「イエスと神殿」(2017年6月25日礼拝説教)

「イエスと神殿」
ネヘミヤ記8:1~3
ヨハネによる福音書2:13~25

 先週火曜日、AH兄が主の御手によって御許へと召されました。97歳に手が届きそうな、長寿の祝福のもとに歩まれたご生涯でした。
 しかし、その歩まれた道は、戦争の体験、数々のご病気と、長き命が与えられたのは、奇跡としか思えないような歩みであったことを、そのご経歴から知りました。4回の脳梗塞で晩年、言葉が不自由になっておられたため、お会いしてもいろいろなことを直接におうかがいするということは適いませんでしたが、主に、時に叫び求めたことに違いないと思えました。戦争の壮絶なご体験の中でも命を得られたことは、クリスチャンであられた御両親の祈りの中で、また神へのAH兄ご自身の真実の叫びの中で、主なる神がその祈りを聞き届けられたに違いないと思えるものでした。残されたK姉と、ご家族に主の慰めが豊かにありますことを祈ります。

 イエス様は、その宣教の中、病人を癒され、悪霊を追放し、死者を蘇らせるなど、人間の目には驚くべき御業をめくるめく行われました。
 先週お読みした「カナの婚礼」の、水をぶどう酒に変えるという出来事は、イエス様が人々の前で行われた最初のしるし=奇跡でした。
本日お読みした23節には、「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」とあり、その不思議な業の故に、「多くの人がイエスの名を信じた」と言うことが語られているのです。

 もし、今が2000年前で、イエス様が私たちの目の前におられたならば・・・目の見えない人は、見えるようになり、歩けなかった人が歩けるようになる、それらを立て続けに「見た」としたら、私たちは何を思うでしょう。その業にのみ驚き、その業のことを「すごい」と思い、その業=奇跡だけに心を奪われ、思わず「信じます」と言ってしまうのではないでしょうか。
 癒された人に、イエス様は多くの場合、「あなたの信仰があなたを救った」と言っておられます。癒されるには、切なる求めと祈りがあり、イエス様の憐みはすがるような信仰のあるところに顕されました。
しかし、自分自身が切に祈ったということではなく、そのような業が起こされることをただ見て信じたならば、それはイエス・キリスト、そのお方に対する信仰ではありません。信仰があって、癒されるのと、癒されるのを見て信仰を持つのとは順番が違います。順番を違えて「信じる」ならば、奇跡を行う人ならば何でもよいという、いわゆる「御利益信仰」となりかねません。
 キリスト教信仰は御利益信仰ではありません。確かに信仰による奇跡は今でも起こっています。意外と思われるかもしれませんが、中国などでは、近年、使徒言行録さながらの神の業が起こされていると聞きます。
神は今も生きておられるから奇跡はある、そのことを信じています。しかし、神の業は、私たち人間の、罪の悔い改めを通しての、切なる祈り、祈りを通しての神と私たちとの人格的な交わり、神の憐みと神のご計画のあるところに、鮮やかに顕されるのでありましょう。「しるし」=「癒されたのを見たから信じてみよう」としたのであれば、神を愛し、神ご自身を信じるというよりも、その業をただ信じるならば、それは信仰としてはとても弱いものなのではないでしょうか。奇跡が起こされなければ、なぁんだと離れてしまうことでしょう。

 また、信仰というものは、初めは神からのよきものであっても、人間の手に渡され時間が経つにつれて、形骸化し、信仰の形だけが残り、神に対するまことに信頼と、心から神を愛し礼拝をすることが無くなってしまう場合が往々にしてあります。そして神を利用して商売をしようとする輩まで出てくることすらあります。それは、神からの律法を得て、1300年間の間、さまざまな歴史を経て来ていた、イエス様の時代のユダヤ教の姿でした。

 今日お読みした御言葉で、イエス様の行われた「しるし」を見て、人々はイエス様の名を信じました。しかしイエス様は人間を信用されませんでした。
 イエス様は、人間の心の内側にあるものをとことん知っておられた。どこまでも罪深く、信じると言っても、それは「しるし」を見たからで、都合が悪くなるとそっぽを向いてしまう。また、神を礼拝するといいつつ、いつの間にか、信仰が形だけのものになってしまい、いつしか神を侮り信仰を利用して商売までしようとする。そんなことをしがちの、自己中心的で、また興味本位の人間の心を、何が人間の心の中にあるかを、イエス様はとことん知っておられたのです。

 13節からの出来事は、イエス様が激しい怒りを露にされた出来事です。
 この出来事を数ヶ月前、ルカによる福音書の講解説教でお話しをした記憶があります。ルカでは、同様の記述が19章、イエス様が十字架を見据えてエルサレムに人々のホサナホサナという歓声の中、入城された時の最初の出来事として、「神殿から商人を追い出す」という出来事が語られていました。それが、ヨハネでは宣教の一番最初の出来事として語られているのです。
ヨハネによる福音書は、他の三つの福音書とは記述の内容が大きく異なります。他の三つの福音書では、イエス様がエルサレムに行かれたのは一回であるように語られていますが、ヨハネでは、ユダヤ人の三大祭り毎に、イエス様はエルサレムに上られていたことが記されています。数え方にもよるのですが、イエス様の宣教の業が3年間であった、ということは、このヨハネの祭りの記述から推測し、考えられています。

