「命の水の川」(2017年12月31日礼拝説教)

イザヤ書49:7~13
ヨハネの黙示録21:22~22:5

2017年、最後の一日となりました。
皆様はこの一年をどのように振り返られますでしょうか。
 この年、私たちの教会では3名の兄弟姉妹を御許に送りました。ご家族、ご親族、大切な方々を天に送られた方々もおられたことを思います。そして、私自身、人間の死とその先にあることについて、神の約束されている永遠の命について、思い巡らすことが多い一年でした。また、死を取り巻くことだけでなく、さまざまなご苦労の話、悲しい報せが多かったというのが、この一年を振り返っての私の実感です。
また、社会情勢は私が生まれてこのかた、これまでに無いほど脅かされていたように思います。不法がはびこり、貧富の差が広がり、人の心は荒み、民族は民族に対し、国は国に対して敵対感情を露わにし、戦争と戦争の噂が絶えず、地震や異常気象が各地で起こった一年であったことを思います。ひとつひとつの出来事、世の中の動きを思い出しつつ言葉にしてみると、聖書の語る「終末」の出来事と重なって行く、そのようにすら思えてしまう一年であったと思えてしまいました。
聖書は「主の日」ということを語ります。「主の日」とは、終わりの日。聖書は世の初めがあり、終わりがあることを語りますが、終わりの日、イエス・キリストが再び天から来られる日であり、それはすべての者を裁くために、来られる日です。恐ろしく思えますが、この時こそが世の救いが完成する時であると聖書は語るのです。今日お読みした黙示録21章~22章は、長老ヨハネが見た、救いが完成した新しい世界です。
しかしその日が来る前、多くの苦難が世を襲うことを聖書は語っています。それも起こらなくてはならないこととして起こることが語られています。この一年のさまざまな苦難は、もしかしたら、主の日の近いことを思わせるのかしら?と頭を掠めました。いえ、頭を掠める、などということは信仰者としては実は無自覚的な考えで、いつ、それが来てもよいように心を高く上げ、神に全身を向けて、備えつつ生きるのが、私たちキリスト者に望まれているこの世を生きる生き方です。「主の日」は、今日、今なのだと、絶えず心に灯をともしつつ、主を待ち望む希望、アドヴェントの時に持ち続けた悔い改めと主が来られる希望を絶えず持って歩むことを聖書は教えています。

私はこの教会に赴任して5年目を迎えましたが、毎週の御言葉をどこを語るか考える時、心がけていることは、「自分の好きな御言葉を中心に選ばない」ということです。好きな御言葉を語ると、どうしても自分自身の信仰、思い入れとも言えることも含めて、偏るように思えます。そのため、聖書箇所の選択も講解説教か、聖書日課から選択して行わせていただいています。そのように語り続けているのですが、聖書は如何に「終末」「主の日」ということを至るところで語っているかということを思い知らされています。そして、時に辛くなります。実はルカによる福音書の講解説教の途中から、ヨハネによる福音書にシフトチェンジを試みたのは、余りにもルカの後半、終末についてのイエス様の言葉が続きすぎて、語ることが重く苦しくなって、少し視点を変えて、時間を置いてから戻って来ようと思ったからでした。1月から再開する予定です。
聖書は神からのラブレター、まことに究極的にそうなんですけれど、しかし、記されていることは実はとても厳しい事柄が多く、またこの世の現実に苦難は「ある」と語り、それらに「耐え忍ぶ」「忍耐する」ことを語り、耐え忍び生きつつ、神に希望を持つということを絶えず語っていることを読み取るものです。もっと聖書から素朴にイエス様のあたたかい愛そのものを受け取りたいと願ったりするのですが、イエス様の言葉に、素朴に愛や慈しみだけを語っておられる箇所は、私にはとても少なく感じられます。どの言葉にも、「主の日」「終末」の意味合いが込められていることを読みながら思います。そして「主の日」、「終末」ということ、そして人間に与えられる苦難を、語ることなしに、御言葉を取り継ぐことは出来ない、とつくづく思わされています。
イエス・キリストは神が人になられたお方。神が人間を救うために低き世に降られました。主は、十字架に架けられ、死なれ、死を打ち破り復活し、天に昇られました。そして、再び天から降りて来られる。それが「主の日」です。救いの完成の日です。その到来がいつなのか、誰も分からない。その日のために、主イエス・キリストに贖われた者たちは、主が再び来られる日のために備えを為しつつ、希望を持ち、心にキリストの光を灯しつつ、この世を大切に、忍耐と希望をもって生きるということが、聖書が語る信仰の大切な使信であるのです。

