「その声を聞いた者は生きる」(2017年9月17日礼拝説教)

ハバクク書2:1~4
ヨハネによる福音書5:19~30
 
 昨日、愛するAK姉妹が神の御許に帰られました。腎臓の病を患っておられ、3ヶ月ほど前から症状が悪化しておられました。ご家族は、覚悟を決められたそうですが、その矢先、ご主人のAH兄が、突然天に召されました。K姉の口癖は、「主人より先に死ねない」だったのだそうです。そして重篤な病を抱える中、先に最愛のH兄を天に送られ、それから三ヶ月も経たないうちに、ご自身も天に昇られました。
 今、主の御許で、H兄にも見え、永遠の命を得られたことを、確かなものとして受けとめておられることを思います。お読みしたヨハネ5:24にイエス様の言葉として語られておりますとおり、イエス・キリストを信じる信仰というのは、「死から命へ」移される信仰です。死は死では終わらない。命へと移されていく。ただ、イエス・キリストの言葉を聞いて、さらにイエス・キリストを世にお遣わしになった父なる神を信じる、ただそのことに於いて、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移らせていただけるのです。このことは人間の心には不思議に思えます。簡単すぎるように、また人間の側の都合が良すぎる、楽過ぎるように思えもします。しかし、このことを是非とも信仰をもって受け留めていただきたいと願います。神は、すべての人を、この救いに、神と共にいる命に入れられることを望んでおられるからです。
 K姉妹のご遺族の上に、天来の慰めが豊かにありますことを祈りつつ、明日の葬送式に備えたいと思います。 

「ヨハネによる福音書」の講解説教を続けています。この福音書は、他の三つの福音書とは書いてあること、書き方が随分違います。他の福音書はもっと素朴な譬え話や語り口に思えますが、ヨハネ福音書は、いかにも難解に思えます。今日の御言葉も、一回読んだだけでは、気に掛かる言葉だけが心に残って、あとは分からないと思えてしまいそうな御言葉です。
 この福音書のことを、神学校の時代、新約聖書神学という授業で、先生が面白い譬えを話されました。それは、「ヨハネによる福音書は、金太郎飴みたいだ」と言うのです。聖書の大切な文書を金太郎飴だなんて・・・と思うのですが、その意味は、「どこを切っても同じ顔が出てくる」というのです。どんな顔が出てくるのか、それは、イエス様は父なる神のなさることをみなければ、自分からは何事もできない、またなさらないということ。そして、イエス様は父なる神とひとつであられるということ、それがどこを切っても出てくるというものでした。
 今日の御言葉はまさにそのことが語られている箇所と言えます。
 神はおひとりの神。そのお方は、父・子・聖霊なる三位一体のお方です。今日の御言葉には聖霊なる神のことは語られていませんが、イエス様は聖霊なる神のことも、ヨハネによる福音書でご自分とひとつのお方であることを語っておられます。
 父なる神とイエス様、そして聖霊なる神は、別々ではない、三つにいましておひとりの神である、このことを、今日はまず心に留めておきたいと思います。

 今日の御言葉は、先週の続きで、ベトザタの池の病人の癒しの続きです。
 癒していただいた病人が、エルサレム神殿の境内でイエス様に出会い、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と、直接言葉を掛けていただきながらも、イエス様のもとを去り、ユダヤ人たちに、「自分を癒したのはイエスだ」と知らせたことで、イエス様はユダヤ人から迫害され、命を狙われるようになりました。
 それは、その人がイエス様に出会い、癒された日が、ユダヤ教で仕事をしてはならないと定められている安息日で、その日にイエス様が、病人を癒した=癒す、即ち仕事をしたために、律法違反の罪で断罪しようとしたのです。
そのことを耳にしたイエス様は、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と、父なる神が働いておられるから、イエス様も働くとご自身を神と等しい者とされたがために、律法違反の罪に加えて、神を冒涜した罪として、ユダヤ人たちは、ますますイエス様を殺そうと狙うようになりました。
 そのような中、19節でイエス様は言われました。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と。
 イエス様は、肉に於いてはひとりの人間としてお生まれになり、人として生きられました。人間であれば本来自己主張をしますし、世に於いて、功名を得たいと願うことでしょう。イエス様の宣教のはじめ、共観福音書には、イエス様が悪魔の誘惑を受けたことが記されています。三つの誘惑がありましたが、そのうちのひとつは「この国の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と言う、目に見えるものを限りなく求める性質の人間が求める世に於ける最高のもの、この世の名誉と繁栄への誘惑でした。この世の権力と繁栄は、悪魔に任されている、そのことも語られている箇所です。しかし、イエス様は、それらの悪魔の誘惑を、すべて聖書の御言葉によって退けられました。そして世ではなく、神に従うお方として、徹底的に世を生きられたのです。