今日お読みした御言葉から見えてくるイエス様は、とても孤独に見えます。その宣教のはじめ、主は人々の思いと、神の子であるご自身との間の違い、神の思いと人の思いの違いを強く感じておられたに違いありません。

2000年のイエス様の時代のエルサレム神殿は、バビロン捕囚でソロモンが造った神殿が破壊された後、ペルシア王キュロスによって捕囚から解放され、エルサレムに戻ることが赦されたユダヤ人が建てた第二神殿と呼ばれる神殿です。今日の旧約朗読では、第二神殿を完成させたユダヤ人が神殿の水の門の前にある広場に集まり、エズラが律法を読み、そこに集った民は一人の人のように=ひとつになり、律法に聞き入り神を礼拝したという非常に喜びと祝福に満ちた箇所です。
第二神殿はとても小さな神殿だったのですが、イエス様がお生まれになった時代のユダヤの王ヘロデが、増築をし、ソロモンの建てた神殿に匹敵するような大きな神殿となっていました。その残骸は、今もエルサレムに残っています。
ユダヤ人の神殿とは「神の名」が留められる地上に於ける神の家であり、人間がそこで為すことは、神の赦しを求めて、犠牲の動物をささげることでした。
 ユダヤ人は、律法によりますと、年三回の祭りにエルサレム神殿に上ることが命じられていますが、イエス様の時代は、年に一度、エルサレムに上る、いえ、それ以下という人が多かったと言われています。
 神殿に詣でるために犠牲の動物をささげるために、牛や羊を遠方から旅をして連れてくるというのは困難なことです。そこで遠方から神殿を詣でる人たちのために、神殿の中、異邦人の庭と呼ばれる場所では、犠牲のための動物が売られておりました。
 また、当時のエルサレム、そしてユダヤ人の居住区域は、ローマ帝国の中にありましたので、通常生活に使う貨幣は、ローマ帝国の貨幣です。しかし、神殿で神殿税を払うには、ユダヤの硬貨に両替をしなければなりませんでした。
 そのため、神殿の中は、動物を売る商人、また両替商がおり、遠方から来た人々は、それらの商人から動物を買い、またお金の両替をして、神に動物を献げていたのです。とはいえ、そこには旧約朗読でお読みした、ネヘミヤ記にあるような律法への傾聴と、信仰の喜びと神への真摯な礼拝からはかけ離れた、全く形骸化したものとなっていました。形骸化というよりも、もっとひどい、人が集まって騒ぎ立てるお祭り騒ぎのようになっていたのではないかと思われます。
日本では、神社の祭の時に、夜店が立ち並び、人が賑わい、様々な縁起物を買ったり、おみくじを引いたり、神主にお金を払って商売繁盛無病息災を祈ってもらったり、というおことが何らかの安心感と、出来ることならばいわゆる「御利益」を求めて為されていますが、当時のユダヤ人の過ぎ越しの祭り、それはまさにそういうものになっていたのです。人々は、お金を払って犠牲の羊や牛を買い、また手数料を払って、ローマ貨幣をユダヤの貨幣に両替している。その商売を神殿でさせることで、神殿の祭司達は儲けていたのです。

 イエス様の宣教の業のはじめ―イエス様は過越祭のためにエルサレムに上っていかれ、そのような神殿の有様を「ご覧になり」、縄で鞭を作り、売られていた羊や牛を境内から追い出し、両替人のお金をまき散らし、その台を倒し、言われたのです。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と。
 そのイエス様の怒りを見て、弟子たちは「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という詩編69編10節の言葉を思い出したとあります。このダビデの詩を思い出すほどに、イエス様は、神殿がまことに神を礼拝する場ではなく、人間の楽しみや、騒ぎ、商売の場になっていたことを烈火の如く怒られたのです。

 するとユダヤ人たちはイエス様に申します。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と。
 ここでユダヤ人たちは、しるし=不思議な業、証拠を求めます。ユダヤ人たちは、しるし=不思議な業に心引かれつつ、尚且つ、形だけの信仰を持っている人たちでありました。
形だけの信仰に捕らわれて、神に愛され、その愛に応えて神を愛し、自分を愛し、隣人を愛するという、神の与え給うた律法の本質を忘れ、神の神殿を商売の場としている。神を愛するのではなく、自分に都合の良いことばかりを神に求め、神を利用して生きている、そのような人々になっていました。
 そのように「しるし」を求めるユダヤ人に対し、イエス様は申します。「この神殿を壊してみよ。三日で建てて直してみせる」と。
 それを聞いたユダヤ人は、46年掛かって建てた神殿を三日で建て直すのか、と驚き、怪しみました。神殿を壊すなどまず出来るわけはない。それで試すことなどもってのほか。出来るわけはないことを言うイエス様を蔑んだに違いありません。

