「イエスは命のパン」(2017年10月15日礼拝説教)

出エジプト記16:13~18
ヨハネによる福音書6:41~59

 私の部屋には、以前、パンを象って作った小さな陶器の器に、御言葉カードが200枚くらい入っている、そんなちょっと洒落た物がありました。「以前」と言っているのは、残念ながらいくつかの引越しのどさくさで、パンの形の器が割れてしまい、今は御言葉カードだけが残っているからです。御言葉カードは、今でも食卓のテーブルの真ん中に、カップに入れて置いてあり、食事の前など、一枚引いて、少し御言葉を味わい、食事をするということをしています。食卓に大きな聖書を置く必要がなく、短く、心に残る御言葉を目に出来て、そして食事をいただくことは、生活の風景のひとつになっています。
 パンの形の器の中に入っている御言葉カードを軽井沢のキリスト教関連施設に泊まった時の食卓で初めて見た時、「わたしは命のパンである」と言われた今日の箇所のイエス様のお言葉を思い出し、「イエス様は神の言葉。そして御言葉は命のパンなんだ」ということが、視覚的に分かって、少し信仰が成長したような気持ちになったことを覚えています。そして、御言葉を味わいつつ、御言葉をからだに日々蓄えながら、生きることこそが、私たちにとっての命の源なのだということを思いました。

 イエス様は5000人の人々を、少年の差し出した二匹の魚と5つのパンで満腹で満ちたらせられるという奇跡を行われました。パンの奇跡を体験して満腹になった群衆でしたが、朝になると、またお腹が空いてしまっていました。そして、イエス様がそこに居ないことを知ると、生きるためのパンを、イエス様を捜し求めて、カファルナウムにいるイエス様のもとに探し当ててやって来ました。
 人々の食べた5つのパンと2匹の魚は、イエス様ご自身が分けて、ひとりひとりに配られたものでしたが、イエス様からいただいたパンで満腹になったからと言って、その満腹はずっと続くものではありませんでした。
 それは、旧約聖書の出エジプトの時代、天からのマナをいただいて食べた人たちも同様でした。天の主なる神から下されたパンであるマナを、毎日その日に食べる分だけ集めて食べていましたが、天からの食べ物であるからと言って、それを食べて飢えることが二度と無くなるわけではなく、とにかく、毎日必要な分を集め、食べ続けることによって命を得たのです。

 私たちは「主の祈り」の中で、「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っています。「主の祈り」を祈りつつ、「日用の糧」ということを思う時、私たちの日々の食べ物は、主の手からいただいているものだということを知ります。5000人にイエス様の手から手渡されたパンと魚、そして、私たちの日常に備えられた食べ物のすべては、イエス様の手から恵みと憐れみによって渡された命の糧、日々の糧であることを心に覚えます。
 しかし、「日用の糧」はあくまで「日用の糧」であって、一度食べて満腹したからと言って、満腹感が続くものではありません。私たち人間、そして神の造られたすべての生き物は、絶えず、食べ物を体に入れ、また排泄をして、体を循環させながら生きています。この世の体というものは、そのように出来ている弱い器です。イエス様から男だけを数えて5000人に分け与えられたパンと魚も、この世の体、弱い器を満たすための「日用の糧」でありました。

 イエス様は先週お読みした6:27で「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われました。「朽ちる食べ物」とは私たちが日常口にしている食べ物のことです。
 そして、朽ちない食べ物、永遠の命に至る食べ物のために働くということは、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と、神がお遣わしになられた方に対する「信仰」こそが「永遠の命に至る食べ物」であるとイエス様は仰いました。さらに、神がお遣わしになられた方、天から降って来て、世に命を与える命のパン、人間が信じるという神の業をなすべき対象とは、イエス様ご自身であると、イエス様自ら言われたのです。

 この言葉を聞いたユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と「つぶやき」始めました。
「つぶやく」という言葉、またその行為は聖書に於いて独特な意味を持っています。旧約聖書出エジプト記に於いて、奴隷であったエジプトの地から、主なる神が葦の海の水を壁のように分けて、そこをイスラエルの民が通り脱出したという奇跡を体験しながらも、食べ物が無いためにモーセとアロンに向かって不平を述べ立てました。今日の御言葉で「つぶやく」と語られていることは、出エジプトをしたイスラエルの民の罪の姿を特徴づける言葉として語られています。
 彼らはガリラヤの人たちで、イエス様の出自を知っています。この不思議な業をされる方が、ナザレの大工ヨセフの息子であること、その母も知っている。どちらかと言えば貧しい家の普通の子どもだったのではないか。子どもの頃からのイエス様の様子を知っている人も、中にはいたことでしょう。自分たちの訴えが思い通りに届かないことから、自分たちが知っている人間としてのイエス様に拘り始めたのです。
 そこには飽くまでも人間が自分たちの持ち、認識し得る知識に拘る、そして、神すら自分たちの思いや知識ののうちに閉じ込めるのが当然と思っているような性質が見られるのではないでしょうか。人間は、自分たちの知っている知識に拘り続ける時、イエス様とはどのようなお方か、その本質には届かないのです。

