「最初のしるし」(2017年6月18日礼拝説教)

列王記下4:1~7
ヨハネによる福音書2章1~11節
 今日は多くの方がよくご存知の、いわゆる「カナの婚礼」の御言葉です。イエス様が、婚礼の席で、水をぶどう酒に変えられたという奇跡物語です。この奇跡を、ヨハネ福音書は、「しるし」と語っています。「しるし」とは、イエス様の奇跡を表しますが、ただ奇跡=不思議な業にとどまらず、奇跡が、イエス様を神の御子=キリストであることを指し示す特別な言葉・出来事と言えましょう。
「しるし」という言葉をイエス様ご自身が語っている箇所があります。マタイによる福音書12章38節からですが、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。不思議な言葉ですが、旧約聖書ヨナ書のヨナは、大魚に飲み込まれました。聖書は寓話的にヨナの物語を書いていますが、実際飲み込まれ、食べられて魚のお腹の中にいるということは、胃の中に居るということでしょう。胃液で溶かされないのが不思議。魚のお腹の中、それは死を意味することでした。ヨナは三日三晩魚のお腹の中で、主への信仰告白の祈りをし、胃液の中でも命が守られました。その後、魚はヨナを陸地に吐き出し、ヨナは命を得ました。それが「よこしまで神に背いた時代に与えられるしるし」であるとイエス様は言われました。イエス様は十字架に架かられ、大地の中にあると考えられていた地下にある陰府という暗い死の世界に下られ、三日後に復活されました。ヨナのしるしは、イエス・キリストの死と復活に先立ち、顕された「しるし」、主の十字架と復活という、まことの救いがあらわれる前にあらわされた仮のもの、前触れ、雛形としてのしるしであったとイエス様は語られているのです。

 そして、今日の御言葉のはじまりは、「三日目に」とありますが、これは先週お話しいたしました、ナタナエルが弟子となってから「三日目」ということでありましょう。
 キリスト教会は、イエス・キリストの十字架と復活を経て誕生しました。十字架の死、それは、余りにも残酷な出来事でありましたが、残酷な、悲惨な死を超えて、三日目の朝、主は復活されました。三日目とは喜びの日です。
また、「三日目」ということと共に、1章19節からのバプテスマのヨハネの証しから弟子の召命の出来事が始まりましたが、先週のナタナエルが弟子になった日は、その日から四日目でした。四日目のさらに「三日目」ですから、それは備えの時が始まってから七日目。七日目と言えば、聖書に於いては安息日です。カナの婚礼は、安息日の出来事として語られているのです。
 安息日、主なる神がすべての業を終えて休まれた日。造られたものすべてを祝福した日。律法に於いては、労働をする人も、牛やろばも、皆休まなければならないと定められた日。働きの報いとして安らかに息をつき命の恵みを得る日。それが安息日です。
 カナの婚礼の出来事は、イエス様の死から復活された喜びの日としての「三日後」ということと、七日目の安息日、ふたつの意味が、重ね合わせられ顕された喜びの「しるし」としての出来事と言えましょう。二重の喜びのしるし、それは婚宴の席で顕されたイエス様の奇跡でした。

 婚宴は、それ自体が聖書では最終的な救いの象徴として記されています。神様とイスラエルの関係がしばしば花婿と花嫁に喩えられ、さらに「婚礼の宴」は神の国の食卓を表し語られます。さらに、終わりの日の神の国の祝宴は、正に花婿イエスが御自身の血によって贖い取られ、清められた花嫁である信仰者を迎える婚礼として描かれています。

 1節では「イエスの母がそこにいた」と記され、続いて2節で「イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」とあります。「イエスの母とイエス、その弟子も婚礼に招かれた」ではなく、「イエスの母がそこにいた」と敢えてまず記されているところから、母マリアとこの婚礼の主人は非常に近しい間柄であったこと、またこれを記したヨハネは、母の行動に注目していることがうかがえます。イエス様の母はマリアである、ということを、私たちは他の三つの福音書から知っておりますが、ヨハネによる福音書は、その名前を記しません。あくまでただ母とイエス様との近しい関係性を語っています。

 イスラエルの婚宴は1週間も続くのだそうです。その間、皆ずっとぶどう酒を飲み、御馳走を食し祝うのだそうです。
ぶどう酒が足りなくなったことに気づいた母はイエス様に言います。「ぶどう酒がなくなりました」と。母はこの家の台所事情まで知る親しい間柄であったのかもしれません。
 母マリアは結婚をする前にイエス様を聖霊によって宿し、その後ヨセフと結婚をし、イエス様を産みました。この不思議な子が、日常においてさまざまな不思議な業をすることを母マリアは見て知っていたのでありましょう。もしかしたら家の台所でも、足りなくなったと思ったものが用意されていたり、ということが日常茶飯事にあったのかもしれません。新約聖書偽典と呼ばれる文書の中にそのようなことを記された文書もあります。イエス様はそのように、困っている母をその神の子としての不思議な力で、ただ母に対する愛によって母を助けておられた・・・そう思うとなんか楽しいですね。
 イエス様は母の言葉のなかに「あなたなら用意出来るでしょう?」というニュアンスを感じられたのでしょう。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と、日本語にするとちょっと冷たく母子の関わりなどないような言い方で返されます。

