「神の愛を実現するために」(2017年5月14日礼拝説教)

「神の愛を実現するために」
サムエル記下1:23~26
ヨハネの手紙一2:1~11

「愛」
 この言葉の響きは、私たちにとってとても心地のよいものです。
 私ははじめて聖書を読み始めた頃、コリントの信徒への手紙一13章、「愛は寛容であり、愛は情け深い、また妬むことをしない、愛はたかぶらない、誇らない、自分の利益を求めない・・・」という、所謂聖書の中で「愛の讃歌」と呼ばれる御言葉を口語訳で読んで、心から感動をしたことを覚えています。何度も読んで暗誦するほどに読んで、愛っていいなぁと、素晴らしいなぁと、うっとりしていました。

 今日は母の日ですが、私たちの多くは恐らく、生まれて初めての愛を母親から受け取り、愛される中で、信頼することを覚えて、さらに愛するということがどういうものかを知り、愛することが出来るものに変えられて行っているのであろうと思います。愛された経験がもしなければ、私たちは愛するということがどういうことなのか分からないことでしょう。
母の愛は、神の愛に譬えられます。神の愛、ギリシア語でアガペー。無償の愛とも言われる言葉です。
 私たちの初めに受けた愛、母親の愛、しかしそれは多くの犠牲の上に成り立つ愛だと言えないでしょうか。女性が子どもを産むということは―私自身は経験をしていないのですが―体に大きな負担と痛みを伴うことであり、また、子どもを育てるために、母親となった女性は、自分自身のための時間も持てるものもすべて、まず子どものためにささげます。若い時に子どもを産んだとしたならば、他の人たちが青春を謳歌して夢を見ながら遊んでいられる時間を犠牲にして、子どもを育てます。時間も、経済も、そして、子どものためなら命をも惜しまない。多くの母親はいざという時、そのような行動に出るほど、自分を捨てて我が子を愛しておられると思います。
 愛という言葉にただ感動して、うっとりしていた若き日の私でしたけれども、そのような母親の愛と同様に、聖書が語る無償の愛、アガペーとは、ただ受けて、愛を受けるという心地良いものではなく、「ひとつの犠牲」があって、その上で初めて成り立つものなのではないかと思うのです。

 今日お読みしたヨハネの手紙で、ヨハネは「新しい掟」ということを語ります。ヨハネによる福音書13章には、イエス様の言葉として、「新しい掟」という言葉が語られます。お読みいたします。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(13:31~35)と。
 このイエス様の言葉と同様に、今日お読みした箇所で語られている「新しい掟」とは、私たちが「互いに愛し合う」ということです。新しい掟を行いなさいとここでヨハネが語る理由は、「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(1:9)と語られています。光とは神の御子イエス・キリスト。イエス・キリストは私たちのただなかに来られました。光は既に私たちには顕されている。光がまだ来ない間、あなたがたは、闇の中を歩いていたけれど、今はイエス・キリストという光が来られたのだから、その光の中を歩きなさい、イエス・キリストの光の道を歩むということは、「互いに愛し合う」という、新しい掟を生きることだ、とヨハネは語っているのです。

