「信じた言葉」(2017年8月20日礼拝説教)

列王記上17:18~16
ヨハネによる福音書4:43~54

 50節をもう一度お読みいたします。
「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」
 イエス様の言葉を信じて「帰って行った」人は、カファルナウムというガリラヤの町にいる王の役人でした。王の役人というのは、世の権威の中に居て、目に見える世の権威のありがたみというものを知りつくしている人でありましょう。この人が従う王とは当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス。洗礼者ヨハネを殺した人、イエス様を良からぬ思いで見つめている人です。
そのような王ヘロデ・アンティパスですが、イエス様の噂を聞いていて、イエス様のなさる不思議な業やしるしを見たいと望んでいたと、ルカによる福音書は語っております。しかしながら、それはただ「しるし=不思議な業を見たい」という興味本位なものでしかなく、イエス様の十字架の前に興味本位な尋問をして、イエス様を嘲笑い、派手な着物を着せて、ポンティオ・ピラトのもとに送り返すということをし、イエス様の十字架への道に深く加担いたしました。
 そんな王のもとに居る、世の権威に慣れている役人が、様々な力ある業によって人々の間で評判になっているイエス様のもとにやって来たということは、余程のことだったでしょう。この人の愛する息子は死の淵をさまよっておりました。この王の役人は、王や役人が何かを命じたならば、仕える人々はそのとおりにする、そのようなシステムの中に居たことでしょう。自分の持てる世の力で、人間の力で為せることが多いことを知っておりました。しかし、我が子の命のことは、人に命じても解決出来るわけはない。命は神の領域だからです。
 この王の役人は、イエス様のなさるさまざまな奇跡、病人を起き上がらせること、そして水をぶどう酒に変えたということも噂で伝え聞いていたことでしょう。この人は、愛する息子のためにおそらくは自分で出来ることのすべてをやって、もう自分には、人間の手では、為すことが何も無くなった状態で、イエス様のところに縋って来たのです。カファルナウムとカナとの距離は約30キロ。1日掛けて歩く道のりを、この役人はやってきました。この人の立場からすれば、相当な覚悟のいることであったことでしょう。
 しかし、イエス様のもとにやって来るということは、イエス様に縋ることを求めるということは―私たちが初めて教会に足を踏み入れるということも同様だと思いますが―周囲からの目線が気になるけれど、それをも超えて…という決断ではなく、人間の内側からの神を求める渇望なのか、神からの促しが外側から働いたのか、目には見えない真理を求める何かが、心に芽生えなければ為し得ないことなのではないでしょうか。
 私はこの人に於いても後者、「神からの促し」があったのではないかと思うのです。何故なら、少し先、ヨハネ6章29節にイエス様のお言葉として、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」、と「信じること」そのものが、「神の業」であると語られているからです。
 頑固にイエス・キリストを信じようとしなかった人に、ある時、思いがけない変化が起こることを、私たちはしばしば見聞きいたします。人間の力では及ばないところまで来た時に、素直に「信じる」人に、ある時変えられることがあります。身内のことで恐縮ですが、最近では私の父がそうであったことを以前もお話いたしました。父は今、重篤な状態で病院のベッドにおりますが、ひと月ほど前、リハビリが終わった時、唐突に、突然「松山教会、松山教会」と自分が子どもの頃から通っていた教会の名前を叫び、洗礼へと導かれていきました。実はその前の週、西千葉教会との講壇交換で「父にはキリストの救いが必要だ」と語らせていただいていたのですが、語りながら、まさか数日のうちに洗礼の話になるとは思ってはいなかったのです。しかし、私の不信仰を超えて、神は私の言葉を聴いていてくださいました。今は、会話はままならない状態ですが、聞こえていて、時々反応を返してくれます。先週も二日ほど、父の傍におりましたが、帰り際、「イエス様は傍に居てくれるよね」と語りかけたら、小さくコクンと頷きました。意識が遠く見える父のこと、偶然と言ってしまえば偶然とも思えますが、そういう顔の動きをそれまでしませんでしたので、驚きました。主が父と共に居てくださる、そのことを命の瀬戸際の父は知っている。また主ご自身がそのことを父を通して教えてくださり、私を慰めてくださったのかともしれないと思えました。
 そのように、神は、私たちに、私たちが思う以上に、私たち人間を愛し、心に掛けられ、ひとりの人を救いに導き入れるために、また私たちを励ますために、私たちが気づく気づかないに拘らず、絶えず働いていてくださるのだと思うのです。神の奇跡は、私たちの日常の至るところに実は顕されているのです。
 このひとりの王の役人=世の権威や特権にまみれて生きていた人が、愛する息子の瀕死の状態の中で救いを求めてイエス様のもとに、とにもかくにもやってきたということは、この人の救いのために、神が働かれ、神がイエス様のもとへと導かれたひとつの奇跡に違いありません。

