「天上の礼拝」(2017年10月22日礼拝説教)

イザヤ書 33:17~22
ヨハネの黙示録 7:1~17

「わたしたちの本国は天にあります」
 これは、フィリピの信徒への手紙3:20のパウロの言葉です。
 本国、私たちのまことの国籍は、地上の国ではなく天にある、これは私たちキリスト教徒の信仰の大切な部分です。しかし、世に生を受けている私たちには、目に見える現実が絶えず立ちはだかっており、世でそれぞれが属している国もある。今日は、私たちの住む日本という国の、大切な国政選挙が行われる日で、私たちの生きる「ここ」がこれからどのようになっていくのか、世界の情勢も合わせて、歴史の大きな岐路に立たされているように思え、祈る気持ちで過ごしています。
 しかし、神は神を信じて従う者たちを必ず守ってくださり、すべてのことを用いて御心を顕されることを信じていますので、どのような状況であろうとも、神の御心を信じて、この罪の身ではありますが、たゆまず神に従い、御心を尋ね求めつつ希望を持ち生きることに自分自身を傾けていきたい、そうあらねばならないのだと、時に心が弱くなりそうな時、敢えて心を引き締めています。
 また、私たちの世の人生には、さまざまな理不尽と思える苦難が起こることがあります。何故、世には苦しみがあるのか、何故理不尽な死、無残な死はあるのか、神はそのような人を見捨てたのか、何故ただしい人が苦しみ、悪を行う人が栄えるのか。さまざまな疑問が私たちの心を擡げます。ヨハネの黙示録は、そのような私たちの疑問に答える書物であると思います。
 
 そんなヨハネの黙示録は、聖書の中でも独特な書物です。書かれている内容の殆どが、ヨハネの現実の生活の中に起こった事柄ではなく、ヨハネが見た幻ですので、その描写は時に恐ろしく、いろいろな数字が出てきたりもして難解で、また、神の国、天の国の描写が多くあり、それらをどのように理解をして行ってよいのか、ひとりで読むだけではなかなか分からないものです。
 しかし、独特であるからと言って、他の聖書の御言葉と切り離されているかと言えば、まったくそうではなく、旧約聖書の始まり、天地創造の出来事、アダムとエバの出来事とも大きく関わり、また、新約聖書のどの書物よりも、旧約聖書からの引用ですとか、旧約聖書を意識した言葉が多い書物であり、聖書全体と深く関わりつつ、神のご計画しておられる究極の救いが記されているのが、このヨハネの黙示録なのです。

 今日は7章をお読みいたしましたが、ここまでの大まかな流れをお話しいたしますと、ヨハネが、パトモスという島で、復活のイエス・キリストの声を聞き、御前に立たされ、「さあ、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」と命じられ、2~3章では、アジア州=現在のトルコ南西部の7つの教会に向けての戒めの手紙が語られ、4章でヨハネは天に上げられ、その後、神の国、天上の礼拝を目の当たりにいたします。
 聖書全体の世界観は、私たちの生きるこの現実で終結するものではありません。私たちの世の命の先を見据えています。と同時に、黙示録では非常にリアルに、世の現実に重なるように、天上の支配が同時進行して存在してあることを非常に具体的に語っております。
 玉座に座っておられるお方=父なる神は右の手に七つの封印で封じられている巻物を持っておられました。この巻物には何が書かれているか、それは世の終末が来る直前の歴史、終局史とも言えるもののようです。
「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしいものは誰か」との天使の声に、相応しい者が見当たらず、泣くヨハネの前に、「屠られたような小羊」―これは十字架に架かられたイエス・キリストをあらわします―が顕れ、封印をひとつずつ解いてゆくのです。それは、世は苦難を通らなければ、まことの救いには至れないということを語っているかの出来事です。

 ひとつ封印を解く毎に、さまざまなものが出てきました。一つ目は白い馬に乗った騎士。これが何を表すのか、諸説ありますが、これから戦いが始まる、というしるしでしょうか?二つ目は地上から平和を奪い取って殺し合いをさせる力、すなわち戦争。三つ目は物価の高騰のようなことで庶民が苦しむ姿。四つ目は死、五つ目にはキリストに従い殉教した人々の魂。今日お読みした7章9節以下は、この殉教者たちに関わっています。そして六つ目は大地震。地上の王や高官、富める人々もすべて逃げ惑う。災いはまだまだ序章なのですが、そのような地上の混乱と並行して、天上の支配があることを、7章は語るのです。