ヨハネの黙示録は、1世紀の終わり頃、キリスト教徒がローマ帝国による大迫害を受け、殉教の死を遂げる人々が多い中、長老ヨハネが見た幻です。地上では人々に多くの苦難がありますが、地上の苦難と並行して、天上の様子が語られます。天の玉座に座っておられる方がおられ、その傍らには、屠られた小羊のようなキリストがおられる。私たちは「使徒信条」の中で、「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり」と、毎週信仰の告白をしていますが、天のキリストのお姿は、黙示録によると、「屠られた小羊」=犠牲の小羊の姿であると言うのです。そして、その周りには四つの生き物がおり、その周りに24人の長老たちが座し、またその周りには、白い衣を着た大群衆=殉教者たちの群が居て、絶え間なく神を賛美する世界。それがヨハネが見た天上の姿でした。
天というのは、神を賛美礼拝する世界なのです。そこには、迫害に遭い、世で苦しみに遭いながら信仰を守り抜いた人たちが、キリストの十字架で流された血によって洗われ、白くされて、玉座の前に居て、昼も夜も神殿で神に仕えていると黙示録7章で語られています。そして、小羊なるキリストが彼らの牧者となり、神が彼ら、世で苦しみ、迫害にさらされつつも、信仰を守り抜き死んだ人々の目から涙をことごとくぬぐわれることが語られています。
そのような天上の様子が語られた後、ヨハネは再び地上に目を落します。地上では災いが次々起こります。起こると言いますか、黙示録に描かれる災いは、映画や演劇を見ているように、さまざまな災いが段階を踏みながら飛び出してくる、そのような描かれ方で、書かれてあるその内容は恐ろしいものです。そして、すべての災いの後に、最後には遂に世の支配者であるサタンが滅ぼされるのです。そしてこの世は過ぎ去ることが語られます。そしてその後、新しい天と地、新しいエルサレムが天から降って来る、この世の悪が滅ぼされ、神が人と共に住む、新しい天と新しい地が現れる幻を、ヨハネは見ます。今日お読みした御言葉は、究極の救い、究極の希望としての新しい天と新しい地、新しいエルサレムの幻です。

そこには「神殿はなかった」と語られます。
神殿というのは、もともとはモーセが出エジプトをした後、移動式の「幕屋」として、荒れ野の放浪と共にある、モーセが神からの言葉を受け、またイスラエルの民が神を礼拝をする場所でした。礼拝と言っても、それは罪の贖いをするために動物の犠牲を献げるということが、幕屋に於ける中心的な行為でした。その後、ソロモン王が、エルサレムに神殿を建てたのですが、その時ソロモン王は祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。~ここはあなたが『わたしの名をとどめる』と仰せになったところです」と。
神殿というものは、神に献げられた場所でしたが、神がそこに住まわれ、おられるところではないのです。神の名がとどめられる、神殿とは、天におられる大いなる神の、地上に於ける大使館のような場所と言いましょうか。人々がそこを天の門のようにして、祈りと犠牲を献げ、罪の赦しを乞う場所。神は天よりそこ目を注がれ、そこで献げられる祈りに耳を傾け聞かれると言われるところ。しかし、お住まいはそこではない、神のおられる場所と人の居る場所は、神殿がある場所ではまったく別なのです。
そして、先ほどお話しいたしました黙示録7章でヨハネが見た天上の幻、そこは天上の神殿でした。多くの苦難を通ってきた殉教者たちの群れが、神の祭司として、昼も夜も神殿で仕えている、そのような幻でした。殉教者たちの外には誰がいるのでしょうか。私たちの地上の礼拝に繋がっているのでしょうか。
しかし、21章に現れる新しいエルサレムには、神殿は無いというのです。新しいエルサレムとは、主なる神と小羊なるキリストご自身が神殿であるというのです。遂に神と人との隔てがなくなった都が現れたのです。そこには太陽も月も必要ない、神の栄光が都を照らし、小羊なるキリストが都の明かりそのものだからです。イエス・キリストは「世に来てすべての人を照らす」(ヨハネ1:9)まことの光であられ、太陽によらず、この光が、新しいエルサレムのすべてを照らす明かりだと言うのです。
そこには、小羊の命の書に名が書いてある者たち、最後の審判で、神の御前に立ち、命の書に名前を記され、永遠の命を得た人々、忌まわしいことと偽りを行わない者たちが、国籍を問わず、都に入ってくることが語られています。
さらに22章には、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川が語られます。その両岸には、命の木があるというのです。年に12回実を結び、毎月実を実らせ、その木の葉は諸国の民の病を治す、そのような木です。
この木については、創世記3章、エデンの園から、アダムとエバが楽園を追放された時、主なる神は罪を持った人間から「命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」と語られています。罪を持った人間には、命の木は遠ざけられ、人間は病を持ち、死に定められたけれど、新しいエルサレムではすべての病は癒され、そこに住む人々は絶えず神を礼拝し、神の御顔を仰ぎ見ることが出来ると言うのです。
新しいエルサレムとは、罪が打ち滅ぼされ、神と人とが完全に和解され、神と共にある永遠の命に生きる場所です。この新しいエルサレムこそ、聖書の最後に語られている、私たちイエス・キリストを信じて救いに入れられた者たちの、究極の希望です。世では苦難があります。しかし、苦しみを耐え抜き、信仰を守り抜いた人々は、新しいエルサレムと言われる、罪の全く無い都で、永遠に神と共に生きる。これが聖書が最後に語っていることなのです。

