「救いの希望を兜として」(2017年12月3日礼拝説教)

イザヤ書51:4~11
テサロニケの信徒への手紙一5:1~11  

 待降節第一主日。アドベントクランツに一本のともし火が灯され、世の光なるイエス・キリストのご降誕を待ち望む時がやって参りました。
 クリスマス―すべてをお造りになられた神が、人となられ、私たちの間に宿られたのです。それは、滅びに定められた人間の罪を神が憐れみ、すべての人の罪を、神ご自身がそれを買い取るための代価となられ、すべての人間を滅びではなく、救いに導き入れるためでした。そして、世を歩まれたイエス様を通して、神は御自身がどのようなお方であるかを証しされました。そのお姿は、いかめしく、さも権威を振りかざしたような姿ではなく、ガリラヤのナザレという小さな村の大工として働くヨセフと、娘マリアの子として生まれ育てられ、30歳から3年間と言われる宣教の年月に於いては、貧しくまた病を持つ人々に格別に心を留められ、共に歩まれるお方であられました。
 イエス様のことを「神の御子」と私たちは申しますが、「神の御子」とは、神が人となられた、そのお方そのもの、神ご自身が人となられた姿を「御子」と申します。「神は三位一体」であるというのが、私たちの信仰の認識ですが、おひとりの神が天におられるまま、世にお生まれになられた神がイエス様というお方であり、イエス・キリストが十字架と復活を経て天に昇られ、天に帰られ、今天におられ、すべての人に、またこの地の私たちの只中に居て、絶えず私たちと共にあり、私たちに絶えず神からの力を与えてくださる御方が、聖霊なる神様であられます。
 そしてクリスマスとは、人となられた神、イエス・キリストが世にお生まれになった、そのことを記念して救い主の誕生を喜び祝う時であると同時に、現在の私たちは、主が再び来られる時=「主の日」を待ち望みつつ生きる民であるということを確認しつつ歩む時でもあります。
 今という時、私たちは、目に見える現実の中で、この世に生まれたことも、今、生きていることも、さも当たり前のように振る舞い日々を過ごしておりますが、この世は、この世で完結してはおりません。私たちは自分が生まれる前のことは分かりませんし、死の先のことも聖書を通して読み取るしかない。
 聖書に於いて、神の救いの歴史に於いて、救い主が再び来られ、すべてを公正と正義をもって裁かれる時、尚且つ救いの完成の時―今日お読みしたテサロニケの信徒への手紙5章2節で語られております「主の日」―イエス・キリストが再び来られる日、救いの完成の日―がまだ来ていない時であり、またやがてその日が来るということが神によって定められている、そのような時であるのです。
 そして、待降節とは、来るべき「主の日」を待ち望む、その日に思いを馳せつつ、自らを省み、悔い改めつつ、身を整えて生きることを覚える時でもあります。

 アドベントクランツの蝋燭は紫、私も紫のストラを今日は着けています。教会に於いて紫は、私たちの心の悔い改めを表す色です。紫という色、独特の暗さがある色に思えます。宗教的な高貴な色とも言われますが、それであっても暗い。しかしただの闇ではなく、闇に光が少し差している色。夜明けが近い空のような色と言えるかもしれません。闇と光の間で、闇の行いを徐々に脱ぎ捨て、静まり自らを省み、悔い改める、そのような意味合いでしょうか。そして、クリスマスには、牧師は白のストラを着けます。明るいキリストの光を表す白。紫の後が白なのです。
 聖書の舞台であるイスラエルの一日というのは、夕方から始まるのですが、一日の初めは夕暮れで、一日のはじまりから闇がどんどん深まっていきます。長い暗闇が続いた後、明けの明星が姿を表し、新しい光によって一日がはじまります。光は、闇を超えて全地に輝きます。
 光の後に暗闇が来るのではなく、暗闇の後に光が来る。この循環は聖書の独特の世界観であると言えましょう。

