「イエスの洗礼」(2017年5月7日礼拝説教)

ラキ書3:23~24
ヨハネによる福音書1:29~34

「初めに言があった」
 ヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。創世記1章のはじまりは「初めに、神は天と地を創造された」とあり、「初めに」ということが、ヨハネ福音書、創世記共、強調して書かれています。ヨハネによる福音書は、創世記第一章を非常に注意深く意識しながら福音書の冒頭を書いています。
 そんなヨハネによる福音書ですが、今日お読みした箇所は「その翌日」という言葉から始まっています。何の翌日かと言えば、先週お読みした箇所、洗礼者ヨハネのもとにユダヤ人たちがやってきて、ヨハネが「わたしはメシアではない」と言った日の翌日ということになります。
 さらに、35節にも「その翌日」とあり、43節でも「その翌日」と、翌日という言葉が続き、2章はじめは「三日目に」という言葉から始まります。これらの日を数えていくと、7日間ということになります。
 創世記によれば、六日間を掛けて、主なる神は万物をお造りになり、七日目に休まれました。ヨハネによる福音書は、神の創造を非常に意識しつつ、綿密に福音書を書き始めています。
 そして、今日の個所は二日目。
 この箇所で洗礼者ヨハネがイエス様を「見た」ことが記されます。マタイ、マルコ、ルカがイエス様の洗礼を記す時には、イエス様がヨハネのもとにやってきて、そこで洗礼を受けられた「その時」のことが語られていますが、ヨハネに於いては、イエス様の洗礼の場面はありません。イエス様の洗礼は、洗礼者ヨハネの「証し」として、先週お読みした「わたしはメシアではない」という証しに続いて、「この方こそ神の子である」という証しとして続いて行きます。そして翌日には最初の弟子たちが召し集められ、そのまた翌日には、フィリポとナタナエルが弟子とされ、そしてすべての備えが整えられていきます。
 ヨハネによる福音書1章が、創世記1章と照らし合わせられつつ書かれているのは、洗礼者ヨハネの登場からイエス・キリストの福音宣教のはじまるまでのプロセスを、神の創造になぞらえ、イエス・キリストの宣教の御業が始められるまでの備えの期間と捉えており、神が万物を創造され、安息なさった日を経て、イエス・キリストの宣教の業が始まっていったことと対照しつつ語り始めていると言えましょう。
 第七の日は、カナの婚礼の出来事です。創世記1章と照らし合わせながらヨハネ福音書の冒頭を読んで行きますと、敢えて「その三日後」と記され、7日目の出来事として語られている、数週後にお話しするこということになる、所謂「カナの婚礼」の出来事は、特別な意味を持つものとして語られていることが見えてきます。

「わたしはメシアではない」と語った洗礼者ヨハネですが、二日目の日、イエス様が洗礼者ヨハネのもとに近づいてきていることを「見」ました。
 ヨハネによる福音書は、「見る」という言葉を独特な意味合いを持って用いています。「見る」ことは信仰に繋がり、ヨハネ福音書が「見る」と言う時、神の栄光を「見る」ことに繋がって行きます。
 ヨハネは語ります。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と。ヨハネは、「小羊」に神の栄光を「見て」います。