「愛し合う」
 やはり心地のよい言葉です。ただただひたすらゆったりと愛されて、また愛することだけのために生きておれたらどれだけ幸せなことでしょうか。
 先ほど、私は、信仰を持ち始めた頃、コリントの第一の手紙13章の所謂「愛の賛歌」にうっとりして、何度も暗唱するほどにその御言葉を読んでいたということをお話しいたしました。私は信徒の時代、ずっと教会学校のリーダーをやっていたのですが、ある時、私は教会学校中高科の説教で、コリント13章を語ることになりました。「大好きな聖句だから、多分すぐに出来る」とたかをくくっていたら、机の前に座って、説教を書こうとしても、一行も書けないのです。書けなくて、苦しくて、そうしているうちに土曜日の夜の12時近くになってしまいました。
 その頃の私は、御言葉をただ美しいと思うだけでなく、コリントの信徒への手紙で語られる「愛の賛歌」と言われる御言葉との闘いの経験ということも、自分なりにしてきていたと自分で思っていました。
 ある時、私にとっての愛は、「寛容でなく、情け深くなく、妬み、高ぶり、自分の利益だけを求め、いらだち、恨みすら抱く」と、「愛は寛容であり、愛は情け深い。また妬むことをしない。高ぶらない。誇らない。自分の利益を求めない。いらだたない」という御言葉と正反対の自分の有様にはっと気づいて、神様の御前に涙ながらに悔い改め、自分のあり方を見つめ直したことを記憶しています。(その後、三浦綾子さんが同じことを語っていることを読んだことを覚えています。)御言葉のひとつひとつが、自分の自然に沸き起こる感情とは反対のであったということに気づき、驚きました。
 そして、何とか自分自身が御言葉を行う人になりたいと、願っていたと思います。でも、気づくには気づいても、日常の中で繰り広げられる人間関係の中で、私は御言葉と自分の感情のどちらを選ぶか?という時、「だって」とか「こんなことなんだから仕方ない」など、いつも言い訳がましく、自分の湧き上がる感情をどこまでも肯定して、自分の心の罪を、罪としてそのまま放っておいていたように思うのです。心が御言葉に追い付いていかないまま、御言葉がこう語っているからと、自分を御言葉に合せていくことは、何となく偽善的で、また自分自身というものが失われてしまうように思えたということもあったと思います。自分の罪ととことん向き合わなければ、私は本当に御言葉に従う人にはなれないと思っていたようにも思います。絡み付く罪と、私なりに格闘をしていたとは思うのですが、どうしても自分自身に甘く、私は「いざ」という時に、聖書の御言葉という光に背を向けて、頑なに自分の心に自然に湧き上がってくる思い、あくまでも自己中心的で罪に満ちた思いの中に自分が居ることを、またそのような自分を自分で許し続けていたと思うのです。
 でも、自分を赦すのは、自分ではありません。それが出来る前提には信仰が必要でありましょう。時に自分に厳しくなりすぎる時、自分で自分を許すことも必要でしょうが、それであっても、まず神の御前にまっすぐに立つことからはじめるべきです。そうでなければ、ただなし崩しの甘えになりましょう。まことの赦しは、神の許にあるのです。
 
 イエス様はすべての人間の罪をその身に背負い、十字架の上で、すべての人の罪の身代わりとして死なれました。そのように神の御子が、人間としての生涯を閉じられました。身代わりとなって死なれるということ、今日の箇所で、ヨハネは「いけにえ」という言葉を使って語っています。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」と
「罪を償ういけにえ」とても厳しい言葉です。
「いけにえ」とパソコンに入力して出て来た画像は、目を覆うようなものばかりでした。殺される動物の画像です。罪を犯した人間が罰を受ける代わりに、動物が代わって死ぬこと、罪赦されるための動物の死を「いけにえ」と言うのです。神の御子がそれらの動物と同じに、「罪を償ういけにえ」であったと聖書は語っています。
 
 罪というのは、神様に背くこと。神様なんか知らないよと言って、神様を忘れて神様の方向とは反対方向の道を歩いて生きて行くことを言います。
 地上の人間社会でもそうですが、罪を犯したら、自分でその罪を償わなければなりません。その罪が警察に捕まってしまうような罪であれば、「懲役何年」という風に、刑務所の入って、「罪の償いをする」ということが、具体的に起こってきます。

 私は、自分の中の、神様に、御言葉に背き続ける「罪」を、イエス様を信じると言いながら、ほったらかしにしてきていました。イエス様を信じると言いながら、御言葉を行うことを、本当にはしてきていなかった。イエス様によって救われて、闇が去り、まことの光が照らされているにも拘らず、私はそれでも尚且つ、光に背を向け、闇を、自分の心のうちばかりを見つめていたのです。そして、自己弁護ばかりをしていたのだと思います。
そのような私が、御言葉で愛を語るためには、そのような自分を神様の御前で悔い改めることが必要だったのです。
―だから、説教が一行も書けなかったのだ―
深夜12時過ぎ、私は気づきました。そして、再び、神様の御前に悔い改め、泣いて、自分はどれだけ御言葉に背いていたか、ということから説教を書き始め、翌日、御言葉を語ることが赦されました。