 今日の御言葉のはじめに、この時は「二日後」とあります。イエス様は、サマリアの女に出会い、サマリアで二日間滞在されたその後ということになります。
 多くのサマリア人が、イエス様を「本当に世の救い主である」ことを知りました。異邦人のサマリアでイエス様は多くの人を救いへ招き入れ、故郷ガリラヤに戻られたのです。
「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とイエス様自らはっきりと言われたことがある、とヨハネはここで記しています。故郷で、マリアの子、またヨセフの子と呼ばれていたイエス様。幼い頃からのことを知る人たちのいる町での宣教というのは、世の常とも言いましょうか、イエス様であってもいろいろな障害がおありだったのでしょう。イエス様の兄弟たちが7章では登場いたしますが、「イエスを信じていなかった」と語られています。
 しかし、この時はガリラヤの人たちは、イエス様が戻って来られたことをこの時、歓迎いたしました。ガリラヤの人たちも2章でお読みした過越祭にエルサレムへ上って行っていたので、そこでイエス様のなさったしるしを人々は見ていたからです。イエス様が神の子である、ということは、しるし=奇跡を通して人々は知ることとなっていました。
 しるしというものは、人々を信仰に導くための開かれたひとつの門なのかもしれません。目の前で繰り広げられる、目に見えて超自然的な業は、人間の力を超えた神の業を人々に知らしめ、引き付けます。しかし、「しるし」は興味本位に人々を引き付けることがあります。ユダヤの王ヘロデ・アンティパスがそうであったように。世を支配し、何の過不足もなく生きている人々にとって、目新しく面白いものとしか映らないこともありましょう。

 しかし、世には神の救いを求めることしか残されていな人たちがおります。また、そのような時が人生にはある。人間の手の業ではどうしようもなく、ただ神に縋るしか、祈るしか出来ない時が人生にはあります。

 この王の役人は、愛する息子が病気で死にかかるという、人間の手では、当時の医学では手の施しようの無い状態の中で、ガリラヤのカナ―イエス様が水をぶどう酒に変えた町―にイエス様がおられることを知って、自らカファルナウムからカナのイエス様の許にやってきて、カファルナウムの自分の息子のところに来て、息子を癒してくださるように頼みました。
 それに対し、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とイエス様は言われました。イエス様は2章に於いても、「しるし」を見て信じる人たちを「信用されなかった」と語られていました。しるしは、神の人間を超えた力と、神の憐れみの「しるし」ですが、受け取る側の人間にしてみれば、目新しく「ありがたいこと」でしかないかも知れず、よいことを受けたから信じてみよう、という人間が神との間をギブアンドテイクの対等な関係に立とうとすることを求める、人間の側の傲慢さが際立ってしまう信じ方です。
「あなたがた」複数形で語られているのは、この王の役人をはじめ、「しるし」を見ること、しるしが顕されたことを知ることで、それと引き換えに「信じよう」とする人たちすべてに向かっての言葉でもあったのでしょう。冷たくも感じられるイエス様の言葉ですが、冷たいというより、寧ろ人々の無理解に対するイエス様の悲しみが籠った言葉でありましょうし、必死の思いでイエス様のもとにやってきたこの役人に、信仰の気づきをお与えになりたかったのだと思います。
 
 今日の御言葉についてのいくつかの資料を読みましたが、20年程前に出版された加藤常昭先生の説教集に、「しるしがなければ信じない」信仰について、政治家とその支持者との関係に譬えて語られていて、興味深く読みました。ちょっとご紹介をさせていただきます。
 国政選挙で、この牧師の友人が当選したというのです。もうひとりの別の友人が秘書となり、有り金をはたいて議員を支援して選挙に勝たせました。議員の友人の当選の挨拶状には、「いろいろお世話になった。これからは、お役に立ちたいからどんなことでも言ってきてください」と書かれてあったと言うのです。そこで、この牧師は、「ああ、こういうものなんだ」と思ったと言うのです。「ああ、こういうもんなんだ」というのは、「この挨拶状を受け取った人たちは、自分の親しい者が、代議士になったのだから、これからは何かあれば、その人のところに行けば何とかしてくれると思う。支援者が陳情に来た時には、その代議士は、支援者に、その人のために議員が心を尽くして働いているしるしを見せなければならない。実際に頼みに行くと、公平、公正とは関係なく、頼んだとおりにことが運ぶ。そのような経験をすると、代議士になった友人は偉いし誇らしいと思う。自分が頼んだことをしてくれる、そのようなしるしが見えている間は信用する。いくらでもお金を出す。」とそのようなことを思い巡らしたと言うのです。
 今の日本の政治の問題に重ね合わせれば、「お友達を贔屓にする」ということそのものだと思えるのですが、そういうことは、世の権力のあっちこっちにあるようです。
 しかしこのようなあり方は政治家だけの問題ではなく、特定の有権者が特定の議員にしるしや見返りを求めるような政治への関わり方が、この国の政治の揺らぎを招いている。自分を特別扱いをしてくれるから支援する、という根性と、しるしを見たからイエス様を信じるという根性は同質のもので、ここでイエス様は、そのような信仰に対する姿勢を問うておられるのだ、と言うものでした。なるほど、と思いました。
 そして、そのように「しるし」を求める信仰というのは、信仰の対象を全面的に信頼しているわけではなく、あくまで自分の利益中心、自分中心の、移ろいやすく、不安定なものです。目の前の状況に振り回されて、信じてみたり、ちょっと良くないことが起こると、自分は神様から見捨てられているんじゃないかと、神様の愛を自分の尺度で思い不安になり、ぐらぐらする不安定なものです。
 
