「父なる神とイエス」(2017年9月24日礼拝説教)

ネヘミヤ記8:1~3
ヨハネによる福音書5:31~47

 旧約聖書の律法は、今から3300年位前に、モーセを通して神によって与えられ定められたもので、古代の不合理な、時に残酷で理不尽な法のように思われてしまいますが、実は非常に人道的で、現代にも通じる教えが多くあります。
 例えば、「畑から穀物を刈り入れるときは、その畑の隅まで刈りつくしてはならない」(レビ記23:22)という教えは、刈りつくさず、残った物、また下に落ちたものは貧しい人、またその土地の寄留者のためのものだという教えです。この教えは、現代の社会福祉の原点です。
 また「家を新築するならば、屋根に欄干をつけねばならない。そうすれば、人が屋根から落ちても、あなたの家が血を流した罪に問われることはない」(申命記22:8)という教えは、当時のイスラエルの家の屋根は平だったのですが、平らの屋根から人が落ちて怪我をしたり亡くなったりしてはならないので、それを防ぐために屋根には欄干=柵をつけなければならないという教えです。こんなことまで律法に書かれてあるのか、と思いますが、これは日本では1994年に制定されたPL法=製造物責任法に当たる神の教えで、危険なものを製造し、事故が起こった場合、事故の責任は製造者にあるという法律に類する律法と言えましょう。日本の法律は、古代イスラエルよりも3300年も遅れている・・・かなり衝撃です。このように、聖書の教えは、現代にも通ずる人道的な配慮と知恵と公正に満ちています。

 そして、今日の箇所では「証し」ということが問題となっています。これまでにも1章19節から「バプテスマのヨハネの証し」について語られていましたが、「証し」ということ、ヨハネによる福音書の重要な概念のひとつです。
 この「証し」という言葉は、原語では裁判の法廷で使われる言葉で表されておりまして、法廷での「証言」という意味となります。
 私が最近、ニュースなどを見ていて大きな問題だなと思うことのひとつに、例えば政治家が不正を行っていることが明らかなのに、「私は潔白です。そんなことはしていません」のように罪を認めないで堂々としていると、その言葉がそのまままかり通り、批判を殆どされずに、本人の言葉のまま「していませんと言いました」とニュースとして報道され終わらされることが多くなっているように思えることです。人間というのは、自分自身について得になるようなことを言う者ですから、本人の言うことは当てにはならなりません。神の言葉である聖書は、そのことをよく知っています。
3300年前の律法の教えはこうです。「いかなる不正であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」(申命記19:15)、本人の証言はもっての外、その証言は一人ではなく、二人、三人でなければならないというのです。また、ユダヤ教の古いラビ・教師たちの言葉を書き留めた『ミシュナー』という書物の中には、「人が自分自身について証言する場合は、信じられない。・・・誰も自分自身について証言してはならない」、このような原則があります。自分が自分自身に対して証言するなどということは信じられていないわけです。3300年前の律法が、これほど明確に「証言」ということを重んじているのに、今の日本という国の社会の倫理は一体どうなっているのか・・・とすら思えてしまいます。
 今日の御言葉も、5章はじめのベドサダの池の病人の癒しの出来事から始まった、イエス様に対するユダヤ人の迫害が前提にあります。人々の無理解の中におられるイエス様の大きな苦悩を感じられる箇所であり、すべてがイエス様の言葉ではありますが、その語り口が難しくもあります。

 イエス様を殺そうと狙っているユダヤ人たちが、この時、イエス様の周りに居りました。この箇所は、法廷ではありませんが、イエス様が安息日に病人を癒すという律法違反と見做される行為をされたこと、また5:17で、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とイエス様が父なる神と同じお方であることを語られたことにより、ユダヤ人たちは怒り、イエス様を神を冒涜した罪に定めて殺そうと狙うユダヤ人の間に向かって、イエス様は、ご自身がどのようなお方であるか、「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しなさる方は別におられる」(5:31、32)と、別の証人が必要である、というイスラエルの律法の教えの基本的な考え方を前提して、ユダヤ人たちの冷たくも残酷な視線の中で、イエス様はご自身について証しをされます。
(少し難しい箇所ですが、お聞きください。)

