「ひとつの星」(2018年1月7日礼拝説教)

民数記24:17
マタイによる福音書2:1~12

 教会は昨日1月6日までがクリスマスでした。
 1月6日は東方の三人の博士が、幼子イエス様のもとに、星に導かれて訪れ、黄金、乳香、没薬を献げた日、本日の御言葉の事柄が起こったと言われている日で、救い主が初めて公に人前に現れた日、イエス様がどのようなお方か、初めて人が知った日ということで、公現日と呼ばれているのです。そして多くのクリスマスツリーの天辺には、五つの光線の大きな星が飾られます。これは三人の博士たちを救い主イエス様のもとに導いた大きな星を表しています。
 ちなみに今日は週報に八つの光線の星の図を添付しましたが、八つの光線は「新しい命」を表す星で、六つの光線はダビデの星。五つの光線の星が、公現日の星のシンボルなのだそうです。

さて本日の旧約朗読は「民数記」24章17節をお読みいたしました。「民数記」という書物は、モーセ五書と言われる旧約聖書の中の大切な部分ではありますが、その中では目立たない書物のように思います。出エジプトをしたイスラエルの民の荒野での40年のうち、およそ38年を描いた書物ではありますが、出エジプトのような派手さはなく、荒れ野を旅するイスラエルの民の人口調査から始まり、律法の掟が語られ、民の不満、神への背きの姿が語られていきます。民数記を一言で申しますと、神のイスラエルに対する「訓練」が語られている書と言えましょう。
今日の24章は、イスラエルの荒野での旅路がいよいよ終わりに近づいた時の出来事です。ヨルダン川の東の地、モアブの王バラクが、イスラエルの民の多さと進軍におののき、呪術師のバラムに、イスラエルの民を呪わせてモアブの地から追い出そうとするのですが、主の御告げを聞いたバラムは、イスラエルの民を呪うことは出来ず、祝福をすることしか出来ませんでした。バラムは呪術師で、イスラエルの神への信仰を持った人ではありません。
しかし、主なる神は、異邦人であり、またイスラエルの宗教で禁じられている呪術をするような、罪にまみれた人の口を通して、イスラエルへの祝福が告げられ、また中には、メシア預言=救い主の到来を預言する言葉まで含まれておりました。それが今日お読みした24章17節です。前半をもう一度お読みいたします。
「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。ひとつの勺がイスラエルから立ち上がり、モアブのこめかみを打ち砕き、シェトのすべての子らの頭の頂きを砕く」
 民数記のこの時代、紀元前1250年くらいでしょうか。イエス様がお生まれになる1300年近く前に、異邦の呪術師―イスラエルの宗教では呪術は禁じられている―罪人そのものの人が、イスラエルの救い主が現れることを預言しているのです。その時、ひとつの星が進み出る、現れると言うのです。
 旧約聖書の中には、「星」という言葉が37回出て来るのですが、そのすべては複数形です。天の星々を表しているのですが、民数記のこの箇所だけ、単数形。ですから「ひとつの星」、救い主が来られる時に現れる、特別な星をこの時バラムは見ています。また、「笏」というのは、王の権威を表します。異邦人の罪人バラムは、ずっと先の時代に現れる救い主イエス・キリストを、その権威を、その罪の目―自分では澄んだ目の者と語っていますが―で見ているのです。

 この民数記で語られている異邦の呪術師バラムの言葉は、この後の時代、語り伝えられており、星占いの学者たちにとってはどうやら長い年月、研究の対象であったようです。
 そして、マタイによる福音書の東の国の星占いの学者たちは、遂に、語り伝えられていた「ひとつの星」、1300年近く前の呪術師バラムによって預言されていた、イスラエルの王の星を見つけたのです。
この占星術の学者たちというのは、東の国ですから、恐らくはイスラエルと敵対関係にあった、アッシリア、バビロニア方面の人であったと思われます。占星術の学者という言葉は、原語では魔術師という意味の言葉マゴスという言葉が使われています。英語のマジック、マジシャンの語源となる言葉です。魔術も占いも、聖書では禁じられている事柄です。しかしながら、古代のオリエント世界では、星の運行が人間の運命を支配していると考えられており、占星術の学者という人々は、それなりの高い地位と支配力を有しておりました。彼らが対外的にも低い位の人間でなかったことは、エルサレムに入ってすぐにヘロデ大王に謁見できたことからも分かります。