「小羊」と言いますと、小さな可愛いふわふわとした羊をまず思い浮べると思います。ルカによる福音書には、失われた一匹の羊を、羊飼いが探し求める姿がイエス様の譬えとして語られています。そのような温かいイメージ。
 私の部屋には、お気に入りの絵葉書が飾ってあるのですが、それは『ペレの新しい服』という絵本の中の一ページです。少年ペレが、自分の飼っている羊の毛を刈って、服を仕立てて貰うというお話なのですが、花咲く丘で、ペレが自分の飼っている羊を満足げな顔で抱き上げている絵です。羊もゆったりとした顔をして、「羊飼いは羊を愛している」ということを思わせ、また地道な生活の豊かさが伝わる、ほんわかした絵です。
 聖書は、神を羊飼い、私たち人間を羊として語りますので、その意味で、このほんわかとしたぬくもりのある羊飼いの少年と羊の絵は、神と私たちの関係に相応しい絵だと思い、飾っています。
 しかし、「神の小羊」と洗礼者ヨハネがイエス様を見て語るところの「小羊」とは、絵本の絵のようなぬくもりのあるものではありません。スルバランという画家の「アニュス デイ(神の小羊)」という絵がありますが、それは、前足と後足の四本を束ねて結ばれ、屈みこむ、これから生贄として屠られようとしている小羊の、非常にリアルな絵です。その目と結ばれた四肢、その体の線、無力で死に定められているその姿は、強烈な印象を見る者に残し、生贄とされる羊の憐れさが、心に重いものを残します。その絵は、ヨハネの黙示録に出てくる、「屠られた小羊のようなもの」をイメージして書かれたものだそうで、それこそ、洗礼者ヨハネの語る「神の小羊」イエス・キリストそのものです。
 旧約聖書の出エジプト記の中で、奴隷であったイスラエルの民が出エジプトをする前に、神に命じられ、それぞれ小羊を屠り、その血を、家の入り口の二本の柱と鴨居に塗り、それが神の裁きが過ぎ越し、災いを免れるしるしとなりましたが、洗礼者ヨハネがイエス様を「神の小羊」と呼ぶ時、それは、出エジプトの時に屠られ、救いのしるしとなった小羊と、その流された血を見ています。洗礼者ヨハネ自身が神によって遣わされ、行っている、人々が悔い改め、神と共に歩む道を整えるために授けている洗礼は、やがてキリストが、すべての人の罪をその身に帯びて死なれる、そこに神の救いが顕されるということへの備えのためであり、そのためにヨハネ自身は「声」として召され、「主の道をまっすぐにせよ」と叫び洗礼を授けているのだということを知っています。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。この「見よ」という言葉は、「神の栄光」を「見る」信仰を求める言葉であり、それに続く「世の罪を取り除く神の小羊」とは、すべての罪を取り除くために、生贄として屠られる犠牲の小羊。四肢を結ばれ、無力に屠られるその姿に、洗礼者ヨハネは、イエス様が後に架かられる十字架の死、すべての人の罪の赦し、その先にある神の栄光を「見て」いたのです。

 洗礼者ヨハネのことを、ルカによる福音書で、イエス様は「来るべきエリヤである」と、救い主の到来に先立って来る、道を備える人として語っておられます。またマタイによる福音書11章で、「では何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく、預言者以上のものである」(11:9)と、洗礼者ヨハネのことを語っておられます。
しかし先週お読みした箇所に於いては、洗礼者ヨハネ自身が、自分はエリヤであることを否定しております。申命記で語られている、「あの預言者」であることも否定しています。そして、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と申しました。このことは、洗礼者ヨハネ自身の謙遜を表していると言えましょう。しかし、洗礼者ヨハネは、イエス様の言われるとおり、神の言葉を聞いて告げる預言者、預言者以上の人でありました。
 お読みした1:32で、洗礼者ヨハネは、「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」と語っています。「わたし=ヨハネに言われた」、語られた方は、主なる神であり、洗礼者ヨハネは、その方の声を聞いています。また、どなたが、何をするためにヨハネ自身を遣わしておられるかということを知っています。洗礼者ヨハネは神の言葉を取り次ぐ預言者であり、またイエス様の言葉のとおり、預言者以上の人でありました。
 そして、洗礼者ヨハネは、イエス様に洗礼を授けた時、「霊が鳩のように天から降って、この方=イエス様の上にとどまるのを見た」のです。
 イエス様こそ、洗礼者ヨハネが神によって告げられていた、神の子、神の小羊であった、洗礼者ヨハネはそのことを、見て、証しし、語っているのです。

 イエス様は何故、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられなければならなかったのか?このことは、キリスト教の歴史の中でも、非常に議論のあったことのようです。私自身も、ずっと不思議に思っておりましたし、求道中の方から、このことについて尋ねられたこともありました。
 マタイによる福音書では、イエス様の洗礼について、イエス様ご自身の言葉が残されています。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と。まことの神であり、まことの人として、人間の弱い肉を持って世を生きられたイエス様にとって、人間がなすべき「正しいこと」、ここでは「悔い改めの洗礼」を受けることは、相応しいことである、というのがイエス様の答えでありました。
 しかし、ヨハネ福音書に於いては、そのようなイエス様の言葉はありません。あるのは洗礼者ヨハネの言葉で、30節で「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」という言葉です。さらに「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」と。
「わたしよりも先におられた」と、洗礼者ヨハネはイエス様のことを認めています。ルカによれば、洗礼者ヨハネとイエス様は、生まれがおよそ6カ月違いの親戚です。ヨハネが月上です。しかし、イエス様のことを「わたしよりも先におられた」と語っている。それは、イエスというお方が、ただの人ではなく、世の造られる前から、神と共におられた神の御子である、ということをヨハネは、神の啓示によって知っているのです。
 そして先におられたお方、神の御子が、人間である洗礼者ヨハネから、水による悔い改めの洗礼を受けるということは、イエス様の「仕えるお方」としての謙遜を表し、また後に、そして今も教会の業として受け継がれている、洗礼者ヨハネの授けた悔い改めの洗礼が、神の御子イエス・キリストを通ったものとして受け継がれて行くということにも繋がって行くのでしょう。
 私も牧師として洗礼を授けますが、このような人間の授ける洗礼を、洗礼者ヨハネよりも「先におられたお方」、神の御子が受けておられるということ。それは教会の授ける洗礼という業を、神の御子を通して行われているということになりましょう。さらにヨハネ自身が、「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」と語ることは、イエス様は、ヨハネの洗礼を受けられましたが、先におられたイエス・キリストこそが、洗礼の創始者であられ、また教会の業が、キリストを通して行われ、受け継がれているというしるしとなるのではないでしょうか。

