべきタイトルは何だっただろう?と改めて思いますと、「神の恵みに大胆に近づこう」、というそのようなタイトルであるべきだったかな?と思ったりしています。

 さて、皆様は神殿というと、どのようなイメージをお持ちになりますでしょうか。お読みした21章5節で、「見事な石と奉納物で飾られている」とも記されてあり、何やら美しいイ王宮のようなメージがあるかもしれず、勿論美しさもあったのですが、実際神殿というのが、何をするところかと言いますと、その中心は、人間の罪の身代わりとしての動物の犠牲をささげるところでした。「でした」と過去形でお話しするのは、今はもうそれは無いからです。
旧約聖書の時代に於ける礼拝というのは、人間の罪の身代わりとして動物の血と、それを燃やす煙~神への宥めの香りを、神に献げる場所でありました。絶えず血の臭いと、動物の叫ぶ声が聞こえる、目にも耳にも鼻にも、人間にとっては耐えがたい場所であったと申します。
 イスラエルに於いては、ダビデの子であるソロモン王が、神殿を最初に建てました。今のエルサレムですが、その場所は、そのはるか昔、アブラハムが最愛の息子であるイサクをささげたモリヤの地と呼ばれるところでした。アブラハムの神に従うためには、自分の最愛の子を差し出すことすら厭わなかった信仰―結果的には、神ご自身がイサクの代わりに犠牲の小羊を備えられましたが―が基としてあり、後にそこは絶えず人々が、自分自身の罪の身代わりとして、動物の犠牲をささげる場所となりました。
しかし、今は神殿はありません。お読みしたルカ21章5節から、イエス様は神殿の崩壊を予告しておられますが、イエス様の十字架から約40年後、紀元70年、ユダヤ戦争の最中、ローマ軍によって神殿は破壊されてしまったのです。
 人間の手で造った神殿というのは、滅びゆくものでありました。しかし、神殿は滅びても、神はおられます。
 ユダヤ人は神殿を大切にしておりました。神殿に仕えるサドカイ派・祭司は勿論、律法学者、ファリサイ派、はじめ、ユダヤ人の男も女も、神殿を中心として生きていたのです。人間の造ったもの、人間の目に映るもの、それらはすべていつかは無くなるものです。人間自身も、どれだけ世で富と権力を持とうとも、誰しも死にゆくものです。それなのに、人間は、死ぬべきものと定められている自分自身に頼り、目に見えるところに、世で自分の持てるもの、滅び行くものに、どこまでも拘り、神を信じていると言いながらも、目に映ることがすべてとすら考えることがあります。

 そして今日お読みした箇所には、神殿の賽銭箱に献金を入れる人々、そして貧しいやもめのことが語られています。罪の犠牲としての動物だけでなく、献金をささげる場所も、神殿の中にあったのだということなのでしょう。
 現在、私たちのキリスト教会の礼拝の終わりには、献金の時間がありますが、献金というのは、神に自分自身をささげる神への献身のしるしです。先ほど、旧約聖書の時代、人間の罪の身代わりに動物が裂かれていったこと、それが旧約聖書の礼拝であったことをお話しいたしましたが、イエス様が来られ、その後、神殿は崩壊し、無くなりました。目に見える神殿は無くなりましたが、それによって罪の赦しの道が閉ざされたわけではありません。いえ、寧ろ、罪の赦しの道が、すべての人に、動物の犠牲に拠らずして、拓かれていきました。人間の造ったものは滅びますが、神の為されることは、確かなことであり、永遠に続くのです。
それは、イエス様が、神のひとり子であられるお方が、切り裂かれていった数知れぬ動物に代わって、十字架の上で、その身を切り裂かれ、血を流された。その犠牲によって、イエス・キリストを信じる人間のすべての罪が赦される道が拓かれたからです。私たちには最早神殿は必要はありません。罪によって自分自身が裁かれることも、またその罪を動物に移して動物が私たちの身代わりとなって死ぬことも必要が無くなりました。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって、人間の罪が赦される道が拓かれたのです。
 そのことを感謝をもって覚えつつ、罪許された私たちが出来得る、神へ自らを献げる献げものとして、神から与えられた世の糧=収入から、その一部を、犠牲の心をもって神にささげます。ですから、献金というのは、私たちの痛みが全く伴わないものではなく、少々の痛みと犠牲を伴うものです。
  