 一つ目は、人による証し=証言です。具体的には洗礼者ヨハネによってなされた、イエス様の証しについてです。
 ヨハネ福音書の1章に於いて、ユダヤ人が祭司やレビ人たちを洗礼者ヨハネのところに遣わして、洗礼者ヨハネに「あなたはどなたですか」と尋ねる場面がありました。その問いに対し、ヨハネは「自分はメシア=救い主ではない」ということを語り、さらに、イエス様にヨハネが洗礼を与えた時、聖霊がイエス様のもとに降るのを見て、「この方=イエス様こそが神の子である」と証しをしました。しかし、洗礼者ヨハネの言葉をユダヤ人、祭司、レビ人たちは信じませんでした。
 人々が信じなかった、イエス様が神の子であるというヨハネに証しの言葉ではありましたが、人々は、洗礼者ヨハネ自身に対しては「救い主ではないのか」と期待をし、ヨハネの周りで「喜び楽しもうと」していました。ヨハネに対して、人々は期待をしたのに、何故イエス様を全く認めようとしないのか、よく分かりませんが、洗礼者ヨハネは人間です。イエス様は神の御子です。人間を遥かに超えたお方です。人間というものは、自分の理解出来る範疇で物事を見ようとするものなのではないでしょうか。自分が理解出来る、ということは、理解をする側の人間の方が飽くまでも優位に立とうとする性質です。
 極端な例を挙げてみれば、ある国で、小さな子どもを王として祭り上げておいて、周囲の高官たちが自分たちの都合のよいように体制を作り上げる、そんなイメージでしょうか。また、人間というものは自分の願望を投影した偶像を作ります。神を求めると言いつつ、神そのお方を本当には知ろうとはせずに、神という名の自分に都合のよい偶像をつくり出し、それが自分のつくり上げた神像と合わなければ、事柄が起こった時、「神は何処にいるのか」と言って嘆いたりする。信仰、神に対しても、どこか自分が頭で即座に理解出来る範囲のものであって欲しいし、自分が優位に立ちたいと願っているものです。

 人間であるヨハネは、人間には分かりやすく自分たちの手の内に入れることが出来ると、嗅覚のようなもので感じて、ユダヤ人たちは「燃えて輝くともし火」のもとで「喜び楽しもう」としたけれど、ともし火はやがて消えるものです。人間のつくり上げた「喜び楽しみ」は、やがて消えます。しかし、イエス様は神の御子=まことの神であられた。神は人間の理解を遥かに超えた永遠なるお方です。人間は、自分を超えた存在を認めようとはなかなかしないものです。そのような性質が、ヨハネの言葉「この方=イエスこそが神の子である」という証しを受け入れなかったのではないでしょうか。ユダヤ人はイエス様を救い主とは認めませんでした。
そのように人々が受け入れなかったヨハネのイエス・キリスト証し=証言ですが、人間であるヨハネの証しはイエス様にとって重大な証言ではないということを、ここでイエス様は語っておられます。ヨハネの証しに優る証しが、イエス様にはあるからです。

 イエス様は言われました。 
「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」と。
イエス様は父なる神から世の救いのために遣わされた、神の御子です。神はおひとり。おひとりの神は、父・子・聖霊なる三位一体のお方です。1:18で「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と語られていましたが、イエス様は天の父のふところに、天の父と共におられた神の御子。御子は世の救いのために父なる神のふところから、この世に派遣されたお方です。そして、この時、地上に於いて、イエス様は人々の救いのために、多くの奇跡の業=しるしを行っておられました。その業そのものが、イエス様を神の御子であることを証し=証言していると言うのです。
さらに、「成し遂げるようにお与えになった業」、「成し遂げる」ということ、イエス様は、十字架の上で命を失われる直前、「成し遂げられた」と言われ、頭を垂れて息を引き取られた、とヨハネによる福音書は語っています。十字架、それはまさしく、神が世に与えられたただひとつの救いのしるしです。罪を持って生まれた人間は、イエス・キリストの十字架のもとに、自らの罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架の上で、罪を滅ぼし尽くしていただかなければ、まことの命=神と共にある永遠の命を得ることは出来ません。神が「成し遂げるようにお与えになった業」とは、まさにイエス様の救いの十字架のことではありますが、しかしイエス様がこのことを語っておられるこの時には、まだ十字架の出来事は起こっておらず、また成し遂げられてもおりませんでした。
 ここでは十字架のみならず、イエス様の地上でなさった業のすべて、癒しの業も、すべてのことは、父なる神がイエス様をお遣わしになったことを証し=証言すると言うのです。奇跡=しるしについては、イエス様は、しるし=奇跡のみを求める人たちを悲しんでおられ、イエス様は人々の「信仰」を求めておられますが、イエス様の業=しるしそのものは、父なる神からのものであり、その業=しるしは、イエス様が神の子であることを証しするものです。
 
