「荒れ野で叫ぶ声」(2017年4月30日礼拝説教)

イザヤ書40章3~8
ヨハネによる福音書1:18~28
「荒れ野で叫ぶ声」

 ヨハネによる福音書の講解説教を始めて二回目です。
 イエス様のご生涯の出来事を物語る福音書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、四つがありますが、四つの福音書は、しばしば、ヨハネの黙示録で、天の玉座の周りに、著者ヨハネが見たという四匹の獣、獅子のようなもの、若い雄牛のようなもの、人間のような顔を持つもの、空を飛ぶ鷲のようなものに譬えて語られ、そして、絵画、ステンドグラスなどにも象徴的に描かれています。
 人間のような顔を持つものは、福音書の中で一番短く率直なマルコをあらわし、獅子のようなものはマタイをあらわします。それは、マタイが特にイエス様をユダヤ教で待ち焦がれられていたメシア、ユダの部族の獅子と見ているからです。また、若い雄牛のようなものとは、ルカをあらわします。ルカは弱者への愛を深く語る福音書でありますが、雄牛は労働と犠牲の動物であることになぞらえ、イエス様を人間の僕であり、また全人類の普遍的な犠牲として捉えているからです。
 そしてヨハネ福音書は、鷲にあらわされています。それは、すべての生き物の中で、鷲だけが太陽を直視しても目がくらまないということに由来しています。光を直視し、永遠の神秘と真理、また、神の御心に対し、ヨハネ福音書は非常に深い洞察力を持っていると考えられているからでありましょう。
 
 そのようなヨハネによる福音書ですが、イエス様の誕生の物語はありません。これはマルコ福音書と同様で、ヨハネはマルコ同様に、イエス様の宣教のご生涯、すなわちバプテスマのヨハネの登場から、イエス様の歩まれた道を語り始めます。
ヨハネは「初めに言があった」と、イエス・キリストは神の言であり、イエス・キリストが神の被造物ではない、すべてのはじまりから神のふところにあられ、働いておられた神の御子であることを宣言し、そして、先週お読みいたしましたが、1章6節から、洗礼者のヨハネについて語ります。
 これまでずっと読んで参りましたルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生の物語から始まりました。洗礼者ヨハネはイエス様の親類に当たる人であったということが、ルカでは記され、洗礼者ヨハネとイエス様の生まれはほぼ半年違いくらいで、ほぼ同い年であったということも分かります。マタイによる福音書を除いて、福音書のはじめに洗礼者ヨハネが登場しているのです。洗礼者ヨハネという人が、イエス様の到来に於いて、どれだけ大切な人であったか、ということでありましょう。

 しかしヨハネによる福音書は、洗礼者ヨハネが、どこに居て、どのようなことを行っていたかということについては殆ど語っておりません。どうやらヨハネ福音書著者は、洗礼者ヨハネの人物像については問題にしていないようです。そのような、ヨハネ福音書が洗礼者ヨハネについて最初に強調する点は、「洗礼者ヨハネはメシア=ユダヤ人の待ち焦がれられていた救い主」ではないということです。このことは、現代を生きる私たちから見れば当たり前のことですが、当時の人々の状況からしますと、このことは証明すべきことでありました。それほどまで、当時の洗礼者ヨハネは、人々を惹きつけていたのです。

 洗礼者ヨハネについて少し説明をいたしますと、マルコとマタイは、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」と、彼のありようを語っています。
 イスラエルは肥沃で豊かな土地と、岩だらけの荒れ野が二分されたように混在する不思議な土地です。
 塩の海とも言われる死海の周辺は、ほぼ荒れ野です。その西側の洞窟から、1948年死海文書と呼ばれる、イエス様の時代に残されたエステル記を除いた、旧約聖書の写本が発見されました。その近辺には住居跡が見つかり、そこはおそらくはクムラン共同体と言われるユダヤ教の一派であるエッセネ派の人々が共同生活を送っていた場所であったと言われています。
 クムラン共同体の人々は、孤立した、また非常に禁欲的な男性だけの共同体であり、お金を持たず、聖書の写本をすること、聖書の研究をすること、また律法を学び、律法の解釈に於いては、ファリサイ派よりも厳格であったと言います。
 そして洗礼者ヨハネは、エッセネ派で、もしかしたら、このクムラン共同体とも関係を持っていたのではないか、と言われています。