 ヨハネが見た天上の幻は、まず、大地の四隅に立ち、大地の四隅から吹く風をしっかり押さえて守っている四人の天使の姿でした。黙示録が書かれた時代の世界観というのは、球体ではなく、平地と考えられておりましたので、世界のすべての四隅ということでありましょう。この天使たちとは、「大地と海を損なうことを許されている」、そのような権限を与えられているのですが、この時、しっかりと大地を守っています。私たちの生きる世界は、見えない神の力で保たれている、そのことを思わせます。
すると、そこにもうひとりの天使が太陽が出る方角=東から上って来て言うのです。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」と。そして、旧約聖書に於けるイスラエル12部族のそれぞれ1万2千人ずつに額に刻印が押されたというのです。
 イスラエル12部族に1万2千人ずつというのは、象徴的な数字で、世にあって神に従うすべての人を表していると思われます。地上にあって神に従う人たちと、神を信じない人と区別をするための刻印です。額に受けた神の刻印は、その人が神の所有であり、神の保護の下にあることを示しています。
 また、今日のところには出て参りませんが、神を信じないで、黙示録では「獣」と言われるサタンに寄り縋る者には、別の刻印が押されていることも語られています。
 そして、13章17節では、「この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった」と語られています。世に於いて、神ではなく、サタンにより頼む者だけが、世に於いて売り買いが出来ると言うのです。神に従う者だけが売り買いが出来るのではないかと一瞬目を疑いますが、反対なのです。この「売り買い」、資本主義的な世の富と人間の金銭への飽くなき欲望を思わせます。
 神により頼む者が、世と世の富を支配出来るというなら、何となく分かりやすい。人間の願望と一致する気がします。しかし、聖書は、神により頼む者に「日毎の糧」を与え続けられることは語られますが、多すぎる世の豊かさは神の国には遠いということが語られます。イエス様は「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」とも言われました。さらにルカによる福音書1章の、イエス様の母マリアの賛歌の中には、「思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良いもので満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」とも語られています。聖書が語る世界観というのは、私たちの世で生きる価値観の「逆転が起こる」ことを語るのです。
とにもかくにも、これらの刻印は、「救い」か「滅び」かに関わる刻印であるのです。
 
 9節からは眩いまでの、天上の姿が描かれています。
 4章には、既に天上の礼拝の姿があらわされているのですが、そこに描かれている天上の姿とはこうです。天に玉座が設けられており、その玉座の上には、主なる神が座っておられ、玉座の前は7つのともし火が燃えている。玉座の周りはエメラルドのような虹で輝いており、また水晶に似たガラスの海のようであり、玉座の周りには、四つの生き物が囲んでいる。そして、絶えず神を賛美しているのです。さらに四つの生き物の外側には、白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった24人の長老たちが座っており、またその周りを天使たちが囲み、神を礼拝しているのです。天上の世界とは、神を中心とした礼拝の世界なのです。
 世にはさまざまな困難がある。しかし、世の苦しみを超えた栄光溢れる神の支配が、同時にある、これがヨハネの黙示録の大きなメッセージです。

