「受けた愛を伝える」(2017年8月6日礼拝説教)

申命記8:2~3
ヨハネによる福音書4:27~42

 私がイエス・キリストに出会ったのは、松山市にある教会付属幼稚園に於いてでした。日本基督教団ではなく、日本アライアンス教団というアメリカの宣教師の派遣によって作られた、所謂福音派に属する教団の教会付属幼稚園でした。先生方は「ひとりを大切にする」ことを重んじておられたことを記憶しています。なかなか皆に馴染めないひとりの子のために、お休みの日をふたりの先生が返上されて、近所に住む私とあとふたりの子と四人を連れて、公園に遊びに連れて行ってくださったことをよく覚えています。そのように傷んでいる一人を重んじる愛をもった教育を、キリストにあって受けられたことを、感謝しています。
幼稚園の頃の教育が、私のうちで年月を経て実を結び、人生の転機にイエス・キリストを思い出し、いえ思い出さされと言いましょうか、東京にある教会に通うようになり、洗礼を受け、やがて牧師になりました。松山で撒かれた種が、東京の教会で実を結んだということなのでしょう。
 神学生の時代、一度その教会の礼拝に出席しましたら、私の通っていた時代に先生をしておられたという方にお会いしました。大人になってから東京の教会で救われ、今、神学校で牧師を目指しているということをお話ししましたら、ご自身の幼稚園教育が、時と場所を変えて実を結んだことを、本当に喜んでくださいました。本日の御言葉、ヨハネによる福音書4章37節でイエス様は「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」という当時のことわざを、私のちいさな経験の中で譬えれば、そのような意味で語っておられるのだと思います。私は松山の幼稚園の教育で蒔かれた種によって、東京の教会で実を結んだのです。

 それにしても自分で蒔いた種の実りを見たい、刈り入れをしたいというのは誰しも心の中にある願いだと思います。しかし、人生はなかなか手ごわい。私たちが自分の蒔いた種の実りをすべてみることはなかなか難しいものです。
 旧約聖書最大の人物モーセにしてもそうでした。モーセは神の召命を得てイスラエルの民を率いて出エジプトをし、約束の地を目指しましたが、40年間の荒野での生活の末に、約束の地のその一歩手前まで来て、約束の地に入ることを神に赦されませんでした。モーセに赦されたことは、約束の地をピスガの山頂からその地を仰ぎ望むことだけでした。そして、約束の地に入る務めは、後継者であるヨシュアに引き継がれていきました。モーセの蒔いた種の実りは、種を蒔いたモーセではなくヨシュアが刈りいれたのです。

 神は私たち人間が、「私」という個人の自己充足で自己完結することを求めてはおられないのではないか。人間が自分中心の性質から求める「完璧なもの」「理想」を、私たちが神から愛されているからこそ、与えられないように思うことがあります。
「悔いのない人生だった」という言葉をよく耳にします。私は人の自伝などを編集する仕事をすることも多かったのですが、「私の人生に悔いはない」と書かれている文章を何度も見てきました。しかしその言葉を読む毎に、そのように自己評価をして語らざるを得ない人の、イエス・キリストを知らない孤独を感じてしまっていたのは、私がひねくれているせいなのでしょうか。イエス・キリストと共にある命は、懸命に生きながらも最期は神に明け渡し、自らを信頼して委ねる「隙間」のようなものがあると思っています。自己評価をして、自己完結をして、自分に満足を言い聞かせるのではなく、評価も神に委ねるのです。
 神は人の歴史をもご自身のうちに統べおさめておられますが、人の人生は神の作り上げる人間の歴史の一点として、それぞれが役割を与えられて、人の命は神の大きなご計画の中で、脈々と引き継がれてゆくものなのではないでしょうか。自分でなにもかも成し遂げようとする思いは、他者との軋轢を生みます。私たちは自分の成果に目を向けず、それを誇りとすることに固執せず、神の御心に聞きつつすべてを為し、自分に与えらえた業を、自分で握りしめるのではなく、他の人に次の世代へと、喜んで伝えて、あとは神に委ね、自分の手から寧ろ手放すべきなのではないでしょうか。
 神から受けた愛を、惜しみなく人に伝えつつ、洗礼者ヨハネが3章30節で、イエス様を自分より遥かに優れた神の子と認めて「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言ったように、我が身を低くして、御心にすべてを委ねる信仰を持ちたいものだと願います。

