「父は今なお働いておられる」(2017年9月10日礼拝説教)

「父は今なお働いておられる」
ヨブ記23:1~10
ヨハネによる福音書5:1~18

 今日の礼拝は、ご高齢の方々を特に覚えて礼拝をおささげいたします。
 今年も78歳以上の方々に、カードを送らせていただきましたが、現在、土気あすみが丘教会は現住陪餐会員は丁度50名ですが、うち14名の方々が78歳以上、また近々78歳になられることを確認しました。何故75歳ではなく78歳なのかと言いますと、75歳からでは、まだ役員を務めて下さっておられる方々がおられて、「敬老感謝」と言いつつ、一方で大いに働いて頂いているという、矛盾を感じつつ・・・という申し訳なさと戸惑いが私の中にあったためです。申し訳なくも、皆様の献身的な主にあるお働きに感謝しています。
 モーセは120歳まで生きて死にました。80歳でエジプト脱出という特別な使命を与えられたモーセです。聖書によれば、80歳を過ぎても、人はまだまだ重大な使命が与えられるのです。
 このことを、以前、大網家庭集会でお話しをさせていただきましたところ、K兄がとても喜んでくださいました。「これから何が出来るだろう」とそのようなことを言われたと思います。金曜日、K兄をお訪ねしましたが、その時のK兄のご様子は私には不思議に見えました。「あー」と絶え間なく声を出しておられ、ベッドに横になっておられますが、手が動くのです。その手は組まれ、祈る姿勢に見え、しばらくすると右手が大きく動き、神を賛美するような様子になり、また手を戻し、組まれる。1年以上、寝たきりになられている英児兄ですが、ひと月ぶりにお会いしたその御様子は、祈り、神と語らっておられる姿に見えました。K兄と共に主はおられ、K兄を主ご自身が満たし、励ましておられるのではないかと強く思いました。そして、「祈る」という使命を、主は歩くことも話すことも出来なくなっておられるK兄に与えておられるのではないかとも思いました。

 今日の招詞に「生涯、彼を満ちたらせ、わたしの救いを彼に見せよう」という御言葉がありました。この「生涯」という言葉は直訳すれば「日々の幅」という言葉です。長寿は聖書い於いて、神の祝福ではありますが、「日々の幅」は神と共にある者たちにとって、それぞれに神から与えられた賜物で、その「幅」には違いがありましょう。また、「日々の幅」という言葉の中には「忍耐」という意味も含まれています。聖書は「忍耐」することを大切なこととして教えていますが、私たちの生涯は忍耐をせねばならないことが誰の生涯に於いてもある。生涯=日々の幅、それは忍耐の日々であるかもしれないけれど、しかし必ず神は、イエス・キリストを通して救われ、神の御許に集められた者たちを、神に縋る私たちを、御心に叶った方法で満ち足らせてくださいます。神の祝福は、生涯=「日々の幅」の中に必ずある。神は神により縋り、神のもとに留まる私たちを助けてくださいます。神は憐れみをもって働かれたいと願っておられ、私たちが神の救いを受けることを望んでおられます。恵みで満たそうとされておられます。神は私たちが神から離れるのではなく、神のもとに縋り、祈り、神と共に生きる者であることを切に望んでおられる。このことに期待をしていただきたい、そのことを今日、高齢者の方々の祝福と共に覚えたいと願うものです。

さて、今日与えられました御言葉は、イエス様が祭りのために、エルサレムへ上られたときの出来事です。モーセの律法によれば、ユダヤ人の男性は皆、年に3回、すなわち、過ぎ越しの祭と、七週の祭、仮庵の祭のユダヤの三大祭のためにエルサレムに上ることが定められておりました。2章では過越の祭が描かれ、7章には仮庵の祭が書かれてありますので、5章の記述は、その間にある七週の祭ではないかと推測されますが、定かではありません。