 イエス様は、神の御子であられるので、「神に従う」ということは、ちょっと不思議にも思えますが、イエス様は完全な人間でもあられましたので、地上を生きるその意味に於いて、「神に従う」ということは、明確なあり方であられたのでしょう。人間としての生き様としては、ひたすら「神に従う」ということは、謙遜な生き様であり、またすべての人間の学ぶべき模範と思われます。同時にイエス様が、ご自身を神と同じものだとされることは、神の御子としては当然のことでありましょう。
 そしてイエス様は、世に於いては、その最後は十字架という苦しみの死を遂げられるまでに、父の御心に従いぬかれました。イエス様の生き様は、あくまで神中心であり、人間が持つ、この世の自己主張のようなものは微塵も無かったのです。
 しかし、イエス様を神の子と認めないユダヤ人たちにとっては、イエス様のその姿勢、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」という、従順で謙遜なあり方は、ただの神への冒涜としか映りませんでした。罪深い人間と、神の御子との間には、その感じ方、考え方に於いても大きな乖離がありました。

 そして、今日の箇所から5章の終わりまで、イエス様の説教が続きます。ここで語られていることは、父なる神と、御子イエスはひとつである、ということ。先の不届きと思える譬え、どこを切っても父と子はひとつである、という金太郎飴のように同じ顔が出てきている、そしてそのことを通して顕されている救いについて、信仰の本質に迫っていく、そのような箇所です。

 少し視点を変えます。
 父なる神は、すべてのものの創造者であられます。神はすべてのものをお造りになった最後に、人間を土の塵から造られました。造られた時、神は「すべては良かった」と言われました。しかし、最初の人アダムとエバは、神からたったひとつ与えられた行動の禁止事項、「園の中央の木から実を取って食べてはならない」という戒めを、悪魔=サタンに譬えられる蛇の誘惑にあい、その誘惑に負けてしまい、神の言葉ではなく、悪魔の言葉に従ったがために、人間には神に背く罪という性質が入ってきました。この時の、エバと蛇の会話を読んでみます。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 ここで、「死ぬ」という言葉が出てきます。神は、その果実を食べたら「死ぬ」とアダムとエバに語っておられました。しかし、蛇は「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」と言いました。神の戒めより、蛇の言葉を信じて、「いかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた」木の実を取って食べたところ、アダムもエバも、蛇の言うとおり、死ぬことはありませんでした。しかし、自分たちが裸であることを、その時から初めて知り、また、それまで共に幸せに過ごしていた神が怖くなり、神から隠れ、逃げるようになったのです。
 このことを、罪の始まり、また原罪とも申します。人の体は死ななかった。しかし、神を怖れるようになった人間は、霊に於いて「死んだ」のです。霊に於いて死ぬということは、神と共に生きることが最早出来なくなるということです。聖なる神と、神に背く罪という性質は、相容れることは出来ません。そして、人間は、エデンの園の東の地に、神と離れて生きるようになった、エデンの園の東の地は、神と引き離された地。それは、私たちの今、生きているこの地のことを聖書は語っています。

 しかし、神は憐れみ深く恵みに富まれる神は、罪ある人間をそれでも尚愛され、人間に神と共にある命を与えたいとどこまでも願われました。そして今も願っておられます。そして、神のひとり子を、エデンの東のこの地に、肉を持った人間としてお遣わしになり、ご自分のなさろうとすることを、すべて御子イエス様にお委ねになられました。20~21節「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」。
 この「父が死者を復活させて命をお与えになるように」というのは、イエス様ご自身の言葉ではありますが、父なる神は、十字架に架けられ、死なれたイエス様を復活させられることになる、という意味です。ここで語られている「命」という言葉は、ゾーエーというギリシア語で、永遠の命を表す言葉です。
 人間として生き、人間として死なれた御子イエス様を復活させられ、永遠の命をお与えになられるのは、父なる神であられる。そして、父なる神と等しいお方であられる御子イエス様に、父なる神が、御子が与えたいと願う人間に、永遠の命を与える権能をお授けになっているというのです。すなわち私たち人間の裁きについて、一切、イエス様に任せておられるというのです。