 ヨハネが見ていますと、その天上の礼拝のもとに、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、数え切れないほどの大群衆が、白い衣を身につけ、手になつめやしの枝を持ち、父なる神がおられる玉座の前と、小羊=イエス・キリストの御前に集まって来ました。そして大声で叫ぶのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と小羊のものである」と。
 玉座を中心として、四つの生き物、24人の長老、そして天使たちが囲んでおり、白い衣を着た大群衆の叫びに応えるかのように、天使たちが神を礼拝し、歌います。「アーメン、賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン」と。
 玉座に座っておられるお方、そして小羊キリスト、その周りに四つの生き物と、さらに周りに24人の金の冠と白い衣の長老たち、さらに周りに天使たち、そして、さらにその外側に、白い衣を着た大群衆がいる。想像してごらんになってください。どれほど美しい世界でしょうか。
 すると、24人の長老のうちのひとりが、そこに居たヨハネに問い掛けます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか」と。その答えは、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」というのです。
 この白い衣を来た大群衆とは、小羊が解いた七つの封印がある巻物の5つ目の封印を開けた時に現れた、「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂」でした。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰により、殺された=殉教した人々の魂でした。初期のキリスト教会は、ユダヤ人、またローマ帝国から多くの迫害を受け、信仰の故に殺される人々が多くおりました。世の苦難を苦しみぬいて死に至った人々です。
封印が開けられ、出て来ましたが、その時に白い衣が与えられ、「自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なおしばらく待つように告げられ」た人々だったのです。世にあって、理不尽なまでの苦悩を負った人々です。
 着ている白い衣は、小羊=イエス・キリストの流された十字架の血潮によって洗われて白くされたというのです。殉教して死んだ人々ですから、恐らくは心身ともに極限の苦しみがあり、自ら血を流して死んだ人が殆どだったことでしょう。その血に、小羊=イエス・キリストの血が掛けられ、血を血によって洗い、白くなった、殉教者の苦しみを、キリストの十字架の苦しみの血が洗った、キリストの血が殉教者の苦しみ担われ取り除けられたということなのでしょう。
 そして「自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで」この大群衆は、天上の神の玉座の前に居ることを赦されるのです。今日の箇所では語られませんが、「数が満ちるまで」というのは、終わりの時の新天新地での復活の時の意味で、その時まで天の御国で「もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」という、新しい天と地の恵みを先取りした恵みの中に置かれることになるということです。これが、世にあって、キリストの故に苦しみを受けた人たちの受ける報いである、と言うのです。
 世でキリストを信じる信仰に生きながら、苦しみを通って死に至った人たち、その人たちが、天の神の玉座に限りなく近い場所で憩わせられる、これが、キリストに従い、世で苦しんだ者たちの受ける報いであると、黙示録は語っているのです。世の苦しみを、神は決してお見捨てにはならない、キリストは苦しむ者の苦しみを、ご自身の苦しみとされ、天の玉座のご自身の側に置かれるのです。

 ここで語られる人々は、主なる神、イエス・キリストと深く結びつき、殉教という厳しい信仰の事柄が語られていることは確かなことです。しかし、現代を生きる私たちにこの御言葉を照らし合わせますと、殉教ということよりも、寧ろ、「大きな苦難を通って来た」ということが、小羊の血で洗って白くしていただける、そのような神の命を捨てるほどの憐れみの中に置かれているということなのではないかと思われます。
 今は神の造られた世界の歴史の中でどのような時代なのか、まだ客観的に時代を見つめる目を、私自身持てていないと思います。しかし、世界中で多くの争いがあり、差別があり、飢えがあり、国を追われ難民となる人たちもいる、そのような世界の中で、私たちの住む地上のこの国も、今傷んでおり、貧富の差が進み、高齢化の進んだ社会で、見え難い貧困があり、また、人の心も荒み、ひとりひとり口になかなか出すことの出来ない数々の悲しみがある。喜びよりも困難が多い。また自然災害の脅威も絶えずあります。そのような時代。世界中を覆う多くの苦しみがあります。しかし、この時代のこの私たちの生きる地にも、それを覆うような神の支配があることを覚えたいと思うものです。
 9節には、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった」白い衣を着た大群衆と語られていますが、神の憐れみは、すべての国民の苦しみと共にある、神はすべての人を救いに導きたいと願っておられ、世の苦しみを持つ人たち、さまざまな苦難の中にあっても神にそれでも信頼し、神に向かって叫ぶ人、私たちを、神は憐れみ、命を捨てるほどの愛のしるしであるキリストの血潮によって洗い、目から涙をことごとく拭ってくださる時が来るということなのではないでしょうか。
 そして、死を超えて、キリストに従う者の世の苦しみは、キリストによって洗われ、白くされ、神の刻印を押された者として天の御国で、神の御許に憩うことが赦される。そして、さらに来るべき日の復活を待つ。今日の御言葉は、私たちの世の命を超えた、死、その後迎え入れられる天の国、さらに復活の時への希望が語られる御言葉であるのです。

 私たちもこの地で、この場所で、毎週、週のはじめの日の朝、礼拝をしています。神はおひとり。天はひとつ。私たちが世でどのようなことがある時でも、天上では絶えず神を讃える礼拝がなされています。私たちの礼拝は、天上の礼拝に繋がっているのです。この礼拝は、天にある礼拝の、おそらくは裾野として繋がっている礼拝です。このことも覚え、天にまことの国籍がある者として、どのような時にも希望をもって歩みたいと願います。どのような時も、くじけず、希望を持って神を見上げて、神を賛美しつつ歩む者でありたいと願います。