 ヘロデ大王は「不安を抱いた」と語られます。それはそうでありましょう。ヘロデ大王は当時の「ユダヤの王」でありましたのに、「ユダヤ人の王が生まれた、その星を見て、拝みにきた」と、自分ではない王、しかも預言されていたメシア救い主が生まれたということを、東方の学者たちに言われたのですから。心中穏やかである筈はありません。
また、このヘロデ大王という人は、猜疑心の塊のような人でありました。出自はもともとユダヤ人ではなく、ユダヤ人と敵対するエドムという民族の出身者であり、ユダヤを占領したローマ皇帝に取り入って、ローマの傀儡政権としてのユダヤ人の王という称号を手に入れた人でありました。ユダヤの王という地位を血筋や信仰、人々の尊敬によって得たのではない訳で、心には主なる神への信仰は無く、ただ権力を失うことに脅え、自分の権力を脅かすと思える人は、たとえ自分の妻であっても子どもであっても殺した、そのような残酷な人でありました。救い主の誕生という、神の介入など、ヘロデ大王にとっては自分の権力を脅かす最たるもので、持っての外であったのです。
「エルサレムの人々も同様であった」と語られていますが、残忍な王が、不安と嫉妬のあまり、何をしでかすのだろうとおびえきったのも無理からぬことであったろうと思います。また、人は「新しいもの」を受け入れない性質があります。エルサレムに居た人々とは、ユダヤ教の律法学者や祭司、ユダヤ教の伝統を守っている人たちです。救い主が来るということを聖書の預言を通して知っていた筈ですが、しかし実際、安定した生活を持っていたならば、「新しいこと」が起こることを受け入れることが出来ない心が人間にはあります。豊かさと一定の地位を持っている人たちは、新しい変化は求めず、救い主の到来という新しさは、ヘロデ大王同様に不要であったのでありましょう。彼らは救い主の到来によって、もたらされる変化に不安になったのです。
 それに対し、異邦人である占星術の学者たちというのは、新しさを探求する人たちでありました。古の預言を記憶し、救い主の出現がいつであるかを研究し、空を見上げ星を星を調べている。古い世界を守ることよりも新しい未来に絶えず心を開いている人たちであったと思われます。そしてまことにひれ伏すべき救い主にお会いし、ひれ伏し礼拝すること、それこそ彼らの人生の最重要事項だったのです。

 まだ見ぬ「救い主」の到来を告げられ、恐らくは嫉妬と憎しみでいっぱいのヘロデ王は、祭司長や律法学者を皆集めて、メシア=救い主は何処で生まれることになっているかを問い質しました。そこで、ミカ書5章の預言の言葉を告げられ、メシアがベツレヘムに生まれることになっていることを、ヘロデは知りました。そして今日はお読みいたしませんでしたが、16節から語られる「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた」という残虐な悲劇が引き起こされたのです。
 そのような内心をヘロデは押し隠し、博士たちにヘロデは告げます。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と。そして、博士たちをベツレヘムに送り出しました。

 ヘロデに会った学者たちは何を思ったでしょう?
 ヘロデの心の闇を見抜かなかったわけはないでしょう。救い主に会いに王宮に来たのに、思いがけず悪意の目を持つ王に出会ってしまった。この現実に、学者たちの心は暗く重くなったのではないでしょうか。
そして不穏なものを抱えて、博士たちは王宮を後にしたのではないでしょうか。