 今日の御言葉は、先週お話しをいたしましたサマリアの女とイエス様の出会いの出来事の続き、後半です。
 先週お読みした前半では、「生ける水」と「渇く水」、「水」がテーマとなっていました。イエス様の語る「水」とは聖霊を表し、おそらくは自分自身の心の充足を求め続けるがために、絶えず満たされない心を持ちつつ、5人夫を代え、今6人目の男性と一緒に暮らしているという、異邦の女性に、イエス様が近づかれ、救いを告げ知らせ、聖霊という命の泉を与えることを告げられ、霊と真理の礼拝へと招かれたという出来事でした。
 そして、後半では「あなたがたの知らない食べ物がある」と「食べ物」についてイエス様が語っておられます。
 水と食べ物―2章の「カナの婚礼」の出来事で、イエス様の最初に行われたしるしが「水をぶどう酒に変える」というものでした。聖霊を表す水ですが、イエス様の十字架の血を表すぶどう酒としても語られていると言えます。また食べ物とは、イエス様の体を表すパンとも結び付けられると言えましょう。
 水=渇くことの無い命の泉=聖霊=キリストの血潮。私たちは聖餐式に於いて、十字架の上で流された、イエス・キリストの血潮としてのぶどう汁をいただいています。また食べ物とは、34節で「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と、語られているとおり、命の食べ物としてのキリストの体、それは御言葉であるというのです。本日お読みした申命記8章3節に「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたがたに知られるためであった」と語られていましたが、命の食べ物はパンに結び付けられ、私たちは聖餐式で、キリストの十字架の上で裂かれた体としてのパンをいただいています。
 十字架の上で流された、キリストの血と裂かれた体―このサマリアの女の出来事に於いては、この出来事の後の時代、顕される神の賜物についても語られていると言えましょう。
 ひとりの罪の女への赦しと愛と招きは、イエス・キリストの犠牲の愛がなければ成し遂げられない事柄であるということが、暗示されています。

 イエス様が「キリストと呼ばれるメシアである」と自分自身をサマリアの女に明かされたちょうどそのとき、町まで食べ物を買いに行っていた弟子たちが戻ってきました。弟子たちはイエス様がサマリア人の女と話しておられるのを見て驚きます。ユダヤ人がサマリア人と親しく語ることは異例のことあり、ユダヤ教の教師はことさら女性と一対一で話すことはありませんでした。弟子たちは、イエス様の宗教的対立や伝統的習慣を超える自由な振る舞いに驚きました。しかし、あえてイエスに訊ねる者は誰もありませんでした。
 この女性は、この町では人目を避けて昼間に水を汲みにくるような立場の女性でした。夫を換えながら、絶えず男の人と暮らしながらも、その心は渇ききっていた女性です。夫を換えることで生き延びている女性とも言えるかもしれない。たくましく生きているようでも、絶えず人目を避け、身の置き所のない孤独を味わい続けていた女性であったことでしょう。誰も自分の本心など分かり得ないと思っていたことでしょう。
 しかし、イエス様は彼女のことを言いあてました。彼女のことを知っておられ、敢えてサマリアの道を通って自分のもとに来られた。そして、自分のことをすべて言いあてた。そのように自分を知っておられる方が「キリストと呼ばれるメシアである」と言われるのを聞いて、水がめをそこに置いたまま町に行き、大胆に町の人たちに語りかけたのです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と。
 イエス様に出会ったこの女性は、イエス様に出会った喜びで、人目を避けるように生き、閉ざされていた人間関係を打ち破り、町へ出て行きました。彼女は、メシアが自分のところにやってきた、その愛を知ったのです。自分のような罪ある評判の悪い女のもとに、救い主がやって来られたというその愛を知り、彼女は自分の恥も内側に籠っていた思いも突き破り、サマリアの町へ出て、救い主の到来を告げ知らせたのです。
 この女性がサマリアの人々に呼びかけた、「さあ、見に来てください」という言葉は、1:46で、メシアとしてのイエス様に出会ったフィリポがナタナエルに向かって、「来て、見なさい」と言った言葉と同じです。ユダヤ人の間で起こったことと同じことが、ここでは異邦人であるサマリア人たちの間で起こったのです。
 そして、この女性から告げ知らせられた言葉を聞いたサマリア人たちは、続々とイエス様のもとにやって来ました。告げ知らされた言葉は、続々と人々を、イエス様との関係性の中に巻き込んで行きます。