 さらに、ヨハネは語るのです。
「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と。さらに、「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」と。
 他の福音書が語るとおり、ヨハネが「見た」ことは、イエス様に洗礼を授けた時に、聖霊が鳩のように降って留まった、そのことでありました。
洗礼者ヨハネは、「見た」のです。イエス様の上に、聖霊が鳩のように降ることを。神の栄光を、その時ヨハネは見て、信じ、この人こそが、神の子であると証しをしたのです。「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」ことを。
霊=聖霊が鳩のように、イエス様が洗礼を受けられた時に降ったということは、人となられた神の御子イエス様の上に、洗礼を通して、聖霊が力と権威とを以って降られたということであり、また、水の洗礼という業は、洗礼者ヨハネの、そして後には人間の手によるものですが、神の業である、ということでありましょう。
 そして、聖霊を受けたイエス・キリストは、力を受けて、宣教の業に入って行かれるのです。
 
 洗礼者ヨハネの洗礼は、水による洗礼です。水によって罪を洗われる、また罪に死に、新しく生きることを意味します。それは、教会でも授ける、教会の業であり、神に背を向け歩いていた人間が、神に向き直り、イエス・キリストによって罪赦され、悔い改め、神のものとして新しい命を生きる、生涯の大きな転換のしるしとなる時です。
洗礼によってイエス様は、神の子としての力をはっきりと身に帯びられ、宣教の生涯へと向かっていかれました。そのように、私たちひとりひとりも、悔い改めの水の洗礼によって新しく造り変えられると言いますか、生きる場所を、神と共にある場所へと移され、新しい歩みを始めます。洗礼は教会の業ではありますが、神の恵みによる賜物です。

 しかし水の洗礼は到達点ではなく、信仰の入り口であるとも言われます。洗礼によって新しく歩み出す私たちですが、水による洗礼の先に、「聖霊によって洗礼を授ける」ということがイエス・キリストを通して、その先にある、ということが洗礼者ヨハネには告げられています。洗礼の時、聖霊が鳩のように降られ、聖霊の力を受けたイエス様は、さらに人々に「聖霊による洗礼」を授けることになると言うのです。
「聖霊による洗礼」ということをひとことで申し上げれば、イエス・キリストを信じ、罪の悔い改めをし、小羊なるイエス・キリストの十字架の贖いを受け、罪を取り除いていただき、神の恵みの許に置かれた者には、ペンテコステの時に弟子たちに与えられた聖霊=復活のキリストの霊が、私たちのうちに留まられる、神の霊が、私たちに絶えず留まってくださるようになるということと言えましょう。イエス・キリストが絶えず、信じる者と共に居て下さる。イエス・キリストの十字架と復活の新しい命が、信じる者の内側に留まり、泉のように絶えず溢れ出る。そのように、具体的に神の力に呼び覚まされる経験として顕されるとでも言うのでしょうか。
 神の愛は、人を片時もひとりにはされないほど、深いのです。そのように、神の霊であられる聖霊は、イエス・キリストを通して、絶えず私たちと共にいてくださる神として、信じる者の上に、降られ、内に留まられることになります。そして私たちは、聖霊によって強められ、どのような困難な時にも神が共にある平安に満たされる、そのような直接的な神の働きが絶えず共にある生き様を与えられるとも言えましょう。

 ヨハネによる福音書は、このことを、この先も、さまざまな言葉を用いて語り続けます。
 聖霊による洗礼は、イエス様の十字架と復活の後、与えられることになります。
 聖霊は十字架と復活の後に与えられる、イエス・キリストの霊。イエス・キリストによる聖霊による洗礼ということを知る時、神に近づく唯ひとつの道は、イエス・キリストを信じる信仰による、ということを、私たちは世に与えられたただひとつの真理として悟ることになることでしょう。
 鷲がまっすぐに光を見つめて光に向かって飛んでゆくように、私たちもまことの光なる、ただひとつの真理なるイエス・キリストを一心に見つめ求めつつ、イエス・キリストの恵みのうちを生きるものとならせていただきましょう。

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