 私の中のひとつの小さな記憶ですが、若い時代、福島県で牧師をしていた母方の祖父が亡くなったのは、私が25歳の時で、丁度教会に行きはじめた時期でした。私は祖父の死と葬儀に立ち会ったのですが、葬儀の準備をする中、祖父の書棚から、祖父が読んでいた聖書を見つけ、中を開くと、さまざまなメモ書きがありました。イエス・キリストに対する信仰を持ち始めていた私には、とても祖父の聖書は大切なものに思えました。覚えていることは、「私はイエス・キリストにお目に掛かったことはない。しかし、私がイエスに直接お会いしたことが無いからといって、それがキリストを知る妨げになることはない。いや、生きていたイエスを知っていた人たちよりも、寧ろ私はキリストに近い。」とそのようなことが書かれてあったと思います。祖父が書いていた言葉は、まことに新鮮な信仰の驚きが伝わってくる書き方であったことを印象として記憶しています。

 私たちもイエス様に直接お会いしてはいない。どのような家庭に育たれたのか、どのような振る舞いをされたのか、私たちには聖書を通して以外知ることは出来ません。しかし、私たちがイエス様を「知る」ということは、人間的な知識によるのではなく、ただ、「父が引き寄せてくださる」という恵みによって、イエス様こそが神から遣わされた救い主であることを、ただ信じる信仰によってしか、まことにイエス様を知ることなど出来ないのです。人間の持つ知識では、イエス様に到達することは出来ないのです。ユダヤ人たちの過ち―現代に至る―は、自分の持つ知識を誇り、自分の知識により頼むことにより、真理が見えなくなったのだと言えないでしょうか。

 しかし、そのように、自分たちは「イエスを知っている」と自負しているユダヤ人たちではありますが、実は、彼らの知識は正しくはありませんでした。何故ならイエス様はヨセフの子として育ちましたが、実はヨセフの子ではありません。母マリアはヨセフと正式に結婚をする前に、神の霊であられる聖霊によって身籠ったことが語られています。人間の父ではなく、主なる神を、イエス様はご自身の出自とされているのです。イエス様は、「神のもとから来られた」お方であられるのです。イエス様には、人間の知識では、分かり得ない、知り得ない領域があります。

 イエス様は、49節で、出エジプトをして、食べ物がないために不平を言った民は、天からのマナを与えられたけれど、死んでしまったことを語られ、さらに天から降って来た命のパンであられるイエス様を食べる者は死なないと、不思議なことを語り始められます。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と。
さらに53節54節をお読みいたします。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と。
 不思議な言葉です。またちょっと言葉だけを聞くと、ぎょっとする言葉でもありますね。
 イエス様の肉を食べ、血を飲むというのですから。実際、初代の教会の歴史を辿りますと、2世紀頃のキリスト教会は、キリスト教徒はキリストの血と肉によって養われると主張し、キリストを幼子と呼び、聖餐式を行っていたことから、キリスト教徒は幼児の肉を食べるなどという悪い噂が流されたりもしたことがあったのだそうです。そんな噂を流され兼ねない言葉ではあります。

 以前、他の福音書には、最後の晩餐の席での主の晩餐の制定が語られているけれど、ヨハネにはそれがない。しかし、パンの奇跡から始まる6章は、聖餐について語られているとも理解されているということをお話しいたしました。6章をここまで読み進んできますと、実際まさにイエス様は、ここで聖餐のパンとぶどう酒について語っておられるということがはっきりしてきます。

