「命をはぐくむ神」(2017年4月2日礼拝説教)

「 命をはぐくむ神 」
列王記上19:4~9
コリントの信徒への手紙一 3:5~17

 土気あすみが丘教会創立33年を迎えました。
 西千葉教会の「教会の無いところに教会を」という伝道の使命に燃えた幻によって、1984年4月8日、高津戸町の住居を借りて、西千葉教会土気集会所としてスタートを切りました。それから33年。主が十字架に架かり、世の生涯を終えられた年月までを、教会の誕生以来、重ねてきたことになります。「こじつけ」のようですが、それを思います時に、教会が誕生して33年という年月は、ひとつの大きな区切りを数える年のように思えて参りました。
 
 説教を語る時、私は注意しつつ使い分ける言葉があります。それは、「イエス様」と「キリスト」という使い分けです。多くの方が既にご存知でありますとおり、イエス・キリストというのは、クミ・コバヤシのような名前と苗字ではありません。「イエス」は、地上を生きられた救い主のお名前であり、「キリスト」というのは、「救い主」を意味する言葉=称号です。ですから、イエス・キリストとひとつなぎでお呼びする時、「救い主イエス」という意味であり、「イエスは救い主である」という最も短い信仰告白の言葉となります。
 そして「イエス様」とお呼びする時、私の中では、世を、歴史の中を生きられた神の御子のことを指しています。マリアの胎より生まれ、人の子として成長され、大工として30歳の頃まで働かれ、その後およそ3年間、神の国を宣べ伝え、十字架に於いて死なれたお方を語る時に使います。ですから、福音書から説教をする時は、「イエス様」とお呼びすることが多いのです。
イエス様は、十字架に架かられ、復活され、天に昇られました。
 パウロは申します。「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」(一コリント8:6)と。イエス様は、十字架、復活、昇天を通して、天の父なる神の右の座におつきになり、天に於いてすべてを統治される救い主となられました。その復活のキリスト、栄光のキリストを語る時、私は「キリスト」また「イエス・キリスト」という言葉を使います。

 このようなことを何故お話しするかと申しますと、2000年前、イエス様の地上の生涯である33年を経て、イエスという人の子の時代から、栄光のキリストの時代へと移り変わり、主の教会が誕生いたしました。
 聖霊が「炎のような舌」として祈っていた弟子たちの上に降ったペンテコステの出来事は、イエス様がお生まれになってから、33年経た直後に起こった出来事です。それまで弱虫で、イエス様が十字架に架かれる時に逃げ去ってしまった弟子たち、罪と弱さを存分に持った弟子たちは、聖霊によって力づけられ、新しい力を得、また聖霊は「炎のような舌」というのですから、すべて焼き尽くすような炎に燃やされても、火の中を潜りぬけるような、朽ちない信仰を得て、イエス・キリストを宣べ伝えるようになったのです。
宣教の御業がイエス様ご自身から、教会に委ねられ、主の霊であられる聖霊が生きて働く時代となりました。そのようなことを思い浮かべつつ、33年というのは、大きな転換の時なのではないか、そのように期待し、思うのです。復活のキリストの栄光と統治の中、聖霊の働きがますます豊かになり、イエス・キリストの栄光がより豊かに顕される教会として成長していきたいと、心から願います。

 そして、今年度の聖句として選ばせていただきましたのは、コリントの信徒への手紙一3章6節「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」という御言葉です。
 パウロはイエス様に直接お会いしたことは無いことでしょう。パウロの手紙には、「イエス様はこういうお方であった」という言葉は一切出て参りません。パウロはイエス様に対して、「イエス」「イエス様」という親しい呼び方をいたしません。パウロが語るのは、キリストであり、イエス・キリストであり、キリスト・イエスです。パウロが出会ったのは、復活のキリスト・イエスでした。この時のことは、使徒言行録9章に記されてあります。
 パウロはイエス様の弟子たちを迫害するファリサイ派のユダヤ人でした。キリストを信じる人たちを、捕まえては鞭打ち、牢獄に入れる、イエス様の弟子たちから恐れられていた人でした。そのパウロが、突然の光に照らされ、キリストの声を聞いたのです。「サウロ、サウロ、何故わたしを迫害するのか」と。
 パウロ自身、この時のことをコリントの信徒への手紙一15章でこのように語っています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに表れ、その後十二人にも現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟に同時に現れました。~次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と。「月足らずで生まれる」というのは、パウロはイエス様の弟子たちの迫害者でしたから、そんな自分を「使徒の中で一番小さな者」とパウロ自身が位置づけている言葉なのでありましょう。そのような未成熟な迫害者にすら、復活のキリストは顕れてくださった。ここでパウロが語りたいことは、パウロ自身、復活の主キリストに見えたと言うことです。パウロは、イエス様を知りませんが、復活のキリストに出会い、キリストの使徒とされたのです。

