「与えられた『分』を生きる」(2017年7月16日礼拝説教)

サムエル記上18:1~4
ヨハネによる福音書3:22~36

「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。」
 お読みした29節の御言葉が、説教の準備をしようと御言葉を改めて読んだ時、心に突き刺さりました。御言葉は不思議で、読む時によって、心に迫る御言葉が違います。普段は読み過ごしてしまっている御言葉が、心の現状のどこかに突き刺さる。
イエス・キリストがその命を捨てるほどの愛をもって、イエスの名を信じるひとりひとりのために、罪の身代わりとして十字架に架けられ、自らの命を代価として、罪ある者たちの命を贖い取ってくださいました。それほどまでに愛される、愛の関係を、聖書は花婿と花嫁に譬えて語ります。そして、かの日、キリストが再び来られる日、ご自身の懐に迎え入れてくださる。花婿が花嫁を迎えるように。それは私たちが完全な救いに入れられる喜びの時です。
 聖書は全体を通して、イエス様と私たちイエス・キリストを信じる者たちの関係を、花婿と花嫁の関係に譬えて語ります。
36節に「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と語られていますが、キリストの花嫁となるための第一歩は、自らの罪を悔い改め、福音を信じ、イエス・キリストの名によって、罪の赦しの洗礼を受けること。洗礼は、キリストの花嫁として迎え入れられるための大切な一歩です。そして、洗礼は、教会の業として執り行われるものです。父なる神は、御子イエス・キリストを愛され、御子にご自身の権限のすべてを委ねられました。そして人は、御子イエス・キリストを、その名を信じる信仰による洗礼を通して、罪に死に、神と共にある永遠の命を得ることが出来るのです。洗礼によって、命は世にありながら、神と共にある永遠の命へと既に入れられています。永遠の命とは、イエス・キリストを信じる者に、既に与えられている、この世の命を超えた神と共にある命であり、世の死を超えて、キリストが再び来られる時、キリストの花嫁として迎え入れられる命です。
 これは、イエス・キリストを信じ、悔い改めの洗礼を受けた者たちに既に与えられている命の保証です。このことは、今日の説教題に照らし合わせれば、イエス・キリストの証しを受け入れ、神を真実なお方であることを確認し、イエス・キリストの名による洗礼を受けた者たちに与えられた「分」であると言えましょう。

