イエスは永遠の祭司(2017年5月21日礼拝説教)

「イエスは永遠の祭司」
創世記14:17~21
ヘブライ人への手紙7:11~28
 
 今日は、「ヘブライ人への手紙」をお読みいたしました。
「ヘブライ人への手紙」のヘブライ人とは、ユダヤ人、イスラエル民族をあらわす、とても古い言葉です。一説に拠れば、イスラエル民族は自分たちを「イスラエル」という名称の民族であると自覚していましたが、他民族からは、「ヘブライ人」と、長い間言われていたとも言われています。いずれにせよ、ヘブライ人、イスラエル、ユダヤの人々に向けた手紙ということで、旧約聖書を知らなければ、なかなか理解し難い内容です。
 この難しいヘブライ人への手紙の特徴は何か?実はこの問いは、日本基督教団の補教師=伝道師になるための試験によく出題される問題で、確か、私が試験を受けた時にも出題されていて、書いた記憶があるのですが、これを忘れてはならない特徴として、「大祭司キリスト論」というものがありました。「大祭司キリスト」という、聖書の他の文書には出てこないキリストの称号が出てきて、またそのことの意味について詳細に語られているからです。

 祭司というのがどういう人たちかと言いますと、人間と神の間に立つ人々、というのが根源的な役割と言えると思います。そして旧約聖書の律法に於ける、祭司の具体的な役割は、人々が自分の犯した罪を神に赦していただくため、自分の罪の身代わりとして犠牲とするために引いてきた動物を、切り裂き、燃やして煙にする。それが、古代イスラエルに於ける、神への礼拝の姿でした。
 今日お読みしたはじめ、7:11に「ところで、もし、レビの系統の祭司制度によって」と語られておりますが、祭司の役割は、モーセ以来、律法の定めによって、イスラエル12部族の中で、レビ族が担っておりました。レビ族というのは、神殿また古くは幕屋に於いて、神に犠牲の動物を献げる、その役目を担ったり、また幕屋の移動の時には、契約の箱、そして祭具や幕屋を運ぶ役目など、神を礼拝することのための役割を担う、イスラエル12部族の中でも特殊で特別な部族だったのです。
 そして、その中でも大祭司というのは、ただひとりの祭司の長であり、大祭司は年に一度、至聖所と言われる、幕屋の一番奥、契約の箱が納められているところに自分自身のためとすべての民の罪の贖いのために献げる動物の血を携えて入り、その血を祭壇に注いで罪の贖いのための儀式を行うという特別な役目を担う人でした。初めの大祭司は、モーセの兄であるアロンでした。
 このヘブライ人への手紙の重要テーマは、イエス・キリストを、そのような人々の罪を贖う儀式を行うお方、「大祭司キリスト」であるということを、先にお話しいたしました。すなわち、すべての民の罪の贖いのための動物の血を携え、罪の赦しの儀式を行う人が、イエス・キリストであるというのです。
 しかし、イエス様は、イスラエル民族の血統の中にお生まれになられましたが、レビ族の血統ではありません。マタイによる福音書の冒頭のイエス・キリストの系図を見ますと、イエス様の家系は祭司の家系のレビ族ではなく、ユダ族に属しておられます。14節にも「わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかです」と語られています。
今日の箇所では、大祭司であるイエス様が、旧約聖書の律法に定められたレビ族の出身ではない、ということが問題とされ、「アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司」と語られます。そして、この「メルキゼデクと同じような大祭司」とは、イエス・キリストを指しています。
それにしても、メルキゼデク、この名前をご記憶の方はどれだけいらっしゃるでしょうか?この名前は、今日お読みした、創世記14章と、ヘブライ人への手紙、そして、詩編110編だけに出てくる人名です。そして、詩編110編は、今日お読みしたヘブライ人への手紙7章の中の17節と21節の「」の中で引用をされています。
 たった、3箇所出てくるだけのメルキゼデク。しかし、今日お読みしたヘブライ人への手紙で語られている、「メルキゼデクと同じような別の祭司」(15節)また、引用されている詩編110編の中の「あなたこそ永遠のメルキゼデクと同じような祭司である」とは、実に私たちの主イエス・キリストのことを語っているというのは、先ほど申し上げたとおりであり、とても不思議な語り口です。