 迫害者であったパウロのキリストの使徒としての道のりは、しかし簡単なものではありませんでした。復活のキリストに出会い、パウロ自身のそのあり方が180度方向転換をされたとはいえ、周囲の人々はパウロを即座に受け入れることは出来ませんでした。それはそうだと思います。パウロはそれほど、イエス様の弟子たちから恐れられていた人だったのです。俄かには信じられないということは、人間の心情として理解出来ます。
パウロは回心の後、アラビア伝道に出かけ、故郷タルソスに戻るという3年間の期間を過ごします。この期間がどのようなものであったのか、分かりません。しかし、即座にエルサレムにいるペトロたちと合流して、共に宣教の業につくということは、出来ない事情があったのでしょう。
 しかし、パウロはひるまず、復活のキリストの力を受けて、イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝え続けました。
そして、今日お読みしたコリントの信徒への手紙の宛先であるコリントの教会は、回心からおよそ15年後、パウロ自身が第二伝道旅行で自らが作った教会です。パウロは、コリントという異教の文化の栄える町に、イエス・キリストの福音の種を、そこに1年半滞在をして蒔いたのです。そしてパウロがコリントを去った後、エジプトのアレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家がコリントの教会にやって来て、パウロに続く、コリント教会の指導者として、教会を導いたようです。アポロについては、使徒言行録18章で「彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった」とあります。しかし、パウロと非常に親しかったプリスカとアキラという夫妻が、アポロに「もっと正確に神の道を説明した」(18:26)ということもあり、アポロはパウロのキリスト理解と非常に近い働きをし、またパウロとは同働者としてよき働きをした伝道者であったと思われます。
 しかし、コリントにやってきた伝道者はパウロとアポロだけでなく、それ以外に、パウロの福音理解とは違う伝道者もやってきて、「異なる教え」を告げる伝道者もおり、コリント教会は大きな混乱に陥っていたようです。そして、それぞれの伝道者の教えによって分派のように、教会が分かれてしまっており、またパウロに対し、批判的な人々も出て来るようになり、パウロはこの教会のことでは、非常に苦労したことが窺われます。

そんなコリントの教会の信徒たちが、当時エフェソに滞在していたパウロに質問状を持ってやってきていました。その質問に対し、パウロが答える形でこのコリントの信徒への手紙は書かれています。
パウロは、コリントの教会の分派の問題、「ある人はパウロにつく」「わたしはアポロに」というような、イエス・キリスト、主の十字架と復活を信仰の土台に据えるのではなく、自分たちの目に映る人間の指導者たちを、それぞれが思い思いに中心として教会を造り上げようとしていることに対し、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と語り、人間ではなく、ただキリスト、神を中心とした教会形成をすることを促します。
 コリントの教会がそうであったように、人間の指導者を中心とし、神が脇に追いやられるということ、残念なことに、キリスト教会ではよくある事例だと思います。良き働きをされ、愛され、20年、30年、40年と長い年月をひとつの教会に仕えられた牧師がおられた教会は、その牧師が退任された後は大変です。その牧師でなければ牧師ではないと思われる信徒の方が大勢いるということがあります。そして、その牧師の時代のやり方を踏襲しなければ、教会ではないと言い張る人まで出て来ることがあります。
各個教会の伝統をいかに守りつつ、イエス・キリストを土台とした教会を立て上げていくか、歴史のある教会ほど、真剣で切実な問題だと感じます。
 土気あすみが丘教会は創立から33年。まだまだ若い教会で、牧師も比較的短い年月で代わっている。これは、教会の弱さに思える場合もありますが、私はこのことに大きな希望を持っています。この教会には、古くからの「伝統」と言われるような、人間的なしがらみがない。新興住宅地にあり、様々な教派的背景をお持ちの方々が集まっており、多様性に富み、因習に囚われず、キリストにある愛を土台として、キリストにあるさまざまなよきあり方を受け入れる土壌のある、柔軟性に富んだ教会だと感じています。それであるからこそ、伝統によらず、牧師によらず、ただイエス・キリストに対する信仰に於いて、一致した教会形成をし得る、よき土台が据えられていると感じているのです。

