「低きに下られた神」(2017年12月24日クリスマス礼拝説教)

ミカ書5:1~4a
ルカによる福音書1:46~56

 クリスマス、おめでとうございます。
四本目の蝋燭が灯り、さらに中央の大きな白い蝋燭にも灯がともされました。
 四本目の蝋燭は少し明るいピンクです。主を待ち望み、自らを省み悔い改めつつアドヴェントの時を過ごして参りましたが、いよいよ主の来られる時が近くなり、闇が晴れてゆくさまを、四本目の蝋燭は表しています。
 そして中央は、キリストの光。救い主が、世の光としてお生まれになられた、そのしるし。キリストの蝋燭です。こうして、闇をくぐりぬけ、共に、イエス・キリストのご降誕を喜び祝う時を迎えられましたことを、感謝いたします。

 クリスマス、それは天地万物のすべてをお造りになられた主なる神が、人となられた日です。それは圧倒的な力で、人間の思いを超えて、その誕生に関わる人々を覆い尽くし、ひととき与えられた苦悩を通して顕されました。世の暗闇をくぐりぬけたその先に、神が高き天より低き地に、人としてお生まれになられた、その出来事が起こったのです。

 イエス・キリストの母となるマリアは、婚約をしていましたが、まだ結婚をしていない娘でした。当時のユダヤ人の結婚の年齢から、恐らく15歳にも満たない年齢であったろうと言われています。その娘に、突然天使が現れて、神の霊=聖霊によって、あなたは身籠る、そして生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれると告げらました。
俄かには信じられない出来事であり、結婚もしていない娘が子を産むということ―現代日本に於いてもそのようなことが起こりましたら、周囲は混乱し、心配で覆い尽くされるような出来事と思いますが―当時のユダヤ人社会では、マリアはその時、婚約をしておりましたし、婚約者の子ではない子を身籠るということは、律法による姦淫の罪として、石打の刑に処されてしまう、そのような命の危険を伴う出来事であったのです。
マリアは驚き戸惑い考え込みました。しかし、天使の言葉を信仰をもって受けとめ、告げました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と。

 しかし、天使の姿が見えなくなった後、自分の身の上に起こったことが何なのか、本当だったのか、分からなくもなったのではないでしょうか。そして、マリアが天使の御告げを聞いた時、天使が告げたもうひとつの不思議なこと、親類で高齢になるまで子どもに恵まれなかった不妊の女と呼ばれたエリサベトが身籠っている、ということを確かめるために、エリサベトに会うために、急いでエリサベトの住む町に向かいました。100キロを超える険しい道のりです。
エリサベトもまた、最初、自分の身に起こったことの意味が分からず、「五か月の間身を隠した」女性でありました。子を宿すなど人間の常識から考えたら、全く無理な年齢であったからです。望んでも望んでも恵まれなかったのに、老境に入って身籠ったのですから、喜びというよりも、どれほどの驚きと、恐れとに覆われたことでしょうか。
しかし、そういう恐るべき経験を通して、「主の言葉は必ず実現する」ことをその体で知らされた女性でありました。

マリアは、エリサベトに会い、天使に告げられたことを、自分の目で確かめ、自分の身に起こったことが、神からのものであることを魂の奥底から知りました。ふたりは、神の言葉が実現することを互いの身をもって確かめ合い、喜び合ったのです。

 信仰の喜びというのは、人間の理性も感情も超えた、私という存在の奥底、魂の奥底―聖書は「魂」という言葉で、人間存在の奥底、存在のすべて表して語ります―魂の奥底から沸き起こるものです。神の圧倒的な臨在の中に置かれた時、いえ、マリアが経験したような特別な使命を受けることを伴わずとも、私たちが信仰によって、心にキリストの救い、キリストの光がどんな時にも与えられているという希望を携えた時、私たちは自分自身の思いや不安や恐れは、神の御前に小さくされるのを知ることでしょう。そして神が自分の中で大きくなり、私たちの希望となり、神の御心のあるところこそが、幸いなことであることを、またどれだけ神が私たちを愛して下さっているかを、喜びを以って知ることが出来るでしょう。

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主なる神を喜びたたえます」(47節)
 この「あがめる」という言葉は、「大きくする」という言葉です。つまり「あがめる」というのは、自分の内で、神を大きくすることなのです。自分よりも大きくするのです。
マリアの身の上に起こったことは、人間の理性では到底理解をし得ない事柄でした。そして、人間の感情では、喜ぶことなど出来ないような出来事でもありました。
しかしマリアは、神への全幅の信頼と信仰をもって、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じ」ることによって、神の子と呼ばれるお方を、身籠るということを、信仰の喜び、魂の奥底から湧き上がる喜びとして受けとめたのです。そして神が自分に、自分のような者にも目を留めてくださったという信仰の喜びは高らかな神への賛美の歌となったのです。

