「招かれながら離れてゆく人」(2018年1月14日礼拝説教)

出エジプト記16:1~3
ヨハネによる福音書6:60~71

 ヨハネによる福音書に3ヵ月ぶりに戻って参りました。
 今日は長い6章の最後の部分ですので、思い出すためにも6章を概観してみますと、五つのパンと二匹の魚の奇跡から始まりました。主は一人の少年が自分の大切な食べ物を惜しみない心で差し出した5つのパンと2匹の魚で男だけで5000人の人々―女性や子どもを数えたら、恐らくはその倍以上の人々―の空腹を満たされたのです。人々は天の御国にいるように満たされた至福の時を過ごし、眠りについたことでしょう。
飢えることのない天の御国の雛型のような喜びの後には、ガリラヤ湖の嵐がありました。世を生きる現実の厳しさを思わせる嵐です。主は嵐の中で恐れおののく弟子たちのもとに、荒れ狂う湖の上を歩いて舟のところまで近づいて来られました。嵐という自然の脅威をご自身の足元に敷かれ、その上を踏みつけるように歩いてこられた。そして、主が来られた時、弟子たちの乗った舟は目指す地に着きました。主のなさったことは、まさに神の御業であり、御自身が父なる神からの権威をすべて委ねられた神の御子であることを人々に現した出来事でした。
パンと魚の奇跡を経験した人々は、イエス様を捜し、追って来ました。それは、イエス様の奇跡的な力によって満腹したからで、そのような力あるイエス様をこの世の王として自分たちのために祭り上げるためでした。人々は自分たちの世の利益のために、イエス様を利用しようとしたのです。

しかし、イエス様が追って来たユダヤ人たちに語られたことは、人々が願うよう人々が飢えないための朽ちる食べ物としてのパンではなく、永遠の命に至る食べ物のことでした。
「命のパン」とは、イエス様を信じる信仰によって与えられる永遠の命に至るパンであるということを語られました。イエス様の体は永遠の命のためのまことの食べ物であり、イエス様の血は永遠の命のためのまことの飲み物であるという、不思議なことを語られたのです。それはイエス様ご自身を人間の救いのために献げ尽くされること、さらに信じる者に永遠の命の賜物を与えるという、まことの命への招きの言葉でありました。しかし、ユダヤ人たちは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論し始めました。この姿は、信仰のないままこの言葉を聞く現代の人々の疑問と何ら変わりが無い言葉です。
イエス様の肉を食べ、血を飲むということを語られるこの箇所は、私たちが礼拝で与る、聖餐式でパンとぶどう汁をいただくことに大いに関係のある言葉ですが、この言葉と事柄を「気味が悪い」と言う信仰をまだ知らない方はおられることでしょう。
私たちは、主の十字架の死が、私たちの罪の贖い、身代わりとしての死であるということ、私たちは主の裂かれた体と流された血によって救われたのだということを、日々覚えるために聖餐式を守っています。パンとぶどう汁をイエス様の体と血の記念であることを覚え、主が私たちのために命を捨て、捨てることによって、私たちにまことの命を与えてくださった、このことを覚えて聖餐に与っているのです。

ここでこのイエス様の言葉を聞いた弟子たちの多くは、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやきはじめた、というのが今日お読みした御言葉です。「この言葉はひどい。このようなひどい言葉を語る者に、誰がこれ以上聴き従って行くことができようか。まともに相手にすることはできない」、砕いて言えば、そのような言葉だったのでしょう。
59節までは、イエス様とユダヤ人との対話でしたが、60節からはイエス様とイエス様の弟子たちとの対話となっています。6章のはじめは、「大勢の群衆」だったのが、いつの間にか「ユダヤ人」となり、60節以下では「弟子たち」となっています。そして、最後にはたった「12人」、イエス様の選ばれた12弟子だけが残ったことになっているのです。どんどんイエス様の周りから人が離れ、少なくなっているということが6章では象徴的に語られているのです。