 パウロは、「わたしは神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と語っていますが、パウロが据えた土台とは、十字架と復活のキリストです。それぞれが、イエス・キリストに於いて罪赦され、新しい命を受けた者として、それまでの自分中心の罪ある者として、神から離されていた者として生きていた場所から、キリストの十字架と復活という新しい命の土壌の上に移されました。パウロはその土壌を、コリントの教会に据えたのです。そして、その土壌にアポロは水を注ぎました。パウロが教えた、十字架と復活のキリストの土壌に、水を注ぎ、人々にパウロと同じ教えをなし、教会の成長に必要な水を注ぎ続けたのはアポロでした。
そのような人間の信仰と、手の業を通して顕されるのは、神の御業です。
パウロは申します。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と。

 イエス・キリストの宣教はペンテコステ以来、キリストの教会に委ねられています。聖霊は、「ひとりひとりの上に」降りました。信じる者には、神の、イエス・キリストの霊であられる聖霊が宿っています。パウロはこのことを、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(3:16)と語ります。
 先週の説教で、神殿についてお話をいたしました。神殿とは、エルサレムにかつてあり、動物の犠牲を献げ続けた場所でした。しかし、イエス・キリストの十字架によって、動物による罪の贖いは終止符が打たれました。人はただ、自らの罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる道が拓かれました。ですから、目に見える神殿はもう必要はなく、今はありません。
 今は、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる私たちひとりひとりに、イエス・キリストの十字架という犠牲と、復活という神の御業が私たちのうちに顕され、神の霊である聖霊が私たちのうちに住まわれているというのです。不思議なことです。私たちのうちに住まわれるほどに、神は私たちひとりひとりを愛し、重んじてくださっておられ、私たちのうちに、キリストの十字架=罪の赦しと復活の御業が、絶えず生きて働いているのです。
 パウロが種を蒔き、土台を据え、アポロが水を注いだ種である教会と教会に連なる私たちひとりひとりを、そのような新しい命にあるものとして、神は育み、成長させてくださるのです。

 聖霊は「炎のような舌」として大胆に顕されました。熱く燃える火、すべてを精錬し、おのおのの仕事がどのようなものであるか吟味をする火です。燃える火によって精錬される、私たちの働きとはどのようなものでしょうか。
 それは、何よりも、主の十字架の御前に、赦された者として立つことではないでしょうか。自分自身を誇るのではなく、主を誇り、主に仕えるのです。5節でパウロが、自分とアポロを譬えて語っているように「それぞれ主がお与えになった分に応じて仕え」るのです。イエス・キリストの十字架と復活の土台の上に立ち、赦された者として、自分自身というより、神の栄光を顕す生き方へと、主がお与えになった分に応じて方向転換をすることです。
私たち人間は、神の御前に立つ、愛されるひとりひとりです。ひとりひとり個性が違い、賜物を与えられ、またそれぞれに強さも弱さも持つ私たちです。ひとりひとりが違う存在です。私たちに与えられた個性も賜物もすべて、神から与えられたものです。私たちの弱さも、神が与え給うた、私たちに与えられた分でありましょう。主が与えてくださった分に応じて、私たちは世を生きます。キリストの体を形づくっていきます。同じコリント一12章に於いて、パウロはキリストの御体なる教会について語っていますが、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(12:22)と語っている。
 弱さを覚える方がおられましたら、主の教会に於いて必要な方です。その弱さを神は用いてくださいます。そして教会を形づくるにはそれぞれの働きがあります。その働きは、身体を動かして働き続けることだけではありません。キリストの身体を形づくるなかで、最も大切なのは、祈りです。もし体が思うように動かない、またどうしようもない弱さを抱えておられるとしたら、是非とも、誰よりも強く、その弱さを神への献身と祈りに用いていただき、教会の働きのために一層祈っていただきたいと願います。
それぞれが、十字架と復活のキリスト、罪の赦しと新しい命という土台をいただいている私たちです。
 そこにアポロは、また牧師は水を注ぐ役目を負うと思います。それぞれが、イエス・キリストという堅固な土台に立ち、牧師もその分に応じた働きをなし、祈りつつ、仕えつつ、主にすべてを委ねます。
 そして、互いに支え合い、祈り合い、赦され、新しい命の土台をいただいた者として、おのおのが、また教会が、主によって成長させていただきたいと願います。

 創立33年。イエス・キリストの誕生から、十字架と復活、そして教会の誕生に至る年月を経ようとしています。
おひとりおひとりに主の愛が大胆に示され、主の御業が私たちの教会の上に、豊かに豊かに顕されることを祈ってやみません。