 しかし、イエス様の厳しい言葉に役人は怯みませんでした。さらにイエス様に、「主よ」と、イエス様のことを主=救い主という信仰の告白をして、願います。「子どもが死なないうちに、おいでください」と。この役人にはこの時、縋るのはイエス様しかおりませんでした。何が何でも、愛する息子を生かして欲しい、イエス様が来てくれさえすれば、息子は生きると、この人は強い一筋の希望をもってイエス様にさらに縋りつきました。イエス様との関係に於いて、私たちがなりふり構わずひたすら縋りつくということは大切なことです。人の熱心を、神は退けるお方ではありません。
 イエス様は言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」。
 イエス様は、この人の息子のもとに「行く」とは言ってくださらなかった。手を差し伸べて癒してしるしを見せようと言って、自分に同行をしてはくださらなかった。しかし、「あなたの息子は生きる」という言葉を下さった。
もし、ただしるしを求めていただけならば、このイエス様の言葉に落胆してしまったことでしょう。しかしこの役人は、イエス様の言葉を「信じ」ました。ヘブライ人への手紙11章1節に次のような御言葉があります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
 イエス様の、神の言葉を信じ、そこに希望を置いて、息子が癒される事実を確認し、イエス様のもとをひとり離れ、信じた言葉だけを携えて、息子のいる家へと帰って行ったのです。イエス様がそこに居られるのに、言葉だけを信じて、イエス様のもとをひとり離れ、カファルナウムに帰って行った―私はこの信仰は素晴らしいと思います。離れたくはない、はずです。連れて行きたい。ひとりで帰りたくなどない筈です。しかし、この役人は「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というイエス様の言葉を信じ、そのとおりにしたのです。

 今、私たちの目にはイエス様は見えません。直接お話をうかがうことは出来ません。しかし、私たちには既に神の言葉、この聖書の御言葉が与えられています。この聖書は、神の愛、そして神の人間への救いについて書かれた書物です。私たちは、神の憐みによって、私たち人間の力では乗り越えられない「何か」を知り、救いを求めるようになり、神はその心の渇きを見過ごすことなく、私たちをイエス・キリストの御許に召し集められました。そしてイエス・キリストは、御許にやってきた私たちの、自分の力ではどうすることも出来ない問題、心の飢え渇き、携えて来た悔いる心を憐まれ、御自身の十字架によって、私たちの罪を打ち砕き、赦しの道を拓いてくださいました。
 私たちは、イエス・キリストの命によって命を買い取られたのです。イエス・キリストは私たちのために命を捨てられ、私たちはイエス・キリストの命という代価が支払われることによって、罪赦され、私たちは新しく生かされているのです。
私たちをそれほどまでに愛し、救って下さった神に対し、私たちは「しるし」を求め、神が現実的に良くしてくれたから信じようという、ギブアンドテイクを求めるのではなく、すべてに信頼して、その御言葉に自らを委ねることを、イエス様は待っておられます。
 私たちが信仰に対し不安定にぐらぐらしている時も、主は私たちに働いておられます。小さなしるしや奇跡は、私たちが耳を澄ませば、目を凝らせば、たくさん私たちの周りに満ちています。イエス様は、私たちが主の働きに気づくことを待っておられます。そして、自分自身の主に委ね、信仰によって、希望をもって新しい歩みを始めることを待っておられます。
私は最近、つくづく思うのです。御言葉に従うことにこそ、命があると。御言葉に信頼する時、希望は絶えることがないと。

 この役人は、カファルナウムに下る途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げました。そして、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、イエス様が「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを知り、この役人も、家族もこぞってまことにイエス様を信じるようになりました。

 二回目のしるし。それは、言葉によるしるしでした。父なる神は、万物の創造のはじめ「光あれ」と言葉を発せられ、言葉のとおりに光があらわれました。神の言葉は、事柄を起こします。イエス様の言葉は神ご自身の言葉です。そして、この聖書は神の言葉。私たちがまことに信じた時、神の言葉は事柄を起こします。
このイエス様の二つ目のしるしを、私たちは信じる者とさせていただきたいと願います。