 さて、本日はテサロニケの信徒への手紙一をお読みしました。この手紙は、パウロが紀元50年から52年に書いたと言われており、パウロが書いた手紙、いえ、新約聖書全体の中でも、一番古い、初めに書かれた手紙と言われています。
 紀元50年と言えば、イエス様の十字架から20年経つか経たないか、それくらいの年月しか経ておりません。50代の私が20年前のことを思い出しますと、30代後半。ああ、あれをしていたなぁとか、あの服を着ていたなぁとか、その時代の空気感のようなものも生々しいほどに思い出せます。イエス様に直接従った使徒たちの多くがまだ生きていた時代です。使徒たちにとって、イエス様の記憶、その姿、その言葉などなどさらには、イエス様の十字架、復活と昇天の出来事は、記憶に鮮やかだったに違いありません。
 そして、イエス・キリストが復活され、40日後に天に昇られたその時、天使たちが天を見上げて茫然と立ちすくんでいる弟子たちに「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と告げたことは、初代教会の人々にとって現実的に待ち望むべきこととなっておりました。天に昇られたイエス・キリストが、今度は雲の向こう、天の遥かから地上に降りて来られる、その日を今か今かと待ち望むようになりました。その時を待ち望みつつ、さまざまな迫害にも耐え忍んでいたのです。
 しかし、20年の間に、イエス・キリストが再び来られることを見ないままに眠りにつく人=死ぬ人も次第に多くなってきてしまいました。そうなると、新しい問題、疑問が起こってきます。ひとつに、主が再び来られる時まで生きておられず、死んでしまった人にとって、主の日、キリストが再び地上に降りて来られる時、どうなるのかと。
 その問題に対し、今日の個所の前4章は重要な認識が語られています。イエス・キリストが再び来られる時、まずキリストに結ばれて死んだ人たちが最初に復活し、その後、世に生き残っている者たちが空中で主と出会うために、先に死に、復活させられた人々と共に雲に包まれて引き上げられる、先に死んだ人が神の御前から失われることは無い、寧ろ順番は先に復活し、主にお会い出来るのだとパウロは励ますのです。
 さらに、もうひとつの疑問、その時「主の日」は何時なのか、という疑問がありました。その疑問と不安に対し、5章でパウロは答え始めます。

「主の日」、この言葉は、「終末」という言葉に置き換えることが出来ます。「終末」、「世の終わり」という意味の言葉です。聖書は、「終わりの時、イエス・キリストが再び来られ、すべてのものを裁かれる」ということを語ります。聖書が語る内容を全く知らないまま、この言葉を聞くとただただ恐ろしいく思えます。
 私が子どもの頃、「ノストラダムスの大予言」という本が話題になり、何年の何月に、世の終わりが来る、ということが書かれていて、子どもであった私は恐怖とともに無暗な好奇心でいっぱいになったことを覚えています。「無暗な」好奇心に捕らわれた心というのは、暗い。私は子どもの頃、そのような暗いものに心が引かれやすかったということを思う者です。夜や暗闇に属しているような、心の方向性があったのではないかと思います。イエス・キリストを本当にはまだ知らず、罪の中に生まれてそのまま夜になり、長い夜のような暗闇の考えの中に居たのかもしれません。
 また、さまざまな宗教では、「世の終わりは何年何月何日に来る」と言って、人々の恐れを煽り、その宗教団体に人々を呼び集めるということに枚挙に暇はありません。しかし、それらのすべてはすべてまやかしであり、「世の終わり」は来ておりません。イエス様ご自身、「その日、その時は誰も知らない。天の天使たちも、子も知らず、ただ父だけがご存じだ。」(マタイ24:29~44)と語っておられるとおりであり、「いついつ終わりが来る」などという人間の言葉はすべて「まやかし」であることを、私たちは覚え、いらぬ好奇心や煩いに翻弄されることの決してないようにしなければなりません。このようなことを言わなければならないほど、世の終わりを煽る言葉は、さまざまなところで語られています。

 しかしパウロはここで、「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたに書き記す必要はありません」と語り、ただ、「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです」と、それはいつやってくるのか、分からないということを語るのです。
 そして、それは「人々が、無事だ、安全だ」と言っているそのやさきに、「突然、破滅が襲う」というのです。
 しかし4節では「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇にいるのではありません」と、テサロニケの信徒に向けて語ります。さらに続けて、「ですから、主の日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません」と語ります。「主の日」は来る、しかし、キリストを信じるテサロニケの教会の人たちには、「主の日」が恐ろしい破滅として、襲うことは無い、それは暗闇に留まるものにとっては破滅だけれど、あなた方はすべて光の子、昼の子なのだから、同じ「主の日」であっても、それは破滅ではないのだと語るのです。

「夜や暗闇に属する」人々、そして「光の子、昼の子」というのは、それぞれどういうことを言っているのでしょう?
 パウロはここで、「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」(6節)と「光の子、昼の子」であるテサロニケの教会の人々に向かって「眠っていないで」と「眠り」という言葉を使って語っています。
「眠り」ということ、パウロはこの手紙で、前の4章では、世の命の終わり=死ぬことを「眠り」と語り、また、5:10の「目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」の「眠っていても」も、同様に「死んでいても」という意味で語っております。
 それに対し、6節の「眠っていないで、目を覚まし、身を慎んで」という言葉に少し戸惑います。「世の命に死んでいるのはやめて、目を覚まし、身を慎んで」とはとても読めないからです。人間に自分の生と死の管理をすることは出来ませんから。
6節でパウロの言う「眠り」とは、世の命の死を意味するものではありません。しかし、それであってもパウロの中では、実は同じ「死」という意味合いで「眠り」を語っていると思われます。
 それは、霊的な死とも言いましょうか。暗闇に属する者とは、パウロはここで、神の居られない場所に属する人たちと理解して語っており、神が人間と共にいないということは、すなわち、霊に於いて死んでいるままの状態であるということを意味します。