 罪を犯しても、自分の犯した罪を、本当に悪いことをしてしまった、ごめんなさい、とイエス・キリストの前で心から罪の赦しを願ったならば、イエス様は「ごめんなさい」という私たちに代わって、私たちが受けるべき罰を、痛みを、十字架という死によって代わってくださる御方です。
 私たち人間の罪は、イエス様の十字架の死という、私たちの罪に対する代価を払っていただくことによって、その犠牲を払われたことによって、犠牲の愛によって、はじめて赦されるのです。私のために神の御子が死んでくださったのです。
今日お読みした箇所で、「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1b~2)と語られています。
翌日、説教を語ることが出来た私は、罪の悔い改めによって、イエス様の十字架によって、赦され、憐みの中に置かれていたと思うのです。

 イエス様は「罪を償ういけにえ」として、十字架に架かられ、死なれました。それは、私たちひとりひとりの神への背き、罪に対して、私たちが受けるべき罰の代わりにイエス様が十字架に架かられた、そのことによって、私たちは神様の御前に「罪はない」者とされて、過去にどのようなことがあったとしても、どのように重い罪を犯したとしても、神様の御前に「あなたの罪は赦された」と、宣言をしていただける者として、生きる道が拓かれたのです。
 もし、世の刑罰を受けるような罪を犯していたなら、それはそれでこの世の定めとして従わなければなりませんが、それであっても、神様の御前には、本当に心から自分の犯した罪をごめんなさい、とイエス様の十字架の御前で悔い改めた時、神様の御前で、罪は帳消しにされて、イエス様が、父なる神様に「この人には最早罪はありません」と申し開きをしてくださるのです。そして、終わりの時にも、イエス様は、主なる神の御前に立つ私たちを、「この人には罪はありません」と、証言してくださいます。

 私たちは、それほどまでに、イエス様に愛されているのです。
母親は、産まれた子どものために多くの犠牲を払い、命を掛けて子どもを育てながら生きます。イエス様は、私たちを愛されるが故に、十字架の上で、その命を捨てて、私たち人間を救う道を拓かれました。イエス様は、その犠牲を払って、私たちに救いの道、神と共に生きる命を与えてくださいました。私たちには、おひとりの神のひとり子の犠牲によって今、闇ではなく、新しく生かさる光の道が既に示されています。
私たちはイエス様の御前に罪の悔い改めをした時に、過去のすべてのことは、どんな罪をも赦されます。さらにイエス様のまことの光の道を歩くということは、イエス様に赦された者として、また、自分は罪を赦されなければ生き得ない者なのだということを知り、イエス様に従って、神の言葉を守って生きることです。

 神様の御言葉は、私たちの耳には聞こえが良く、心地よい。でも、自分がそれを本当に行おうとする時は、自分のうちにある罪との葛藤、闘いが必ず起こって来ることでしょう。しかし、そのような時、私たちは、「神の言葉を守る」ということを、選び取るものでありたいと願います。
「互いに愛し合いなさい」という、神の掟。これはきっと、私たちにとって易しいものではありません。愛憎紙一重という言葉もありますように、私たち罪ある人間の心は、愛が憎しみに変わってしまうということが、実際、いとも簡単にあるのです。そのような弱い「心」を持つ私たち人間です。
 しかし、私たちは既にイエス・キリストの光に照らされている者たちです。自分自身の内側から、神の光に照らされることを祈り求めつつ、御言葉を、神の道を、互いに愛し合いなさいという掟を、ひたすら求めて参りましょう。
 何よりまず、イエス様の十字架によって赦されなければ、その愛の故の犠牲がなければ、神の御前に立つことが出来ない「私」であることを、謙遜に知る者でありたいと願います。
 また私たちの教会がそのように互いに愛し合う群として成長していきたいと心から願うものです。