 マリアはガリラヤのナザレという村に住む娘でした。
 イスラエルのガリラヤの地方というのは、当時差別を受けていた地域であったと言います。相当な田舎であり、その土地特有のなまりもある。さらにガリラヤのナザレという村は、イエス様がナザレの育ちだということで知られるようになりましたが、それ以前の記録なども何もないような名も無い小さな村です。
小さな村の、身分の低い家に生まれた娘である自分、世の片隅に生きる娘を、主なる神は覚えておられ、目を留めてくださった、マリアはその神の愛に、神の計り知れない偉大さに、かしこみ畏れつつ、神を見上げ、自分のうちで神を大きくするのです。
その賛美は、マリアを信仰の核心へと導いてゆきます。

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(50~53)
 神が何故人となられたのか。何故天高くあられる神が、この暗い世の、ナザレの村の貧しい娘の子として、世に降り生まれ、人として生きねばならなかったのか。
イエス・キリストは天にあり、すべてのものの創造の初めから存在された神であられます。そのお方が、低きこの地の、貧しい村の娘の子どもとして生まれられる―さらにイエス様がお生まれになるまでの間、ローマ帝国の住民登録の命令が下され、身重のマリアは夫となったヨセフと共に、ユダのベツレヘムという、ナザレから100キロ以上ある土地に旅をし、そこの馬小屋で、イエス様を産むことになるのです―それらすべての、イエス様の誕生にまつわる混沌、困難とも思える出来事は、神の救いが、世の暗闇の只中に、暗闇を突き抜ける光となって顕されるしるしです。
そしてすべての人を罪の縄目から救い出すためであり、また、殊更に神が世の苦しみ、悲しみ、片隅に追いやられ、寒さに凍え、理不尽な困難の中に生きる人間を憐れまれ、そこにこそ救いをもたらすためでありました。そのために、神ご自身が、この低き地の殊更に困難な場所に留まられ、そこにいる人間たちの苦難と共に生き、共に苦しみを担われたのです。

 そして、神の救いは、世の価値観の、世の境遇の逆転として顕されるのです。
 神は、「思い上がる者を打ち散らされる」のです。そして「権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」られる。そして、「飢えた人を良いもので満たし、富めるものを空腹のまま追い返され」ると言うのです。
 これはマリアの信仰告白の言葉でありますが、同時に聖書が語る、神の言葉でもあります。

 もし、今、自分を小さな者、取るに足りない者だと思っておられる方がおられるならば、また、世に於いてよいものを与えられてはいないと苦しむことがあるとするならば、神の目は、今その方の上にあります。神は今、その方に目を殊更に目を留めておられ、救いを与え、道を切り拓き、良いもので満たそうとしておられます。「神の言葉は実現する」のです。このことを信じ、神に希望を持つ人は幸いな人です。
 そしてこの「世の価値の逆転」は、神の御心です。神は、人を打ち捨てられることはありません。貧しく、また理不尽な苦しみの中に生きることを強いられる人たちを、神は激しいまでの神ご自身の傷みをもって、何としても救おうとしておられます。
そのために、神ご自身が人となり、低き地に下られたのです。そして、その生涯の終わりは、十字架という死、人間の経験し得る痛みと苦しみの最たるところを通られ、人間の苦しみを神ご自身が味わい尽くされ、死なれたのです。それは、人間の苦しみを、神ご自身のものとするため、神が人間の痛みを代わってその身に帯びられるという、神の計り知れない愛の故でありました。

 低きに下られた神、これは神の人間を命を掛けるほどの愛の表れでした。
 そして、人間の苦しみの根源にある人間の罪という性質を、神ご自身が、十字架の上で人間に代わって担われ、その十字架によって、滅ぼし、人間を神と共にあるまことの命へと導き救うというはかりしれない神の御業が、クリスマス、イエス・キリストのご降誕の出来事から始まってゆきます。
 
 クリスマス、神の愛が顕されました。暗闇を照らす世の光が顕されました。
 神は世を憐れみ、世を救おうとしておられます。
 あらわされた救いの光の道を、信仰をもって歩む者とならせていただきましょう。救いは、私たちのかたわらにあります。神を見上げ、神の言葉に心を傾け、どのような時も、信仰の道を選び取るものであらせていただきたいと願います。