この「命の水の川」のことを思う時、私は6年前に天に召された高校時代からの親友の死をどうしても思い起こします。
彼女は癌を患い3ヵ月で天に召されました。その間、私に「聖書が知りたい」と強く望みました。私は伝道師になったばかりで、東京で教会に仕えており、福井で入院する友の病床にいつもいて御言葉を語ることは適わず、福井市の如鷲教会の中島聡牧師という方に、母教会の牧師からご紹介をいただいて連絡を取り、時々彼女を訪問して、御言葉を語っていただくことをお願い致しました。彼女は牧師が訪ねる度に、身体は楽ではなかったに違いはないのですが、正座をして御言葉に聴き入っていたのだそうです。しかし家族のことを気にして、洗礼ということには首を縦に振りませんでした。
臨終の時、中島牧師は駆けつけて下さり、彼女の手を握り、「イエス・キリストを救い主と信じますか」と問うて下さいました。すると彼女は「はい」とはっきりと答えたのだそうです。その直後、中島牧師と御主人に握られた両の手を、力強く掴み、腕を舟のオールを漕ぐようにぐいぐい力強く回し出したのだそうです。そして、両手を上に上げて「ああ、気持ちいい」と言って、静かになり、それから3時間後に静かに息を引き取りました。
そのことを私に伝えて下さった中島牧師は、「あんな最期は初めてみた。命の水の川を渡っているのかと思った」と仰いました。
彼女は世の死と共に、既にそこに着いたのでしょうか?「ああ気持ちいい」と言ったのは、命の木の葉で、病を癒していただいたのでしょうか。
病の苦しみを通り、50代のはじめに召されました。まだ中学生の娘さんがおり、その子を残して自分が死ぬことに苦しみ泣いていました。最期の最期に、洗礼という水の洗いは受けずとも、信仰を告白して召されました。死の苦しみの中で、キリストにある救いを最期の時間、一筋に求めた友は、神が直接支配され、神と小羊が共におられる、命の水の川がある新しい天と新しい地に一足飛びに既に着いたのでしょうか?そうであって欲しいと思いますが、分かりません。
というのは聖書は、キリストの再臨の時を語り、最後の審判を語るからです。「その日その時は誰も知らない」とイエス様ご自身が語られました。私たちの目に、「その時」はまだ来ていない。6年前、友が召された時も、今来ていないのなら勿論来ていなかったと思われます。ですから、命の水の川に到達することは、未だ誰も赦されていないのではないか、と私はぐずぐず考えてしまいます。
でも、彼女はオールを漕ぐしぐさをし、恐らく川を渡り、岸辺に着き、痛みと苦しみから解放されて「ああ、気持ちいい」と言って世の命を終えました。私には、中島牧師が言われたように、「命の水の川」を渡り、岸辺について、永遠の命を受け取った、やはりそのように思えるのです。死の先のことは分からない、それは大前提ですが。
ヨハネによる福音書5:24「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしいなった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」。
イエス様は、信じる者は、「裁かれることなく」=最後の審判を経ることなく、死から永遠の命へと移っている―既に永遠の命へと移されている、このように語っておられる言葉があることにはっとしました。
それであるなら、新しいエルサレムは、信仰者の死の先にすぐ備えられていると考えるべきでありましょう。私たちは、そのことに希望を持つべきです。
さらに世の苦難の問題。何故苦難があるのか、人間には分かりません。しかし、黙示録は完全な救いが顕されるに至るまで、苦難があるのだということを徹底的に語っています。苦難の先に完全な救いが現されるのです。
私たちには世ではどのように苦難があったとしても、いえ、苦難を通ったからこそ受け取れる、命の冠、神からの祝福があることを覚えたいと思います。そして、何があろうと、「神の支配がわたしを覆っている」ことに希望を持ち、身を正し、いつ「主の日」が来ようとも、その日が喜びの日となることが出来る、地上の歩みを為してゆくものでありたいと思います。
この年を神への感謝と賛美とをもって閉じ、新しい主の年2018年を希望を抱きつつ迎えたいと願います。

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