 メルキゼデクとは、アブラハムの生きた時代の、サレム―後のエルサレム―の祭司であり、王でありました。メルキゼデクはイスラエルの民ではありません。と言いますか、アブラハムの時代というのは、旧約聖書の歴史の始まりですが、まだ、イスラエル民族というものは存在していない時代です。ただ、主という神が、アブラハムに顕れて、アブラハムに、「土地を与える」ということ、さらに「子孫を星のように増やす」という契約を与えられて、イスラエル民族の基が据えられた時代でした。
 アブラハム物語をここで詳しく語ることは出来ませんが、この時のアブラハムは、ゲドルラオメルの連合軍を打ち破り、甥のロトとその財産全部を取り戻すことができた時でした。その時、サレムの祭司であり王であるメルキゼデクが、アブラハムのもとにやって参りまして、「天と地を造られた方、いと高き神」がアブラムの手に勝利をもたらされた方であること知らせたのです。そして、そのお方に栄光を帰すことを促すためでした。メルキゼデクのこの突然の訪問は、アブラハムに「天と地を造られた方」こそ、「いと高き神」(エール・エルヨーン)、であることを教えるためであったと思われます。
 アブラハムはそれまで、自分に顕れた神は、「主」という名の神であるということしか知りませんでした。けれども、メルキゼデクによって、アブラハムに顕れた、主なる神こそが、すべての名にまさる最も高いところにおられる神、「いと高き神」であるということを、祭司であり王であるメルキゼデクによって知らされたのです。

 この時、メルキゼデクは「パンとぶどう酒」を持ってきておりました。これはきわめて象徴的です。イエス様は、最後の晩餐の席で、パンを「わたしの体である」、またぶどう酒を「多くの人のために流される私の血、契約の血である」と言われました。私たち、後の教会は、聖餐式に於いて、絶えず、イエス様の十字架で裂かれた体と、流された血を思い起こしつつ、主の食卓に与っています。パンとぶどう酒は、主が私たちすべてのために、命を捨ててくださり、罪を贖ってくださったイエス様を表すものです。
このメルキゼデクの出来事は、イエス様の体(パン)と血(ぶどう酒)によって、つまり、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人は救われるという神のご計画を、メルキゼデクを通して預言的に示している出来事であると考えられます。

 旧約聖書の律法は、罪ある人間にとっては、守り得るものではありませんでした。人間は、神に与えられた律法によって、罪とは何であるかを知ることは出来るようになりましたが、律法によっては、神に近づくことは出来ないということだけを知らされることとなったのです。このことを、7:19では「律法は何一つ完全なものにしなかったからです」と語っています。
 すぐ前の18節では「その結果、一方では、以前の掟=律法が、その弱く無益なために廃止され」たとも語られています。18節で語られる「一方では」の一方とは、メルキゼデクと同じような、弱く無益なものとなってしまった、律法によるレビの血統ではない別の祭司、イエス・キリストが立てられたということを語っています。それは、不完全な律法によらない、もっと優れた、神に近づくことの出来る希望としての、律法によらない、別の祭司です。

 話が複雑で、大変申し訳ないのですが、先に、最初の大祭司は、モーセの兄であるアロンである、とお話しいたしました。この箇所で問題とされており、ヘブライ人への手紙の著者がここで熱心に語っていることは、レビの系統の祭司制度にはイエス・キリストはユダ族である故に、当てはまらない。メルキゼデクと同じような別の祭司である、そのような別の祭司が何故必要なのかということです。このことを、レビ族の祭司に拘る、ヘブライ人=ユダヤ人に対して語っているのです。
 時代の流れを思い返してみてください。レビ族が祭司の職に就いたのは、イスラエルの民がエジプトを脱出し、モーセを通して律法を与えられた後のことです。それに対し、メルキゼデクという「いと高き神」の祭司は、アブラハムの時代の人であり、イスラエル民族が律法を与えられるよりも、遥か前、具体的には600年も前の人です。レビ族の血統による祭司制度が始まる遥か前に、メルキゼデクは、主であり「いと高き神」の祭司として存在してあり、アブラハムに、戦いの勝利をいと高き神への栄光に帰すことを促しました。レビの血統の祭司よりも、遥か前に祭司としてあったメルキゼデクは、律法以前の祭司であり、ユダ族であるイエス様が、メルキゼデクと同じような祭司である、ということは、律法によらない、律法に拠らない祭司であり、律法を遥かに超える祭司である、ということです。
 人間である祭司には必ず死があります。動物を切り裂き、罪の贖いの執り成しをするにしても、その務めをいつまでも続けることが出来ない。死に定められています。
 しかし、イエス・キリストは、「聖であり、罪なく、汚れな」いお方です。このお方自らが十字架の上で、すべての人間の罪を取り除くために、自ら犠牲となり、苦しみの声を上げ、自らの血を神の祭壇に注がれました。イエス・キリストは動物の犠牲によらず、ご自身を献げることによって、すべての人の救いの道を拓かれました。イエス・キリストの十字架の死によって、神の御心は成し遂げられたのです。
 そして、イエス・キリストは死を打ち破り復活されました。そして、今も生きておられ、永遠に生きておられるお方であり、最早死はなく、永遠に生きておられ、今も人々のために執り成しをして下さっておられます。そして、ご自身の体(パン)と血(ぶどう酒)を通して、神に近づく人々=イエス・キリストを信じて、神の御前に立ち、生きる人々を、完全に救うことがお出来になるお方なのです。