 この出来事の合間、食べ物を買って戻って来た弟子たちに食べ物を勧められ、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とイエス様は言われ、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と語られました。
 この時救われたのは、ひとりの罪深いサマリアの女性でした。彼女はキリストの救いの中に招かれました。招かれ、驚き、彼女は自分の殻を打ち破り、走って救いを告げ知らせている。
 イエス様は一人の女性が救われ、喜びいっぱいに人々に救いを告げ知らせているその合間、救われた者たちが為すべきことを、ここで告げておられます。それは、御言葉という命の食べ物をいただくこと。それは自分自身の閉じ込められた思いの中で、自己の欲求を満たそうと自己中心的にあくせく自分中心に生きるのではなく、神の御心を行うこと=自分中心の生き方から、神中心の生き方への方向転換を促しておられるのです。
 そしてこの時イエス様は、ひとりのサマリアの女性が救われて語り伝えた救いの恵みの言葉がもたらす収穫、刈り入れの時を既に見ておられます。ヨハネによる福音書は不思議な書物で、時空を超えて語られるイエス様の言葉が多くあります。イエス様は不思議なお方で、信じて、はじけるように町に出て行き、語り伝えたサマリアの女の救いの証しが人々を集め、永遠の命に至る実として実らされることを神の目で見ておられるのです。
 その刈り入れの姿とは、「一人の人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」というあり方でした。語り伝えられた言葉=福音伝道とは、語り伝えた人=その個人の満足のために、自分はこれだけのことを成し遂げたのだという誇りに陥るものようなものではなく、自分の成し遂げたことなど目もくれず、脈々と語り伝えられ、伝えられた人のうちで命の泉となり湧き上がり、溢れ出るように広がってゆく。語り伝えた人の満足で終わるようなものではない。蒔く人と刈り入れる人は別なのだ。しかし、その業はキリストに於いてひとつであり、キリストに於いて結ばれている。すべての人は孤独に神の食べ物を食べる=神の働きを為すのではなく、神の御手のうちに、神の御心を脈々と受け継ぎつつ、人から人へと手渡しつつ為して行くのだということを告げておられます。
 さらに神と人、人と人との繋がり、関係性の中で、私たちは生かされているのだ、自分自身を神に委ねなさいということをも、イエス様は語っておられるのでありましょう。
 サマリアの女は福音を伝えることに於いて、既に孤独な自分の殻に閉じこもった人ではなくなっていました。彼女の言葉によって多くの人がイエス様を信じました。彼女の言葉は、彼女をいぶかしげな目で見ていた人々をも変えて、彼女の言葉によって人々はイエス様を信じる人とされたのです。そして聞いた人々はそれぞれにイエス様に出会い、信じました。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であることが分かったからです」と。
 孤独なサマリアの女が語り伝えた言葉は、人をイエス・キリストに導き、その人自身が信じて救われました。サマリアの女は、イエス様に見つけられ、知られ、招かれ、信じ、信仰によって永遠の命に至る救いを得、さらに、人々との関係性をも回復したのです。

さらにこのサマリアの伝道ということに於いては、使徒言行録8章で、フィリポがサマリア人に福音が告げ知らせたという記事があります。異邦人伝道のはじまりと言われている箇所ですが、このサマリアの女の出来事との関連性でサマリアの人々の救いを俯瞰しますと、フィリポは実は種を蒔いたのではなく、刈り入れをしたのです。もう既にサマリアの女はサマリアの人々にイエス・キリストの救いを告げ知らせていたのですから。既に救いを告げ知らされている人々はそこに居たのです。その土壌があり、フィリポの働きによって、イエス様の噂を聞いていたサマリアの多くの人々が、十字架と復活のキリストの福音を受け入れ、遂に完全に刈り取られたということなのではないでしょうか。
 そのように、神の国の業は、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」、そして種を蒔く人も刈る人も共に喜ぶ、そのような業として受け継がれてゆくのです。ひとりの人の働きの成果など、強調されるべきものではないのです。キリストにある者たちは、神のなされるご計画のうちに、参与して用いられていき、福音は脈々ととどまることなく広がってゆくのです。

 私たちそれぞれも、神に愛されている者として、脈々と救いを告げ知らせ続けるものでありたいと願います。キリストの十字架と復活を告げる神の言葉は生きており、私たちがいかに貧しい言葉で語ろうとも、神が救おうとしているひとりの人にとって、命の言葉として響くことがあります。私たちは乏しくても、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな諸刃の剣よりも鋭く聴く人を貫くことがある、このことに期待し、私たちそれぞれも、それぞれ置かれた場で私たちの受けた愛、イエス・キリストがその命を捨ててくださったほどの愛に生かされている者として、その恵みを大胆に喜びをもって伝えていくものでありたいと願います。
まず身近な人から。神はすべての人が救われることを望んでおられます。
 また、この土気あすみが丘教会が、そのような希望のうちに、ひとりひとりは謙遜にありつつ、大胆に御言葉を宣べ伝え、連なるおひとりおひとりが主にある交わりの中で豊かにされることも祈り望みたいと思います。

 最後に、日本基督教団の日課によれば、今日は平和聖日です。私たちの教会は来週、平和聖日として特別礼拝を予定しておりますが、今日は8月6日、72年前、広島に原子爆弾が降下された日です。主にあるまことの平和がこの地にあらわされますように、ひととき、黙祷をささげたいと思います。

カテゴリー: 過去の説教