エルサレムの神殿は多くの入り口、門があります。そのうちのひとつ、「羊の門」の傍らのベドサダの池での出来事です。
羊の門というのは、神殿で献げられる動物が神殿に入る門であり、その近くに、「ベドサダ」と言われる池があったと記されています。犠牲の動物が神殿に入る門ですから、「羊の門」からは、一般の人が居る場所ではありません。
5つの回廊、とありますのは、長方形の池を思い浮かべて下さい。その長方形の池の真ん中に区切りがあり、池がふたつに分断されています。その分断をしている廊下と、長方形の四つの廊下、柱があり屋根のある廊下、これを合わせて5つの回廊とヨハネは呼んでおりました。
エルサレムは祭りで人がたくさん集まり、賑わっている。しかし、ベドサダの池の周りは、祭りの賑わいとは恐らく無縁で、いつもよりも家畜の行きかうことだけは格段に多く、しかしこの池の周りはいつもと同じように、多くの病人が横たわっておりました。
5:5の前に十字架の印が聖書に記されておりますが、この印の部分というのは、ヨハネによる福音書の最後に記されています。聖書の時代は、印刷という技術はなく、写本といいまして、書き写してそれを継承しており、十字架の印の部分は、写本によっては記されていないものがあるため、新共同訳聖書は、この部分を正式な聖書本文としては扱っておりません。ヨハネ福音書の巻末にある、十字架の印のところを読んでみます。
「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りてきて、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」。
祭りであっても、祭りとは無縁の、神に見捨てられたような場所で、多くの病人が主の使いが来て、水を動かすのを待って多くの病人が絶えず水面を見つめている。水の動きを見て、早く飛び込んだ者だけが癒されると信じられていた場所。ここにいる人々は、ここで多くの諍いを起こしていたのではないでしょうか。一番に飛び込んだ者勝ちなのですから。いつも喧嘩や憎み争いの絶えない、荒んだ場所であったのではないでしょうか。
そのような場所に、イエス様は敢えて来られました。祭りの雑踏をよそに、祭りから外されている人々のところにやって来られたのです。
そして、そこにいる多くの病人の中のひとりにイエス様は目を留められ、その人が38年間病気で苦しんでいることを、神の子としての目で知られ、その人のそばに主は近寄られ、「良くなりたいか」と聞かれました。
 それにしても38年の病。長い年月です。この人が38年間病気に苦しんでいたということ。ただ「長い」ということを聖書は告げたいのでしょうか?何故38年と敢えて記されているのでしょうか。聖書に記されている数字の多くは深い意味が隠されています。
旧約聖書申命記2章14節以下にこのような言葉があります。
「カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで、38年かかった。その間に、主が彼らに誓われたとおり、前の世代の戦闘員は陣営に一人もいなくなった。主の御手が彼らに向けられ、陣営に混乱が引き起こされ、彼らは死に絶えたのである。」
 エジプトを脱出してから約束の地カナンに入るまでは、通常「荒野の40年」と申しますが、出エジプトをして、律法を与えられさまざまなことがあり、およそ2年掛けてイスラエルの民はカデシュ・バルネアに到着しました。カデシュ・バルネアからイスラエルの民はカナンを目前にしつつ、神に背いた罪の故に、38年もの間、約束の地に入ることが出来ずに彷徨ったのです。そこには、神のイスラエルに対する裁きと戒めがありました。しかし、その裁きを経て、神様はついに新しい世代のイスラエルを約束の地カナンに入れようとされる、そのような御言葉です。
もし、この「38年」が今日の箇所の背景にあるとするなら、それは、ひたすらな信仰に生きることなく、他の神々に心を奪われ、この世の富に心を奪われたイスラエルの民が荒野で犯した罪の数々とその罪に対する裁きの期間が、この病人の姿の中に隠されていると言うことなのではなでしょうか。38年間この人は、病に苦しみ、またこの場所で、誰も自分を池に入れてくれない悲嘆と怒りの中で、生きていたのでしょう。まことに神を仰ぎ見、神の救いに期待することなく、その気力も失せ、ただ水面の動きだけに救いを求め生きてきた人。

そのような人の人生に主は来られました。多くの病人がいるなか、この人に主の憐れみは向けられました。主は、38年間苦しんでいるこの人を憐れまれました。
「良くなりたいか」、イエスさまは、病気の人の思いを尋ねられました。病気の人が「良くなりたい」と願うこと、当たり前と言えます。しかし、イエスさまは、この人から「良くなりたい」という言葉を敢えて聞くことを望まれたのではないでしょうか。「良くなりたい」という意志をもつこと、38年間絶望の淵を生きてきたこの人に、病気であることに慣れと諦めをもって毎日を生きているこの人に、その人自身の諦めない意志を促されたのではないでしょうか。
この人は答えます。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」。
この人は「良くなりたい」とは答えませんでした。「誰も何もしてくれないから」という泣き言、恨み言にも聞こえる言葉を返しました。
2週間前、T兄を通して語られた「盲人バルティマイの癒し」では、バルティマイは、ひたすら癒されることを望み、「憐れんでください」と叫びつづけ、イエス様に「何をして欲しいのか」と訊かれて、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。この病人の癒しにはそのような必死の願いはありませんでした。ただ、一方的な主の憐みがあっただけです。
しかし主は言われます。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と。すると、この人は、即座に癒されました。38年、神の裁きの中に置かれていたに見えるこの人に、解放の時が訪れたのです。神は、この人を憐れんでおられました。神の憐れみがあり、神はこの人に働かれ、その神のご意志を受けて、イエス様は「起き上がりなさい」とその言葉によって命令されました。すると、床、おそらくは自分がずっと寝ていたござのような敷物を手に持ち、38年間病気であった人が癒され歩き始めたのです。
この人の苦しみからの解放は、イスラエルの民が、荒れ野の放浪から約束の地に入って行った、その時とも重ね合わせて考えられましょう。この人は神の一方的な憐れみによって、新しい場所へと、癒していただいた新しい命へと導かれました。イスラエルの民は、その罪の故に出エジプトをした人々は約束の地に入ることは出来なかった。でも、この人は主の憐れみによって救いへと一歩を踏み入れました。イエス・キリストを通してのみ入れられる新しい命へと、この人は一方的な神の憐れみによって召されたのです。