 私たちは、レビの血統によらない、メルキゼデクのような大祭司イエス・キリストの裂かれた体、流された血によって、罪赦され、完全に救われたのです。神の御子は、ご自身の血によってすべての民の罪を贖いを救う大祭司となられました。そして、最早、動物の犠牲は全く必要のないものとなりました。ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人は救われるのです。
私たちの罪のために、執り成しをしてくださる大祭司なるイエス・キリストを、私たちの神、主と信じ、感謝を以って日々神の御前にまっすぐに立ち、世の戦いを戦い抜くものでありたいと願います。
 
最後に、今年は、マルチン・ルターによる宗教改革から500年目の年となります。10月31日がその日に当たります。
 ルターは、カトリックの修道士でしたが、当時のカトリック教会の腐敗―免罪符と言われるお札を買うと、罪が赦されると人々に語り、人々にそれを売りつけていた―という状況に対し悲しみ怒り、95か条の論題と言われるものを、ヴィッテンベルグ城に貼り付け、人が救われるのはただ信仰による、ということを語り、それが宗教改革、私たちプロテスタント教会の始まりとなりました。
 このルターの著作のひとつに、『キリスト者の自由』という本があるのですが、この中に、今日お読みした聖書箇所、旧新約二箇所ともに語られているメルキゼデクのことが語られています。
「キリストはメルキゼデクのように、天において見えざる務めを果たしていてくださる。その見えざる務めはふたつであった。ひとつは私どものために祈ること、もうひとつは、み霊をもって私どもを教えてくださること」と。イエス・キリストが「メルキゼデクのよう」とやはりルターは語っております。キリストは今も生きておられ、天において、私たちの目には見えないけれど、私たちのために祈っていて下さる、そして、御霊=聖霊を送り、私たちに直接教えてくださっている、とそう語っているのです。
 ルターはこれらの言葉に続けて語ります。「この主イエスの見えない務めを、見える具体的なこととして、この地上で行っている人たちがいる。それは、『肉による祭司たち』である」と。『肉による祭司たち』とは、私たちすべてのキリスト者のことを指しています。『キリスト者の自由』に於いて、ルターは、「イエス・キリストを信じている者は、王のごとく自由である。そしてまた、イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストのごとく僕のわざに生きる。」すなわち、イエス・キリストが目に見えないところでしてくださっていることを、執り成しの祈りと、教えること、すべての人をキリストのもとに導くよう御言葉をそれぞれの場にあって宣べ伝える働きをすることを、キリスト者すべてが、この地上に於いて、見える形で為している、世に於いてキリストの僕、祭司としての務めに生きていると言うのです。
 私たちプロテスタント教会の信仰の特徴のひとつに、「万人祭司」という考え方がありますが、「イエス・キリストが目に見えないところでしてくださっていることを、キリスト者すべてが、この地上に於いて、見える形で為している」という、このことが、「万人祭司」ということの意味です。絶えず祈り、神と人に仕えるのです。「万人祭司」とは、すべての人が司祭や牧師のように聖礼典を司る役目を担うという意味ではなく、すべての人がキリストのように僕となり、神の前にひとりひとりが立ち、神と人との間を執り成し生きる、神のための働きを為す者たちということ、それが万人祭司の意味です。
 メルキゼデクのような大祭司キリストがおられ、そしてすべてのキリスト者は、万人祭司である、これがルターの語ることです。
 キリストに贖われた私たちは、世に於いて、主の祭司です。祭司とは、神の御前に立ち、神と人との執り成しをする役割です。イエス・キリストを信じることに於いて、私たちもそのような祭司とされていると言うのです。
 これは厳しい言葉です。キリスト者とは、ただ、キリストの愛のうちにぬくぬくと生きる者ではなく、祭司という重い役割を担っているというのですから。
 
 祭司とされている私たち。それぞれに遣わされている場に於いて、絶えず執り成しを祈り、折を得ても得なくても、救いの御言葉を宣べ伝えるものでありたいと願います。
 祭司としての務めは、時に困難を伴うこともあることでしょう。かし、イエス・キリストは、私たちの大祭司は、今も生きて、私たちのために絶えず執り成しをしてくださっておられます。イエス様は永遠に生きておられ、私たちを片時も忘れることはありません。私たちがどのように苦しみや悲しみのうちに置かれることがあったとしても、必ず逃れの道と、神の御心を示してくださいます。
 アブラハムに勝利を与えられたのは、「いと高き神」であられたように、私たちの世の人生のさまざまな戦いにも、勝利をもたらしてくださるのは、私たちの主なる神です。大祭司なるイエス・キリストの十字架を通して、もっともっと、私たちは神に近づかせていただくものとなりたいと願います。そして、主の祭司として、今、置かれている場に於いて、どんな時にも神の御前に立ちつつ、主イエス・キリストの証人として生きることが出来るよう、何よりもまず、神を、神の国と神の義を求める者とならせていただきたいと願います。