 さらに三つ目の証しは、37,38節で語られています。「あなたたちは、まだ父の声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を信じないからである」と。
ここで言われておりますのは、父なる神が、イエス様の業を通して・・・のようにイエス様を通して父なる神ご自身が顕される証しではなく、「父ご自身が」イエス様について証しをしておられると、語られます。
 37節に「わたしについて証しをしてくださる」とありますが、この「証しをしてくださる」は、「証しをされた」と原語では完了形で書かれています。完了形とはどういうことかと言いますと、動作そのものは過去に行われたものですが、その効果と影響が今までずっと生きて続いている動作を表す時に、この表現を使います。
 神ご自身の証言というのは、確かに証言をしたのは昔でした。モーセを通して律法は与えられ、その後預言者たちを通しても語りつづけられ、聖書がまとめられました。、その証言の効力は今に至るまでずっと生きているものです。
38節によれば「父のお言葉」であり、39節によれば聖書であり、さらに47節によれば、「モーセの書いたこと」、すなわち旧約聖書のことなのです。そして言われます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」と。
先ほど、洗礼者ヨハネの証しについて、ヨハネのことを人々は人間としての理解の範疇であるから、分かりやすいから、救い主かもしれないと思って期待をしやすかったのではないか、とお話しいたしました。ここで語られている聖書についても非常にそれに似た発想だったのではないでしょうか。
「聖書を研究している」とイエス様は語っておられますが、研究をするということも、研究をする人が主体となっていると言いましょうか。「聖書の研究」ですので、「科学的な証明」が必要なことではありません。どうしても研究の仕方は主観的になる。また、研究の材料になることで、「信仰」ということから離れてゆくことは大いに有り得ましょう。また、当時のユダヤ教の聖書観には、聖書そのものの中に、何か永遠の命があって、聖書を調べれば調べる程、自動的に、永遠の命も身につくという考え、聖書そのものに、何かそういう永遠の命を与える力があるという誤解があったのだそうです。
 しかし、イエス様が仰いますように、実は「聖書はわたし=イエス様について証しをするもの」であり、決して聖書それ自体の中に永遠の命や救いがあるのではなく、聖書とは、永遠の命を与えてくれる救い主イエス・キリストを指し示し証しし、イエス様の救いへと導く道しるべです。永遠の命は、聖書の中にある、のではなく、聖書が証しし指し示す、イエス・キリストのうちにあるのです。しかし、人々は、命を得るために、イエス様のところに来ようとはしない。

 イエス様は嘆き、さらに言われます。「あなたたちのうちには神への愛がないことを、わたしは知っている」(42)と。
 救い主を自分たちの理解出来る範囲でつくり上げて喜び楽しもうとしたり、イエス様のなさるしるし=奇跡には目を奪われるけれど、その業そのものが何であるか、神がイエス様を世にお遣わしになったのだということに目を向けようとはしない。また聖書は単に研究材料であり、本当に指し示すお方を見ようともしない。すべてのものの主権は神にあることを認めようとせず、何もかも、人間=自分の都合の良いように引き寄せ、理解して、それらを人間的な楽しみに換えようとする人間の自分本位な性質。
自分本位であるということは、神への背きであり、神への背きは罪そのものです。
 神を語りつつ、研究しつつ、どこまでも自分本位な罪の性質を持つ人間には、イエス・キリストの証し=証言=イエス様こそが救い主であるということをまことにを受け入れることは、神を本当に信じることは出来ないのでしょうか。イエス様の苦悩にも似た、今日の御言葉を読みつつ、改めて「信仰」ということについて、考えさせられます。

 しかし、そのような自己本位な私たちのためにであっても、「神は今もなお働いておられ」(5:17)ます。そして、神が働いておられるから、イエス様も今尚働いておられます。父なる神と子なるキリストはひとつです。人間の救いのために、父なる神がイエス様に成し遂げるようにお与えになった業―罪の赦しの十字架―は、既に世に立てられ、今も、私たちが罪を犯して、悔いる心のあるところに、立てられています。
「悔いる心」というのは、自己本位のままでは起こることはありません。自分中心のままでは、人は何処までも自己弁護を続け、自分を良く見せるための自己証言を空しくし続けることでしょう。
 信仰にとって、大切なことは、神に自分自身を「明け渡す」ことです。自分中心の心で、自己弁護や自己証言をかたくなにし続けるのではなく、それらは手から放し、罪を犯したならば、罪を犯し、ぼろぼろになった自分をそのまま、神に明け渡し、赦しを乞うのです。イエス・キリストは喜んで手を差し伸べて、罪の縄目から救い出し、光の道を指し示してくださいます。

 イエス様についての証し=証言とは、イエス様は私たちの救い主であるということです。この証しを、心から喜び、受け入れる者でありたいと願います。そして自己証言に躍起になるのではなく、人間を超えた、計り知れない大きな神の御手の中で、赦され、生かされている者として、謙遜に神の御前に立ち、神を愛さない者ではなく、愛する者でありたいと心から願います。