「時」、ここでイエス様は、ギリシャ語で「カイロス」という言葉で返しておられますが、カイロスとは神の定められた時、ただ一度の定められた時。イエス様がこの言葉を使う時、イエス様が栄光を受けられる時を顕します。すなわち十字架と復活によって、神の救いのご計画が顕される時をさすのです。「ぶどう酒がなくなりました」という母の耳打ちに何故そのような「時」という言葉をイエス様がお使いになったのか、不思議に思えます。
 しかし、ここでの母の願いにイエス様が応えるということ―ぶどう酒を作り出すということは、特別な意味合いがありました。イエス様にとってはぶどう酒を作り出すという奇跡を行うということは、父なる神から与えられた、世に遣わされた意味、使命に関わることでありました。そのためここでイエス様はその十字架と復活の栄光の「時」を敢えて引き合いにお出しになって語られたのです。
 それにしても、マリアは母親ですね、息子のことをよく分かっている。自分の願いをないがしろにしない息子であることを知っている。完全に信頼している。そんな気がいたします。だから冷たいと思えるようなイエス様の「婦人よ、どんなかかわりがあるのです」という言葉にもまったくひるまず召使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言い残すのでありましょう。イエス様と母マリアとの深い信頼関係が感じられるやりとりです。

 そこには「ユダヤ人が清めのために用いる石の水がめ」が、水がめが6つ置いてありました。これは婚宴の客の清めのための水であったのです。イエス様はユダヤ人であられましたが、当時のユダヤ人は、モーセの律法と言うより、ハラカーと言われる口伝伝承による細則によって、食事の前には手を、市場から帰宅した時には全身を、またその他の器具などを、水で清めることが求められていました。異邦人との接触から受ける汚れを恐れて、手や身体、食器や寝台まで水で洗って清めたので、多量の水が必要だったのです。
 この水を使った清めというのは、モーセの与えられた律法に後に加えた口伝伝承によるところも大きいです。ユダヤ人は生活上の細かな決まりの中に生きておりました。ここで語られる清めの水は、戒律だらけの口伝律法の象徴です。イエス様がその宣教の3年間の中で、退けられた戒律づくめの当時のユダヤ教の習慣の象徴として、ここで「ユダヤ人の清めの水」が語られていると思われます。
 たとえばマタイ15章にはイエス様の弟子たちが食事の前に手を洗わないということをファリサイ人たちが咎めるということを記されていますが、イエス様はそのように「水による清め」というのは、イエス様とユダヤ人たちとの論争の的となる事柄のひとつでありました。水は「命の水」を聖書の多くの部分は語りますが、ここでこの水瓶の水とは、ユダヤ教的儀式、ユダヤ教的戒律という喜びも何もない水を象徴しているのです。

 イエス様は召使たちに「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われます。これはとても大きな水がめであったようで、一つ100ℓくらいの水が入るものであったようです。水1ℓは1㌔と言われていますから、水だけで100㌔、甕も入れると相当の重さのものです。召使たちは、イエス様の言葉のとおり、大きな甕に水をいっぱい汲んで宴会の世話役のところに持って行きました。
するとそれを飲んだ宴会の世話役は、それがすばらしく良いぶどう酒であったことに驚いて花婿に「だれも初めに良いぶどう酒を出し、酔いが回ったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておかれました」と告げます。汲んだ水は、ぶどう酒に変わっていたのです。