 このことについては数ヶ月前、少しお話しいたしたことを記憶していますが、旧約聖書創世記3章でエバが蛇に「死ぬことはない」とそそのかされて、神の命令に背き、食べてはならないと言われていた唯一の木から実を取って食べてしまい、体は蛇の言ったとおりに死ななかったけれど、アダムとエバは、神に背いたことにより、神との関係に於いて、霊的に死んでしまった。私たちのすべてはその子孫であり、もともと霊に於いて死んだ者として、罪を持ち、暗闇に属する者として世に生まれているということをお話しいたしました。しかし、憐れみ深い神は、罪によって暗闇に属する者として世に生まれ、さまざまな苦労を世に於いて負っている人間を憐れみ、その救いのために、すべての罪の贖い=すべての人の罪の代償として、神の御子=神ご自身が人となられたお方―を私たちに与えてくださいました。
 9節で、「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」と語られているとおりです。
 イスラエルに於いて、一日の始まりは夕刻で、夕刻から闇は深まり、そして闇の後に、明けの明星が昇り、人は目を覚ます。それと同様に、人間は暗闇の中に生まれている。夜明けは救いであり、人は信仰によってやがて光へと入れられる、イエス・キリストを信じるようになった者たちは、すでに闇を超えて、光の中に入れられている。
 闇を超えて光の子として生きているということは、キリストを信じる者たちというのは、滅びではなく、罪の悔い改めによって既に神と共にある命へと入れられているということです。
「主の日」「終末」の裁きは、「暗闇に居る」人たちにとっては、「無事だ、安全だ」と言っている時に、突然「破滅」として襲い掛かることになるとパウロは語りますが、しかし、旧約聖書ヨエル書3章で語られている、終末の裁きの日に於いて、3:5では「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」と、記されています。主の御名を呼ぶ者=イエス・キリストへの信仰によって、既に光の子、昼の子とされた者たちにとっては、「主の日」を、恐ろしい裁きの日ではなく、「解放の日」として迎えることが出来ると、パウロはここで語っています。
 さらにその日への備えをパウロは語ります。「わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう」と。
 
「主の日」は、パウロがこのことを語ってから、既に2000年近くが経過いたしました。しかし、まだその日は来ておりません。このパウロの言葉には、来るべき「主の日」がいつの日にか訪れることが定められている、この世に今生きています。そのような私たちに対しても、このパウロの言葉は語られています。
 どのような時にも、「信仰と愛」を胸当てとし、「救いを希望の兜」としてかぶり、身を慎んで生きよ、と。
 このパウロの言葉は、戦士の服装をイメージした言葉です。私たちは様々な困難、また誘惑の多い世の戦いを戦い抜く戦士であり、生きるための胸当て―胸は体の中枢を司る心臓があるところです―として、信仰、そして神と人への愛を胸当てとし、そして、全身のかしらなる頭には、「救いを希望の兜」として被り、世を戦い抜きなさいとパウロは語るのです。
 世にはさまざまな困難、誘惑がある。しかし、既に光の子、昼の子とされているキリストに信じる者たちは、「救い」という希望がある。世は裁かれますが、その日、光の子たちは、完全な解放へと導かれ、完全な救いに入れられるのです。「主の日」を恐れることなく、希望の日として、日々信仰によって自らを備えなさいとパウロは語るのです。

 どんな時にも、救いの希望を持ち、世のさまざまな不安に打ちひしがれることなく、世の戦いを戦い抜くものであらせていただきたいと願います。 
 闇という後ろを振り返ることなく、絶えず信仰、愛、救いの希望に全身を向けつつ日々を生きること、それが、光の子、昼の子とされた者としての、「主の日」への備えとなります。そして、闇を超えて目覚めの朝が来るということ、この一日の循環はすべての人に備えられている神の恵みです。この恵みにすべての人が入れられるよう、すべての人が光のうちへと入れられるよう、私たちは先に光の中に入れられた者として、「信仰と愛」を胸当てとし、「救いを希望の兜」としてかぶり、身を慎んで生き、世に於いて、世の光として、キリストを証しする者として歩ませていただきたいと願います。
 そのように備えつつ、イエス・キリストの来られることを、希望をもって待ち望みつつ、日々を歩みたいと思います。
 イエス・キリストは来られます。その近づいて来られる足音を聞き逃すことがないように耳を傾けつつ、心を静め歩みましょう。