その日はユダヤ教の律法による安息日でした。安息日の規定によれば、「床をかつぐ」ということは、「仕事」と見なされ、律法では赦されておりませんでした。そのため、「床をかついでいる」その人を見たユダヤ人たちは、その人をとがめます。その人は言いました。「わたしを癒して下さった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と。この人は、あるがままを告げているのでしょう。しかし、このような「あの人がこう言ったのだ」という言い方には、心の中に、咄嗟の「責任転嫁」が起こっていることは否めません。この人は、咄嗟に責任の転嫁をするような、「ずる賢さ」、「罪」があったことが分かります。
それを聞いたユダヤ人たちは、安息日に「癒し」という「仕事」をされたイエス様を「律法違反の罪」で捕えようといたしましたが、イエス様はその場を立ち去られました。そして、この癒された病人は、イエス様のことを知りませんでした。

その後、再びイエス様とこの病人だった人は神殿の境内で出会います。羊の門の側のベドサダの池ではなく、この人は神殿の境内に自分の足で立って歩いておりました。主はこの人に言われます。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」。イエス様は、この人のうちに罪があることも、はっきり見抜かれておられ、戒めを与えられました。
しかし、15節では「この人は立ち去って」とあります。病を癒していただき、さらに主に「もう罪を犯してはならない」と言われた矢先、彼が主のもとから立ち去ってしまったのです。この人は、神に、イエス様によって一方的に愛され憐れみを受けながらも、その「もう罪を犯してはならない」という言葉のもとに留まることをしなかったのです。約束の地に足を踏みいれながらも、もとの罪の場所へと戻って行ってしまったのです。そして、この人は、ユダヤ人たちを恐れ、ユダヤ人たちに「自分を癒したのはイエスである」ということを告げ、そのことによって、ユダヤ人からのイエス様への迫害が始まりました。さらに、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」という、父とイエス様御自身を等しいものとしたということで、主に向けてのユダヤ人の迫害は強まっていくのです。神の一方的な憐れみは、この人自身に、その魂にまで届かなかったのです。

はじめに、詩編91編の中にある「生涯」という言葉は「日々の幅」であり、神は「日々の幅」の長短に拘らず、神の祝福は、神、イエス・キリストと共にあることによって与えられるということをお話しいたしました。
このベドサダの池の病人は、神から憐れまれ、神の憐れみと共に、地上に於いて働かれておられるイエス様の、その「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という言葉によって、38年の病の苦しみからの解放を見ました。しかし、この人は、イエス・キリスト、その御言葉のうちにとどまることをしませんでした。イエス様は、この人のことを悲しまれたに違いありません。とどまらせようと思われたからこそ、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」とまで言われたのです。

ここにおられるすべての方は、神の憐れみのうちにおられます。神の一方的な憐れみによって招かれ、ここにおられます。多くの方々は招きに応えて洗礼を受け、イエス・キリストに連なる者となられました。神はここにおられるすべての方の、その生涯=それぞれに与えられた生涯を、癒し、神の恵みで満たそうとしておられます。生涯の日々、神のもとを離れることなく、イエス・キリストに連なる人として、神の恵みに満ちたらせていただく歩みをされますことを祈ります。
イエス・キリストのもとを離れず、御言葉を求める私たちの生涯の日々を、その日々の中でたとえどのような忍耐が必要なことが起ころうとも、それであっても神の恵みに満たされて生きることが出来る。神は私たちが神のもとに絶えず留まり、忍耐をもって共に生きることを切に望んでおられます。父なる神はすべての人の救いのために、今も尚働いておられます。そして、イエス・キリストは、私たちの救いのために、絶えず執り成してくださっておられます。
イエス・キリストの救いのうちに生涯留まり、神の愛を味わい尽くしたいと願います。それぞれに与えられる神の恵みは違うことでしょう。それを味わい知る生涯でありたいと願います。このことを今日、高齢者の祝福と共に覚えたいと願うものです。

カテゴリー: 過去の説教