 ヨハネ福音書に於いては、イエス様の奇跡の業=しるしや、説教を通して古いものと新しいものが入れ替わる、かりそめのものとまことのものが交代する、という描かれ方が随所でなされています。今日お読みいたしましたところに続く2章12節以下では、エルサレム神殿は壊されますが、イエス様のみ体こそ真の神殿である、というふうに入れ替わります。3章22節以下では、バプテスマのヨハネは衰えるが、イエス様は栄えるという新旧交代があります。4章では、サマリアの女と語りながら「サマリア人はゲリジム山、ユダヤ人はエルサレムで礼拝すると言っていたが、霊とまこととをもってどこででも礼拝する時が来た」とお答えになります。
 そのように、この水がぶどう酒に変えられるというのは、単なる奇跡の業、ここでは母マリアの要望に応えて婚宴の手助けをしたということにとどまらず、かりそめのものが過ぎ去り、まことのものが、イエス様の到来を通してあらわされた「しるし」であったと語っているのです。その中でも、婚礼の席で、水をぶどう酒に変えるという奇跡は、「最初のしるし」です。
イエス様は、最後の晩餐の席で、パンを取り「これは私の体である」と仰り、またぶどう酒を取り「これは私の血による新しい契約である」と仰いました。ぶどう酒とは、イエス・キリストの流された犠牲の血を指し示します。水=戒律づくめの人間の行動を縛る律法は、救い主イエス様の到来によって、良いぶどう酒へと変えられる、まことの罪の洗い清めは、イエス様の流される血によって到来することを告げているのです。
教会はイエス様の「これは私の血による新しい契約である」この言葉に則り、聖餐式に於いてぶどう汁をいただきます。このぶどう汁は主の十字架で流された血を表し、イエス様の流された血によって、すべての人の罪の救いの道が拓かれたことを象徴いたします。イエス様の十字架によって、私たちは律法によらず、自由な意志を持ち行動するものとして、ただ信仰によって、神の限りない愛と恵みを受け取り、罪を赦され、新しく生きる道が示されました。
 イエス様が、備えの6日間の後の最初の安息日に、まさにこれから宣教の業に出ようとされるその時に、このカナの婚礼で、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行われたことは、戒律と因習づくめの、人間の行いをひたすら求めるユダヤ教的儀式を表す清めの水を、やがてただ神の恵みによって、人間にまことの救いをもたらす主の十字架の血潮による救いが顕されることになるのだという、主の栄光の時=十字架と復活の前触れの「しるし」、最初のしるしであったのです。

 この最初のしるしを、イエス様はガリラヤのカナの結婚式に於いて顕されましたが、婚宴の席、それは、主の十字架と復活を超えて、2000年後の私たちも今なお見据えている、信仰の完成の時である、主イエス・キリストが再び来られる時も表します。その時、イエス・キリストによって贖われた人々は、花婿であるイエス様のもとに、婚宴の花嫁として迎え入れられる、聖書はこのことを語っています。その、完全な救いを、神と共にある永遠の安息の前触れとしての、水をぶどう酒に変えられるという奇跡、最初のしるしでもあったのです。

 イエス様は婚礼の喜びの場に来られました。また福音書を読んでおりますと、イエス様は人間のさまざまな生活の中に、さまざまな人の苦悩や問題の中に、共におられることが分かります。病に苦しむ人、悪霊にとりつかれ苦しむ人、また愛する人を失った悲痛な悲しみの中にも来て下さっておられます。また、何気ない日常生活の中に来てくださることもある。
 主がおられる、そのことに気づく時、主イエスを私の救い主と受け入れる時、すべてのものが、それまでのものとは違うものに変えられるのです。戒律づくめの律法を表す水が、神の命を捨てるほどの愛のしるしであるぶどう酒に変えられたように、私たち自身、主のまことの愛に気づき、それを受け入れ、イエス・キリストを信じ、新しい命を歩み始める時、神が共にあるまことの祝福に入れられ、変えられるのです。

 さらに、今日の個所から、イエス様は私たちの願いを聞いてくださり、良きものを与えてくださる御方であることも覚えたいと思います。母マリアの願いを、イエス様は一旦退けられたような返答をされましたが、それでも尚且つ、イエス様を信頼して「この人がなにか言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った、その母の信頼に、イエス様は答えられ、最初のしるしを顕されました。主は私たちを愛し、私たちが主に信頼し、主に寄り縋り、主に求めることを待っておられます。カナの婚礼の中に主がおられたように、私たちの暮らしの中にも主は共にいてくださり、そして祝福を与えてくださいます。

 19世紀の聖書学者のシュトラウスという人はこの奇跡を「ぜいたくな奇跡」とののしったそうです。世の目で見れば、水をぶどう酒に変えるという、何も倫理的にも宗教的にもプラスなことはなさそうな業です。見方によってはただ酔っ払いを作るだけの奇跡とも取れます。
 しかし、私たちの信仰生活がただ忍耐するだけの苦渋に満ちたものであるでしょうか?そんなはずはありません。神はこの世の祝福を私たちにそれぞれ備えていてくださいます。イエス様ご自身、共に食し、共に飲むこと、それを結構楽しまれていたように聖書から受け取れます。そしてそのために力添えをしてくださるお方だということが分かります。
 そのような日々の喜びは神からの賜物。
 神の御子がその命を捨てて、私たちに与えてくださった、まことの救いを、私たち、私自身のまことの命として受け留め、主が共にある喜びのうちを、この週も歩ませていただきましょう。