 傍にいた弟子たちも、その言葉を聞いて不思議に思い、印象深く覚えていたのでしょう。
 21~22節の「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」という言葉は、この福音書を書いているヨハネの言葉です。思い返し、ようやくイエス様の言われたことが分かったと語っているのです。

 現実的には、エルサレム神殿は、イエス様が十字架に架かられた後、約40年後、紀元70年にローマ帝国によって破壊されました。破壊された残骸は、今もエルサレムにあります。
 イエス様の言われた神殿の破壊とは、それまであったエルサレム神殿が破壊されて、そのまま新しいものとして建て替えるということではありませんでした。

 ここでイエス様が語られている「神殿を壊してみよ」という言葉は、ユダヤ人たちが、神を忘れ、神殿を商売の場にしている、形骸化した信仰、そのことこそが、神殿の破壊、神礼拝を破壊する行為であると語っておられるのです。神の名を語り、犠牲をささげるという律法に基づいた行為はしながらも、神を愛し、神の愛に応えて生きることを忘れ、形骸化した信仰の中で、尚且つ商売をする。そして、まことの救い主が来られても嘲り侮り、また試そうとする。イエス様は、そのような信仰を破壊したならば、「三日で建て直してみせる」と仰っています。この「建て直す」という言葉(エゲイロウ)は、22節に出てくる「復活される」と同じ言葉であり、神殿という言葉は「聖所」を表す言葉で、建物としての神殿だけを指す言葉ではありません。
 このことが起こった日は、ユダヤ人の過越祭が近づいている時でしたが、イエス様は、ここでご自分が近い将来―この時から3年の後、父なる神の過越しの小羊として、世の罪を取り除く神の小羊として、血を流される。そして三日目に蘇えられる。その時に、神を神としてまことに礼拝する聖所が新たに建てられると仰っているのです。

 イエス・キリストを信じる信仰とは、形によらず、霊とまことによる信仰です。神殿で買った動物を人間の罪の身代わりとして献げて、「あなたの罪は赦された」と神殿の祭司に宣言をしてもらうことを、限りなく続けるような形骸化したものではなく、人間が神の神殿を利用して商売をするというようなものでもなく、またしるし=奇跡だけを求めるのではなく、自分のうちに罪=神への背きのあることをしっかりと心の目で見つめ、罪を心から悔い改め、主なる神とのただしい関係を求める、心からの信仰です。
主なる神は、まことの罪の悔い改めをする人に、動物の犠牲によらず、罪の赦しの道を拓かれました。イエス・キリストは過越の祭りの日、すべての人間が罪により受けるべき罰を、その身代わりとして十字架に架かり、死なれました。そして、三日目に復活されました。私たちに求められる信仰は、このお方を、まことに神の御子、救い主と信じて、その十字架の死が、私の罪の身代わりの死であったことを心から認め、心から赦されたこと、命を捨てるほどまでに神に愛されていることに感謝し、心からの悔い改めをした者として、神を愛し、自分を愛し、自分を愛するように隣人を愛することに務める―愛とは感情ではなく、意志です―そして、聖書の御言葉に従い生きる信仰です。
 そして、私のために罪を贖ういけにえとなってくださったほどに、私たちを愛してくださっているイエス・キリストに、愛され愛するという人格的な交わりの中で、神を賛美すること。御言葉に聞き、御言葉に生きることです。
22節で弟子たちは、「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と語られています。しるしではなく聖書の御言葉を信じたと語られています。
イエス・キリストによる罪の赦しをいただいて、さらに御言葉により頼み、神との正しい関係の中にすっぽりと入ること。
その場所こそが、イエス様がここで語られている、イエス様が三日で建て直されると仰った新しい神殿です。神と人間とのまことの和解のある場所です。

何よりも先ず、このイエス様の建てられた新しい神殿にこそ、私たちは入れられるべきです。そして、そこに立って、私たちの求めるところを、神に訴えるのです。真剣に、信じて、祈るのです。その時、はじめて、「しるしを見て信じる」のではなく、信仰による奇跡、しるし、神の業を、私たち自身が経験することになるでしょう。それは、私たちが願い求めたもの、そのものではないかもしれません。しかし、まことの神殿=聖所に立ち、祈り求めたことには、神は必ず誠実に答えをくださいます。祈ったことには、「これが私にとって最良のものが神から与えていただいた」ということを、知る日が必ず来ることでしょう。
神に愛される者として、神をまことに愛し、イエス・キリストの建てられたまことの神殿=聖所に立ち、まず神をほめたたえましょう。すべてのことは、そこから始まります。

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