 今日の箇所は、イエス様ご自身が人々に洗礼を授けておられたということが語られています。イエス様ご自身が水の洗礼を授けておられるということが記されている箇所は、実は聖書の中でここだけです。他の福音書でもそうですし、4章のはじめには、敢えて「洗礼を授けていたのは、イエスご自身ではなく、弟子たちである」と、イエスさまではなく、弟子たちが、洗礼を授けていたということは記されております。
 洗礼者ヨハネは、イエス様のことを1章33節で「聖霊によって洗礼を授ける人」と語っておりますが、今日の御言葉でだけ、イエス様が水の洗礼を授けておられる書き方をされている。このことをどう捉えたらよいのでしょう。
 今日の御言葉の中で、25節に「ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人の間で清めのことで論争が起こった」とありますが、この「清め」とは、明らかにユダヤ教に於ける、水による清めを表します。どういう内容の論争であったのか、ここには記されていないので分かりませんが、論争の中で、ヨハネから洗礼を受けていた人たちが、皆イエス様の方に行ってしまい、イエス様から洗礼を受けていることが語られています。そして、洗礼者ヨハネは答えるのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と。
洗礼者ヨハネは、自分自身のことを花婿の介添人と語り、さらに介添人は花婿の声を聞いて大いに喜ぶと、ヨハネ自身が語っています。当時のイスラエルの結婚式では、花婿の介添人が花嫁を花婿のところに連れて来るというのが通例であったようですが、花嫁が介添人に連れられて到着した時、花婿の喜ぶ声を聞いて大いに喜ぶ介添人であるというのです。自分のことで喜びの声を上げるのではなく、花婿の喜びの声を聞いて喜ぶという役目です。全く控えめな、役割です。
 多くの人は介添人ではなく、出来ることなら花婿としての立場で生きていたい者なのではないでしょうか。いえ、自分はそのような華やかなことは苦手なので、花婿の友として、介添人の役割に徹する方が自分の性に合っていると思う方もおられるかもしれません。
 しかし、洗礼者ヨハネの語ることは、そのどちらの意味でもありません。自分の性質如何によらず、神から自分に与えられた「分」に生きるということを語っています。
 私たちは、人と自分を比べ、時に優越感を持ってみたり、妬んだり、落ち込んだり、あらゆる場面で、他者との比較をしてしまう性格があると思います。妬みは、人との関わりを歪めますし、イエス様は、ユダヤ人ファリサイ派、律法学者などの妬みによって、十字架への道を歩むことになられました。人と自分との比較から生まれる妬みというのは、人間の罪の姿であり、多くの悲しみや、思いがけないほどの悲惨な出来事すら引き起こすものです。
 しかし、洗礼者ヨハネの言葉は、他者と自分との比較によらず、ただ、上を、天を、神を見上げ、神と自分との関係の中で、自分に与えられた役割を、「分」を生き抜く。そこに何のためらいもない姿は、私たちの模範となりましょう。
使徒パウロもコリントの信徒への手紙Ⅰ3:5で語っています。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」と。そして、この御言葉は、私たちの今年度の年間聖句「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」に繋がって行きます。私たちは、それぞれに固有の性格と個性があり、それぞれの分に応じた賜物が神から分け与えられています。人と自分との比較の中で生きるのではなく、神と私たち一人一人の関わりの中で、愛されている者として、神から自分に備えられた分、そして使命を喜び果たすものでありたいと願うものです。
 31節からの御言葉、これは洗礼者ヨハネの言葉か、イエス様の言葉か、はたまた福音書記者のヨハネの言葉か、決着のつなかい議論のある箇所ではありますが、いずれにしても語られている「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」と言うことは、イエス様は「上から来られる方」であり、34節「神がお遣わしになった方で、神の言葉を話される」お方である。そして、洗礼者ヨハネは、「地から出る者、地に属する者」に過ぎないということです。
 地に属する者として、地に属する悔い改めの洗礼を授けているヨハネと、天に属するお方であるイエス様の授ける洗礼―私たちは今、イエス・キリストの名による洗礼を受けますが―は違う。そのことを22節からの御言葉は告げているのではないでしょうか。また、洗礼という意味の転換点として、ここで敢えて「イエス様が授けておられる水の洗礼」が、ここで語られているのではないでしょうか。
 洗礼者ヨハネの洗礼は、「主の道をまっすぐに」するためのものでした。しかし、イエス様ご自身の水の洗礼、それはイエス・キリストの名による現在の私たちの洗礼でもあり、それは、「上から来られる方」「天から来られる方」の名によるものであり、それは天に属する洗礼なのです。イエス様ご自身の、またイエス・キリストの名による洗礼は、天に属する洗礼であり、それは永遠の命への保証としての洗礼となるのです。
さらに、「聖霊によって洗礼を授ける人」と、1章で洗礼者ヨハネは、イエス様のことを語っていたわけですが、イエス・キリストの名による水の洗礼は、そのまま聖霊による洗礼でもあります。なぜなら、聖霊とは、イエス・キリストの霊であられるお方なのですから。イエス・キリストの名による洗礼は、聖霊によって私たちの変革を促す洗礼でもあります。