 そして、今日の説教題のもうひとつのタイトルとしましたのはダビデの子ということです。
 イエス様が、今日お読みしたルカ20:41で、「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と仰っておられますが、イザヤの預言の中に、ダビデの末から救い主がお生まれになるという預言があり、その昔イスラエルには、ダビデ王がイスラエルを目覚しいばかりの王国にしたように、救い主は、ダビデの子孫であり、ダビデがイスラエルを統一王国としたように、イスラエルの国を回復してくださるという信仰があったのです。
 イエス様の系図が、マタイ福音書の1章にありますが、それを見ますと、イエス様はイスラエル民族の信仰の父と呼ばれるアブラハム、そして、イスラエル統一王国の偉大な王ダビデの子孫としてお生まれになられたことが語られています。その意味に於いて、イエス様がダビデの家系にあるということは、イスラエルの預言の成就された救い主であられました。
しかし、イエス様はこの箇所で、救い主がダビデの子であることを否定しておられます。ダビデの詩と言われる本日お読みした詩編110篇「主は、わたしの主にお告げになった。わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」をイエス様はここで引用しておられますが、このはじめの「主」は、父なる神ヤハウェの名であり、「わたしの主」の主とは、ヤハウェという名ではなく、「主人」という言葉が原文には書かれています。
 ダビデは主なるヤーウェが、「わたし=ダビデ」の主人に「わたしの右の座につきなさい」と語られているとうたっているのです。ダビデの主=主人とは、主の右の座についておられるお方。すなわち、それは天に於いて、父なる神の右の座に今おられ、すべてを統治されている、御子イエス・キリストを指します。ダビデは、まだ地上には来られていない救い主を、自分の主として見上げて、この詩編をうたっているのです。当たり前のことながら、イエス様はダビデに遥かに勝る王であられます。
 それなのに、人々は、ダビデが主と呼んだお方が目の前に来てもそれを認めません。また人々が崇めるダビデは多くの弱さを持つ、私たちと同じ人間でした。それなのに、救い主はなぜダビデの子でなければならなかったのか?とイエス様は問うておられるのです。
 イエス様がここでこのような問いかけをしておられるのには、人々の思いが、世に於いて、ダビデの子孫を通して、もう一度、イスラエルが隆盛を極めるということを望んでいることに対して「まことの救いはそこにはない」というイエス様の教えが含まれています。人間の思いと、神の思いは違うのです。
 まことの救い主は、自らを犠牲として命すら惜しまず人に献げ、罪ある人間を救うお方であられました。そのように、人間の罪を取り去ることにより、まことの救いが人間に与えられました。世に於いて隆盛を極めることが、神の国の表れではありません。

そしてこの問いかけに続くのは、ユダヤ教の律法学者に対する、イエス様の警告です。
 律法学者というのは、イスラエルの宗教社会に於いて、指導者的立場にある人々でした。彼らは非常に尊敬を受けている。というよりも、尊敬を受けるものだと自分で自分を評価している人たちでありましょう。人間は罪深く、自分の世の地位が高められたり、持ち物が多くなると、自分は「偉い」と思い込むことがあります。イエス様がここで語られる律法学者という人たちも、そのような人たちと思われます。主なる神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた律法を研究することを仕事としている人たちですが、律法という掟は、神から与えられた尊いものではありますが、それが人間の手に与えられ、数百年、イエス様の時代となりますと千年以上の歳月を経る間に、神との関係を正しいものとするための神からの恵みではなく、それを守る人間自身を誇るための道具に成り下がっておりました。人間というのは、どこまでも自分中心で、神から与えられたよきものも、人間の手の中に入り、それが人間の「誇り」のようなものに摩り替えてしまうのです。
 イエス様は、彼らの三つの事柄―人々から尊敬されたいという欲求、やもめたちからの搾取、祈るときの見せ掛けの敬虔を非難しておられます。彼らはその社会的地位を表す長い派手な衣を纏って、自分自身を誇示しながら歩き回ることを求め、人々からの恭しい挨拶を求め、さらに宴会では一番よい席に就く事を求め、やもめと呼ばれる人たちから不正な報酬を受け取り、その中には代理で祈るという触れ込みで長い祈りをし、それの報酬を受け取るということもしていたと申します。
 現代社会でも、多くの不正が行われていることを思いますが、律法学者という人たちは、主なる神の僕であると公言しながら、神のことを思わず、いつしか自分自身の利益のみを求める人たちとなってしまっており、神様を抜きに何でもしてしまおうとする人たちであり、神に委ねるということを、おそらくは全くしない人たちであったのでしょう。人間は世で持ち物が多すぎると、神を見ず、自分自身の誇りに執着を持つようになる。本当にどうしようもない人間の罪です。
自分を誇ることに執心する律法学者たちに対し、イエス様の言葉はとても厳しいものです。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と。