 ルカによる福音書によれば、洗礼者ヨハネは、祭司の子。すなわちユダヤ人サドカイ派の家庭に生まれた人でした。祭司というユダヤ教の特権階級として生まれた人が、荒れ野にいるのは不思議なことです。神との交わりの中で、特別な召命を受けて荒れ野に行ったということがまず考えられますが、洗礼者ヨハネの父母、ザカリアとエリサベトは、ヨハネが生まれた時は既に高齢でしたので、ヨハネが子どもの頃に、早く召されてしまったことは大いに考えられます。クムラン共同体は岩に覆われた荒れ野に暮らす、男性だけの共同体ですが、そこでは親を失った孤児たちが、育てられていたとも言われています。もしかしたら、孤児となったヨハネは、荒れ野の共同体で養われたのかもしれません。もしそうであるとすれば、洗礼者ヨハネは、子どもの頃から、荒れ野という困難な地で徹底的に神に向き合う生活をするという、非常に特殊な環境の中で生きてきた人であったことでしょう。そのような中で、自分を捨て、神に生きるということが、徹底的に身に着いた人であったのかもしれません。

 そのヨハネの許に、マタイ、マルコ、ルカによれば、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受け」ていたと言うのです。
 当時、多くの人々は、洗礼者ヨハネを、ユダヤ人の待ち焦がれていたメシアだと信じ、洗礼者ヨハネの洗礼運動は、ユダヤ教の中で大きなうねりとなっていたと申します。そして洗礼者ヨハネは、その名のとおり、人々に、水の洗礼を授けておりました。

 洗礼ということ、ここに集う私たちの多くは、イエス・キリストの名のもとに洗礼を受け、教会に連なる者となりました。洗礼とは、自らの罪=神への背きを知った者が、イエス・キリストの御前で罪を悔い改め、洗礼の水を通してキリストの十字架と共に罪を葬られ、罪に対して死に、キリストの復活と共に、新しい、神と共にある命を生きる、その大きな命の転換の時ですが、洗礼者ヨハネが行っていた洗礼は、イエス・キリストの十字架以前の、ユダヤ教の中でのことですので、意味が違います。
 ユダヤ教に於いては、罪の清めのために、水が用いられていました。例えば祭司が献げ物をする時、亜麻布の長い服を着るのですが、それは聖なる衣服であるため、水で体を洗ってから着る、ということが律法で定められています。また、死体その他、汚れと定められるものに触れた後は、衣服を水洗いし、また身を洗うことも律法で定められています。
 そのように折々に、沐浴とも言われる体の清めを、ユダヤ人は絶えずして、身を清めておりました。
 そのように絶えず自らを洗い清めているユダヤ人は、すでに神の民でありますので、当時「洗礼」と呼ばれるものは、ユダヤ人には必要はなかったと言います。
 洗礼が必要なのは、他宗教からユダヤ教への改宗者でありました。
 しかし、洗礼者ヨハネのもとに集まって来ていた人々の殆どは、ユダヤ人でした。マタイ、マルコの記述によれば、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」と記されています。ユダヤ全土、またエルサレムの住民とは、ユダヤ人を指します。ユダヤ人が、洗礼者ヨハネの洗礼を受けるために、洗礼者ヨハネのもとに大挙して訪れている、これは大変な出来事でした。
 
 そこで、「ユダヤ人たちがエルサレムから祭司たちとレビ人たちをヨハネのもとに遣わし」ました。この「ユダヤ人」というのは、その指導階層、祭司、レビ人、ファリサイ派の人々を指します。彼らは、民衆に大きな影響を及ぼしている洗礼者ヨハネを警戒し、その教えに律法違反がないか、その運動が反ローマのメシア運動としてローマの支配層から嫌疑をかけらないか、自分たちの権威が奪われるものとならないか、警戒をしているようです。
 また、本来洗礼を受ける必要のないユダヤ人に洗礼を授けているということは、もしかしたら、本当にメシアかもしれない、と恐れていたのでしょう。旧約聖書エゼキエル書には、「わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる」(36:25)、またゼカリヤ書には、「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる」(13:1)のように、救い主到来が水の清めによって訪れるということが語られています。さらに、マラキ書には、救い主ではありませんが、救い主到来の前に道を整える人があらわれる、それは旧約聖書で死を通らなかったふたりのうちの一人、預言者エリヤであるということが告げられております。またさらには申命記には、「モーセのような預言者が立てられる」(18:15~)という約束があります。
 洗礼者ヨハネのもとにやって来たユダヤ人の尋問には、これらの御言葉に対する確認が含まれています。この尋問は一種の尋、裁判とも言える類のもののようです。