 そして、24節、25節は、イエス様に父なる神から与えられた権能の内容です。「はっきり言っておく」という強い言葉をもって、このことは語られております。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」
 ここで「移っている」と語られています。イエス様の言葉を聞いて、イエス様をお遣わしになった父なる神を信じる者は、永遠の命を既に得ていて、最早裁かれることなく、既に死から命へと既に移っていると言うのです。
 私たちも、イエス・キリストの御言葉=聖書の御言葉を聴いて、今父なる神を信じている。そのような私たちは、既にこのエデンの東の地で、神と引き離されて生きているように見えて、実は、神と共にある命=永遠の命を、先取りして、すでにいただいているのです。このことは今日の個所では語られておりませんが、信じた者には聖霊が与えられる。このことが、命の保証です。

 また25節「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」。
 難しい言葉ですが、この言葉と対比するように語られているのが、28節の御言葉です。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」
 25節は、「今」、この地、エデンの東の地に於ける「今」です。2000年前であっても、2017年の現在であっても、この地で語られている「今」です。25節の「死んだ者」とは、先にアダムとエバの話を用いて語らせていただいた、「霊に於いて死んだ者」の意味です。原罪を持ち、霊に於いて死んでしまったまま生まれて来ている人間が、神の声=イエス・キリストの御言葉を聞く時、それが「今」であるのです。そして、その声=御言葉を聞いた者は、生きる=霊に於ける死から、神が共にある命=永遠の命に生きる命へと生かされるのです。今、ここで、御言葉を聞き、信じる、ただそのことによって、「命」が与えられると言われるのです。
 そして28節の「時が来ると、墓の中にいる者は皆」というのは、「今」ではなく、「終わりの時」、終末の時を表します。旧約聖書ダニエル書12章に「多くの者が地の塵の中から目覚める。ある者は永遠の命に入り、ある者は永遠に続く憎悪の的となる」という御言葉がありますが、それと同じことをここでは語られています。終わりの時の裁き。この「人の子」というのは、旧約聖書で語られている終わりの時に現れる救い主を表します。旧約聖書で約束されている終わりの時の救い主が、イエス様である、そのような言葉です。終わりの時には、死んだ人たちすべてが、人の子=イエス・キリストの声を聞き、目覚める、そして、ある人には命が与えられ、ある人は裁かれる。

 聖書の教えは厳しいですね。
 命のことは、誰も見てはいない、神の領域でありますから、分からない。ただ、私たちには御言葉が与えられておりますので、この厳しいまでの御言葉を信じる信仰が、何より求められている。信じない者ではなく、信じる者にならせていただきたいと願います。

 私の友人が6年前に癌で召されたことを以前にもお話ししたことがありますが、その時、もう臨終と言われた時、病床で信仰を求めていた友は、枕元に居る私に、「紙と鉛筆を」と言いました。何のことだろう?と渡すと、彼女は、震える手で書いたものを、私に神妙な顔で渡してくれました。それには、「キリスト様に、本当に赦してください。楽なもんだね」と書かれてありました。今も大切に持っています。彼女は不思議なまた力強い神の働きによって、罪の悔い改めに導かれ、世の体は死んでしまいましたが、霊に於いては命を得たのだと私は信じています。そして今、神と共にある永遠の命をいただいていることを信じています。
 しかし、その後の「楽なもんだね」が私には、何のことだかずっと分かりませんでした。でも、今はようやく確信を持って「楽なもんだね」の意味が分かったと信じています。
 それは、「こうやってイエス・キリストを信じて、罪の悔い改めをするだけで、罪を赦されるなんて、楽なもんだね」ということだったと思うのです。病の苦しみの中でイエス様に、「ただ、イエス・キリストを信じなさい。罪の悔い改めをしなさい。それで、あなたは救われる」と言われたのではないかと思っています。
 ただ、それだけ。イエス・キリストを信じること、それだけで、人間はまことに救われるのだ、ということを、死の間際で、神ご自身が、私の友に力強く働かれ、諭されたのだと信じています。そのことを、「楽なもんだね」と書いたのではないか、そのように思っています。

 最後にヨハネによる福音書11章25~26節をお読みいたします。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」

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