 先日、私の父が倒れ、救急搬送され、現在も入院中です。
 体のナトリウム不足が原因ということで、体の筋肉が弱り、足が弱くなり、三日間の間に二度部屋で倒れたのです。
 余談ですが、私は毎朝、礼拝堂でしばらく祈りますが、その時、自分の家族のことも祈ります。その日、心に何か違うものを感じました。何事も無ければよいと思いましたが、その少し後、父が倒れたという連絡がありました。祈りによってさまざまなことは守られているのだけれど、しかし、「時」というのはあるのだ、ということを思わされた経験でした。
 父は子どもの頃から日曜学校に通っており、賛美歌466番「山路越えて」―これは私たちの愛するK兄の愛唱賛美歌でもあるのですが―の作詞者である西村清雄さんという方が、父の通う松山教会の日曜学校の先生だったそうで、いつも膝に乗せて貰って、この歌を聴いていたそうで、そのことを何度も話してくれていました。中学生の頃、洗礼を勧められたそうなのですが、罪の告白が恐くてという理由で洗礼を受けなかったそうです。しかし、教会の知り合いを通して牧師の娘だった母とお見合い結婚をし、ずっと教会とは薄く関わりながら生きていました。15年程前でしたか、私が帰省した際、「松山教会に行くけど、行く?」と聞くと、行くと言うので、初めて親子三人で礼拝に与りました。その際、子どもの頃の幼馴染みたちに会えたことがとても嬉しかったらしく、それから洗礼は頑なに拒みながらも、毎週のように礼拝に出席していたようです。
 そんな状態の中、高齢になり、だんだん教会に通うことが困難になり、また、夫婦二人の生活も困難になって来て、三姉妹のうち、二人の住む、大阪の老人ホームに移り住みました。教会から疎遠になっており、また松山のお寺との関わりも大阪に移住するに際して絶っていましたので、さて、両親の最期をどうするか・・・ということは家族の大きな課題でした。母は、父にしきりと洗礼を勧めましたが、どうしても首を縦にはふらない。
 そんな父が、入院をし、私も時々大阪を訪ねていますが、その時、「山路越えてを憶えてる?」と訊いて、私が歌うと、一緒に歌うのです。あまり言葉も出せなくなっている状態なのに、歌詞をそらで幸せそうな顔で歌うのです。
 父に何とか洗礼を授けたい、自分自身で授け、土気あすみが丘教会の会員にさせていただくことも考えていました。
 しかし、父の傍にクリスチャンの姉がついている時、父ががんばってリハビリを終えた時、突如、「松山教会」「松山教会」と叫んだのだそうです。何の脈絡もなく、突然だったため、姉はその時、何のことか分からなかったようで、急ぎ帰る時間が来て帰ったのですが、その話を聞いて、私はイエス様が父に直接何かを語りかけて下さっているのではないかと思いました。そして父は松山教会で洗礼を受けることを望んでいるのではないかと思いました。「松山教会、松山教会」という叫びは、「イエス様、イエス様」と呼ぶことの出来ない父の信仰の告白だったのではないかと思えました。
 そして、松山教会に電話をし、事情を話し、父の意志が確認出来たら大阪に来ていただいて、洗礼を授けていただくことは可能か、ということを窺い、内諾を得て、翌日、姉に確かめて貰ったのです。姉が「松山教会の牧師さんに来ていただいて、イエス様を信じるって言えるね」と訊くと、頷いたのだそうです。「もうすぐ来てくれるよ」と言うとまたうんと頷き、「松山教会の牧師さんが来てくれて、洗礼を受けたら神の子になれるよ」と言うと頷いたのだそうです。そして、母も電話で「洗礼を受けて欲しい」と言うと、「はい」と答えたのだそうです。
 そして、この火曜日に病床洗礼を受けることになりました。父にはイエス・キリストがどうしても必要だと思い、祈っていました。でも、まさか、父が本当に首を縦にふるとは今でも信じられない気持ちです。どうぞ、無事にこのことが行われますことをお祈りいただきたいと願っています 

 31節からもう一度お読みします。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られた方は、すべてのものの上におられる。この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる」
この地は救いの十字架が地に既に立てられている地ではありますが、しかし、まだ救いは完成していない地です。すべての人は地に属する者として生まれ、一人残らず、救いの十字架のもとに来て、イエス・キリストの証しを受け入れなければ、信じなければ、神と共にある命のうちに歩むことは適いません。
 私の父は、人生の終盤で、ただ神の恵みによって、イエス・キリストの証しを受け入れようとしています。恐らくとことん頭で考えて選んだ選択ではないのだと思う。ただ、神の恵みと憐みによって、高齢と病の苦しみの中で、上からの、天からの何らかの啓示を受けて、松山教会=イエス・キリストのもとに、救いがあるのだということを、理性を超えて理解したのだろうと思います。神がそのようにしてくださる、憐み深いお方であることに感謝します。神は真実なお方であることを、人間の知識を超えて私の父が確認したということは、奇跡以外のなにものでもありません。地に属する者として長年生きて来た父が、上から来られる方=イエス・キリストこそが、すべてのものの上におられることを、89年の人生を経て、ようやく魂の奥底で知り、そこに縋ろうとしている。そして永遠の命をいただこうとしていること、死をも超える命に満たされようとしていることに、畏れと感謝でいっぱいになります。
 そして今日は、私の父とは対照的な新しい命、Tさんのご家庭に与えられた、Yちゃんの新生児祝福の祈りを致します。Yちゃんは、神様に愛され、時を得て世に命を与えられ、これから長いこの世の旅路を歩みます。新しい命が、主によって守られ、育まれ、神と共にある祝福のうちを生きることが出来るよう、祈り願い求めたいと思います。そして、神の恵みと憐みの中、いつか天からこられる方の証しを受け入れ、神が真実であることを知る人となってほしい、そのことを祈りたいと思います。

 上から来られた救い主イエス・キリストを信じる者は、キリストの花嫁としてやがて完全な救いへと、永遠の命の約束の中に入れられている。それは、悔い改めの水による洗礼を受けたすべてのものに与えられている命の保証です。
 この驚くほどの大きな恵み、キリストの花嫁としての「分」を、私たちひとりひとりは保証として与えられ、世を生きているのです。このことは、神の愛による御業です。この命の保証を私たちは大いなる喜びを以って受けとめ、それぞれに与えられた、この地に於けるそれぞれの「分」を、洗礼者ヨハネがそうであったように謙遜に受けとめ、自分と他者の違いを認めつつ、また、なにより、永遠の命の約束の中に入れられているという、命の保証を信じ、この地の命を超えた希望をもちつつ、世の戦いを戦い抜いていただきたいと願うものです。