 イエス様がこれらのことを語っておられたのは、神殿の中でした。主は御自身の十字架を見据えつつ、神殿におられます。
イエス様は、目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられました。律法学者たちが、長い衣を纏って、敬虔そうな顔で次々に献金をしていたのでありましょう。
 そこにひとりの貧しいやもめ―夫を失い、ひとり身となった女性が、レプトン銅貨二枚―これは、一日の働きの報酬と言われていたデナリオン銀貨の128分の1の価値の、当時の最も小さな銅貨―二枚を、賽銭箱に入れました。1日の報酬を7000円としますと、その128分の1の二倍ですから、およそ100円です。彼女の持つお金は、100円であり、そのそれが彼女の全財産でした。100円は、パンをひとつ買えば無くなります。彼女は彼女の最後のパンのお金を、神に献げたのです。それを献げたら、もう何も残らない―物乞いをして生き延びるか、飢えて死ぬかもしれない、そのような瀬戸際で、最後の持てる物を神に献げたのです。

イエス様は、神の子であられます。神は人の心を見るお方です。イエス様は、その女性が、持っている生活費のすべてを入れたことを見抜かれました。
 この後、この女性がどうなったのか、何も記されていないので分かりません。
 しかし、イエス様の目は彼女に留められたのです。
 イエス様はルカ6章の「平地の説教」と言われる説教の中で語られました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。(6:20)と。
 この女性は実際、経済的な困窮、貧しさの中にあった女性ですが、この御言葉が語る貧しい人とは、人間や自分の力に頼るのではない、神にしか頼れないことを自覚した人のことです。すべてを神に委ねる信仰を持つことしか出来ないほどに世に於いて貧しくされた人のことです。
 世に於いて持ち物が多ければ、心がさまざまなところに動きます。自分自身をより大きく見せたいと願うようになり、また失いたくないものを数えるようになる。
 しかし、人間には世のすべてを取り払った時、貧しくされたその時にこそ与えられる恵みと、見えてくる神の支配があります。
最後のパンのためのお金を神に献げたこのやもめ。この時も空腹であったに違いはなく、人間的な目から見て、彼女の生きる状況というのは絶望的なものであったに違いありません。そこまで来て、彼女が求めたものは、一個のパンではなく、神と神から来る救いでありました。そして、自分の持つお金のすべてを神に献げたのです。
 そこまで貧しくされることは、本当に悲しいことです。しかし、罪深い人間には、そこまでにならなければ、見えてこない、世に於ける神の支配があります。そして、自分のすべてを献げた彼女の心、信仰に、イエス様は目に留められたのです。

 神殿とは犠牲を献げる場所であるということを申し上げました。この女性は、犠牲の鳩一羽買うお金はなく、最も小さなお金を献げました。最後のお金を、犠牲を払って献げました。
 そのような犠牲を伴う献げものは、神へのまことの献身のしるしとして、イエス様の目に留められ、ここには何も記されてありませんが、この女性は、必ず、人間の目にはみえない神の支配の中にすっぽりと入れられ、神による新しい彼女の人生の創造が始まったに違いありません。イエス様は、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われたのですから。

 今日はたくさんのことを申し上げました。
 しかし、この中から是非とも心に留めていただきたいことは、ひとつです。私たちは、このやもめのように貧しすぎる状態に置かれているわけではないことでしょう。しかし、このやもめが最後の持てるものを神にささげ、神により頼むことに賭けたように、私たちも今、もう一歩、神に自分自身を献げる、今自分が思っている以上に、人間の誇りや、人間の目に映ることに拠るのではなく、信仰によって自分自身を見えない神に委ねる、神を求め、神に期待する信仰に、踏み込むことに賭ける信仰を持っていただきたいと言うことです。
 私たちはイエス・キリストの十字架によって、その犠牲によって、罪赦され、イエス・キリストの復活の命のうちに入れられた者たちです。このことに、今私たちが期待を寄せる以上の、思いがけないこの世の人生に於ける恵みと祝福があることを味わい知る恵みに大胆に近づいていただきたいと願うものです。
 神と人間を隔てるものは、人間の罪。罪の中には、自分を世に於いて高めようとする人間の欲望も含まれます。そのような神への隔ての壁を取り除け、自分自身を頼るのではなく、神に自らをすっぽりと委ねる。そのように大胆に神の恵みに近づく思いを一歩踏み出していただきたいと願います 。
神が私たちのためにお遣わし下さり、すべての贖いとなって下さったメシアである主イエス・キリストを見上げつつ、赦された者として、大胆に神の恵みに近づいてゆく。この一週間、そのことを目指して歩みたいと願います。