 他の福音書では、パンを裂き、「これはあなたがたのために裂かれた私の体である」と言われ、杯をとり「これはあなたがたのために流された私の血による新しい契約である」と言われ、さらに「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。新しい契約のしるしとして、イエス様がパンを裂き弟子たちに渡し、また杯も弟子たちに回されました。
私たちは、それを「記念として」覚え、絶えず行っています。「日用の糧」を日々食するように、絶えずキリストの体と血に与っています。聖餐も一回で終わることがない。また礼拝も、ただ一度与ればよいというものではない。私たちが週のはじめの日に絶えず教会に集い神を賛美することも、「日用の糧」のように、絶えず体に蓄え刻み付けるものです。そして聖餐も「日用の糧」のように、絶えず体に刻み付け覚えなければなりません。信仰生活というのは、絶えず覚えること、絶えず体に刻み付けること、それをしなければ、罪深い人間は、まことにイエス・キリストを信じることには到達しないのです。時に、「礼拝には行かないけれど、でも、私はイエス・キリストを信じている」と言われる方がおられますが、絶えず神を礼拝し、また聖餐に与ることなしに、まことに、まことには、イエス・キリストを知ることは出来ません。

 先週お読みした27節「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」、そして29節、「神をお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」、という先週の説教題、中心聖句として語らせていただいた御言葉に戻るようですが、「永遠の命に至る食べ物ための働き」も「神をお遣わしになった者を信じる」という「神の業」「働き」は、それは絶えず、神を礼拝し、また、絶えず、キリストの体と血とに与る、聖餐に与り続ける。礼拝、聖餐を「日用の糧」として、日々いただき続けるということなのです。それを絶えず為し続けることの中に、絶えずイエス・キリストのうちにあり、イエス・キリストもその人のうちにおられるという、滅びることのない、永遠の命が、信じる者のうちに顕されるのです。

 しかし、ヨハネ福音書は、天から降ってこられた命のパンである神の御子イエス様の、肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない、と「記念」として、また想起=思い起こすことにとどまらず、命のパンであられるイエス様の「体」について、それを飲み、食べることの意味について生々しいほどの語り口で語り、イエス様は、天から降って来たいのちのパンであり、それを食べ、血を飲みなさいと言われます。
 旧約聖書の律法には、「動物の肉を血を含んだままで食べてはならない」また、「血を飲んではならない」ということが、厳しい掟として語られております。また、聖書に於いて、人間を生贄とすること、ましてや食べるなどということは、禁じられております。しかし、イエス様は、その律法を破るような言い方をしておられます。まさに反対。ご自分の血を飲め、私の体を食べよと言われるのです。主の十字架は、神の愛による、律法の完成です。そこには古いものの廃棄、新しい契約があります。
この厳しい言葉を語られるイエス様は、この時、やがてご自身が十字架に架けられ、体を裂かれ、血を流されることを、予期してこのことを語られたのではないでしょうか。
 天から降って来られた命のパンである、イエス様。その体は、罪ある人間たちの罪の代償として裂かれ、罪ある人間たちの罪の代償として血が流されました。動物ではなく、聖い神の御子の裂かれた体と血とを、私自身のもの、私自身の罪の赦しのために、裂かれ、流されたものであることを、体に刻み付けるために、イエス様は、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言われました。

 聖餐式のパンとぶどう汁をいただくとき、それは単なる「記念」や思い起こすことではない。神のお遣わしになられた命のパンであられるイエス様の、その痛み、その傷を、赦された私たちは、日々、体に刻みつけるのです。私は、命を捨てるほどの愛に生かされているのだ、その命を捨てるということは、どれほどの痛みと犠牲を払われたのかということを、絶えず覚え、刻みつけ、決して赦されたことを忘れないために、私たちは、主の復活の日の朝毎に、御前に集い、礼拝し、パンとぶどう汁をいただきます。
 私たちはまことに悔い改め、赦されなければ、命を得ることは出来ない。このことを、とことん体に刻み付けるために、私たちは礼拝し、聖餐に与るのです。
 その信仰生活こそが、「永遠の命に至る食べ物のための働き」であり、「神の業を行うためになす」ことです。
礼拝と聖餐によって、私たちは、まことにイエス・キリストがどのようなお方であるのかを知るのです。そして、イエス・キリストと共にある、永遠の命をいただくのです。
 そして、日常に於いては、私たちは「命のパン」として、聖書の御言葉を日々「食べながら」生きるのです。どのような時にも、苦しい時にも、悲しい時にも、困った時にも、嬉しい時にも、御言葉を命のパンとして日々いただきつつ、御言葉の語るところに従い生きるのです。
 礼拝、聖餐、そして御言葉。これら、すべては「命のパン」です。朽ちることのない食べ物です。また、それらを通してしか、まことにイエス・キリストを知ることは出来ない。これは、イエス・キリストの語られたことです。信じない者ではなく、信じる者として、神の業に参与し、「命のパン」を、絶えず心に体に刻み付けつつ、日々を歩みたいと願います。そこにこそ、滅びることの無い、神と共にある永遠の命があるのです。

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