 やってきたユダヤ人たちは問います。
「あなたはどなたですか」と。
「あなたはどなたですか」と問われて、私たちは何と答えるでありましょう。人間は自分を大きく見せたいという欲求があるように思えますので、これこれこういう者です、と長々と自分の経歴の披瀝をしたりするかもしれません。
 洗礼者ヨハネは、その問いに対し、まず「わたしはメシアではない」と言い表し、それを証し=証言としました。
 尋問者は、メシアではないとの答えを受けて、いささかほっとしたのではないでしょうか、立て続けに問います。「それでは誰か、エリヤか、あの預言者か」と。それらの問いに対して、「違う」と洗礼者ヨハネは答えます。尋問者は「それでは一体誰なのか?自分を何だと言うのか?」とさらに詰め寄ります。
 洗礼者ヨハネは答えます。
「わたしは荒野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 
 東方の道路はでこぼこで、砂利も敷かれていない、荒れた道であったそうです。王がある地方を訪れるようになったり、征服者がその領地を旅するようになる場合には、道路はなめらかに整備をされたのだそうです。
 ヨハネの念頭には、そのことがあったのでしょう。そして、洗礼者ヨハネ自身は、「荒れ野で叫ぶ声」「声」だと言うのです。その叫ぶ声とは、1:15「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしより先におられたからである」という、救い主到来を告げる「声」です。
 ヨハネのそれまでの人生がどのようなものであったか、分かりません。先ほど申し上げてように、小さな頃孤児となり、エッセネ派の人々に預けられ、荒れ野で、孤独の中で神と向かい合いながら生きて来たのかもしれない。また、祭司の家系であったけれど、何らかの啓示を受けて、荒れ野へ出て来たのかもしれない。
 いずれにせよ、真摯に神のみを見上げ、身を低く、高ぶることなく生きて来た人であることに、違いありません。
「あなたはどなたですか」という問いに対し、私は「声」である、と証しするのですから。自分自身を神に献げ尽くした人の言葉です。そして、さらにイエスさまのことを、証しするのです。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と。

 洗礼者ヨハネは荒野で、救い主の到来を告げる「声」であり、人々に対しては、「用意をしていなさい。王が、救い主がもうすぐ来られるのだから」と告げているのです。そのためには、ユダヤ人たちには、罪の悔い改めの洗礼が必要であったのです。洗礼者ヨハネの洗礼とは、人が罪の悔い改めのしるしとしての洗礼でありました。

 洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼は、キリスト教会に引き継がれてゆきます。
 律法に於いては、ひとつの汚れがあれば、それに対応する身の清めが命じられていました。所謂、対処療法のような形式だったと言えましょう。
 しかし、洗礼者ヨハネの洗礼以降の、キリスト教会の洗礼は、命令でもなく、ただの形式でもありません。魔術であるわけもありません。あくまでも、己に問い、神を見上げ、自分自身を神の前にありのままさらけ出し、信じ、悔い改め、救い主の救いが私たちのうちに顕されることを、自分自身でまず求めることです。キリスト教信仰は、神の恵みのもと、神と向き合う人間の、真摯に自分自身を見つめ、神を見上げる、外側からの命令に拠らない人間の信仰に基づく意志が求められます。そして、水の洗いを受けるのです。それは、イエス・キリストの十字架と共に死に、イエス・キリストの復活と共に新しくされる、水を通って罪に死に、キリストに生きることです。
 さらにイエス・キリストを信じる私たちの信仰に、救い主は働かれ、洗礼者ヨハネの悔い改めの水の洗礼の先の、たしかな救いが、イエス・キリストを通して顕されるようになるのです。このことについては、来週お話しすることになると思います。

 ここにおられる多くの方は、既に水の洗礼を受けておられます。ただ一度の水の洗礼は、神の目に確かなことです。しかし、人間の側は、神の大きすぎる恵みをないがしろにする罪の性質がどこまでもはびこります。世を生きている限り、私たちは罪にさいなまれるものです。洗礼の重みを忘れてしまいます。
 絶えず、己を省み、罪を悔い改めつつ、洗礼の重みを大切に、世の生涯の終わりまで歩む者とならせていただきたいと願います。そして、自らを高ぶることなく、神の前に、絶えず謙遜にへりくだった者として、神と人とに仕える者でありたいと願います。
 洗礼者ヨハネが、「あなたはどなたですか」と問われて、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答えたほどに、神と自分との関わりに於ける、自らの使命を謙遜に受け止め、神の御心を生きる者とならせていただきたいと願うものです。
 そのために、何より大切なのは、週に一度、前の週にあったすべてのことを、恵みも喜びも悲しみも携えて、教会に集うことです。イエス・キリストに贖われた者の生活の起点は、礼拝であり、礼拝から世に送り出され、また礼拝に戻ってきます。その繰り返しによって、私たちはイエス・キリストの御心を行う者とならせていただけることでしょう。

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