 しかし、外に出た学者たちが見上げた空には、東方で見た大きな星がそこにありました。ヘロデ大王を取り巻く悪意、暗さ、真実を求める心が失せ、現状を維持することに汲々とする人々の世の現実の暗さを、占星術の学者たちは感じながら外に出た筈ですが、そこには光り輝くひとつの星が世を照らし、自分たちに先立って進むのを見ました。世の暗闇を照らす星の光。そして、その星が幼子イエス様の居る家の上に止まり、学者たちは喜びに溢れたと言うのです。
原文を見てみますと、「この上もなく、喜び喜んだ」と、最上の喜びを表す言葉が語られています。彼らは、異教の占星術の学者たちであり、魔術を行うような人たちであったとも言われています。しかし、彼らが探求し続けていたことは、古の預言にあった、まことの「ユダヤ人の王」、メシア、世の救い主の星であり、そのお方に会い、ひれ伏すことであったのです。そして、彼らはその星が、幼子のいる家の上に輝くのを見て、この上もなく、喜び喜んだのです。

占星術の学者たちは、家に入りました。
ルカでは、イエス様がお生まれになったのは馬小屋ですが、実は公現日には、イエス様とその両親は家に居たと語られています。
学者たちはそこで、母マリアと共にいる幼子イエス様の姿を見ました。母マリアに抱かれた子。学者たちは喜びに満たされた中、幼子イエス様に出会い、ひれ伏しました。そして、持っていた宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。
この宝の箱とは、彼らの持っていた占いのための道具という宝であったという説があります。彼らは、自分たちのそれまで持っていた、生きるための道具を幼子イエス様に献げたのです。
尚且つこれらの贈り物は、イエス様というその存在を象徴する贈り物でした。
黄金とは、「王のしるし」。乳香とは、祭壇に犠牲の動物を献げる時にたかれるもので、「神のしるし」。没薬は、死者の死体に塗るものであり、「人のしるし」であり、イエス様の十字架の死を予見するものであると言われています。
イエス・キリストの誕生は、神の壮大なご計画であり、古の預言の成就であり、またそのお姿は異邦人の占星術の学者=聖書が語る信仰に於いては、罪人たちの前に、最初に顕されました。
このことは、まさに後のイエス・キリストの宣教と教会の歴史を象徴している出来事であったと言えます。イエス様がおよそ30歳で公の宣教の働きを開始した時、主のもとに来て喜びにあふれたのは、ユダヤ人社会においては汚れた者として軽蔑されていた徴税人たちや罪人たちでありました。また、後に教会がキリストを宣べ伝えていった時、教会を満たしたのは、メシアを待ち望んでいたはずのユダヤ人たちよりも、むしろ救いから遠いと見なされていた異邦人だったのです。

神の招きはいつでも私たちの思いを越えて遠くに及んでいます。私たちは自分についても、他の人についても、神の救いの対象外であるかのように思うことはありませんでしょうか。しかし異邦人で罪人である占星術師でさえ喜びにあふれているのです。神は彼らを、救い主が現れた喜びから閉め出しませんでした。喜びから閉め出すのは神様ではありません。私たち自身です。私たちは、神の招きに大胆に応え、また心で人を分け隔てをせず、すべての人が神の招きに入れられるように、祈り求めるべきです。

その後、学者たちの夢の中に「ヘロデのところへ帰るな」というお告げがあり、彼らは「別の道を通って」自分たちの国へ帰って行った、とあります。それまでならば、星に尋ねて行動をしていたことでしょう。しかし、この時、学者たちはもはや星に尋ねるのではなく、神の言葉に従って帰っていきました。
ヘロデの居るところ、それは、罪と停滞のあるところです。学者たちは、幼子イエス様の居場所を伝えに帰らなかったということは勿論ですが、救い主に出会った異邦の占星術の学者たちは、もと来た道には戻らなかったのです。それまでいた占星術という罪の世界を捨てて、また古いものを頑なに守ろうとする停滞のあるところには戻らず、それまでとは別の道、神の導きに従う道、主イエス・キリストが共にある新しい命の道を歩き始めたのです。

新しい命の恵みは、今、ここにおられるすべての人の前にあります。ここに来ておられるのですから、これまでとは別の、神の言葉に従う道へ、主は私たちを招いておられます。
この新しい年、世にはさまざまな問題があり、闇のように感じることもありますが、キリストは、闇を照らす光であられます。私たちが心を高く上げた時、キリストの光が私たちを照らしていることを見ることでしょう。
主の光の道を歩む一年とならせていただきましょう。皆様の上に、主の光が絶えず照らされ、おひとりおひとりを導かれますように。