イエス様は、弟子たちがつぶやいていることに気づかれ言われました。「あなたがたはこのことにつまずくのか」と。
弟子たちですから、イエス様の招きに一旦は応えて、付き従った人々です。この言葉に、人間の無理解に対するイエス様の悲しみが込められているように思います。人々は、主のなさる不思議な業は喜ぶけれど、そしてそれを自分のものにして利用しようとするけれど、イエス様御自身の真実を、また神の隠された真理を語ると、人間には理解出来ない。神の事柄を人は人の肉の思いで理解出来ず、信じるということ自体が非常に難しいのです。
招かれたのに、去って行く人があまりにも多い世の宣教の現実が語られているとも思えてしまいます。

62節の「人の子がもといた所に上るのを見るならば・・・」という言葉は、「見るならばどうなる」という言葉がなく、前後と関わりなく突然語って消えている言葉のように思えますが、54節の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」という言葉との関連の中の言葉でありましょう。すなわち、主の十字架の救いとの関わりのある言葉です。
「人の子」とは、聖書が語る終わりの日に天から降られる審判者、また救い主を表す言葉であり、イエス様のことを表す言葉です。「もといた所に戻る」というのは、世に来られた神の御子イエス様の十字架と復活の後の昇天のことを意味します。
主の十字架と復活と昇天というすべてのことを通して、主なる神は、人を永遠の命=神と共にある命に入れる、救いの道を拓かれました。しかし、この時はまだその出来事は起こっておりません。人々にはまだその事柄は隠されています。「見るならば」、それがどれほどの意味を持つものかを、目の前に居る弟子たちも知ることだろうという意味の言葉でありましょう。さらに「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)と言われます。
イエス様は4:24で「神は霊である」と語られました。まことの命を与えるのは霊なる神であられ、神の言葉、永遠の命の言葉は、人間の究極の救いは、イエス様の十字架で裂かれる肉と、流された血とに関係いたします。しかし、人間は飽くまで世の空腹を満たすためのパンを求め続けている。そして、自分たちの願いのとおりのことをイエス様がしてくださらないことを知ると、イエス様のもとから去って行くのです。神の言葉を多くの肉のままの人間は「実にひどい話だ。こんな話を聞いていられようか」と言って退けてしまうのです。

イエス様は「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」と言われ、さらに「最初から、信じない者たちがだれであるか、また、ご自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた」(64節)と語られていますが、6:29でイエス様は「神をお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われました。人が神を、神の御子を信じることが出来るということ自体が神の業、神の働きがあってのことであるということなのでしょう。また、信仰を持つということそのものが、神の業をなすことである、という人間の側の神と共にあるあり方も表している言葉でもあります。
信仰ということそのものは、人間のもとにあるのではなく、神のもとにある、霊の領域の事柄、霊の導きによるものであり、また、そこに招き入れられた人間は、信仰にとどまり生きることが、神の御前に正しいあり方だと主は語っておられるです。

しかしそれらの言葉を聞いた「弟子たちの多くが離れ去った」(66節)とあります。
イエス様はそこで12人の弟子たちに言われました。
「あなたがたも離れていきたいか」と。12人というのは、イエス様によって選ばれた特別な人々です。「神の業」が起こり、召された12人です。
「あなたがたも離れて行きたいか」
重く、悲しい言葉です。群衆がおり、群衆が押し寄せ、それはいつしかユダヤ人になり、弟子たちになり、弟子たちの多くは離れ去り、この時12人だけが残ってイエス様の許にいます。
イエス様の言葉は霊の言葉、永遠の命の言葉でありました。しかし、それはイエス様ご自身のことをあからさまにありのままに語った言葉でもありました。御自身のことをそのまま語って、人々がつぶやきはじめ、イエス様を理解せず去って行くという姿を見た主は、どれだけひとりの人間としての悲しみを持たれたのだろうと思います。理解されず、人が自分の前から去ってゆく悲しみと孤独を、人間としてのイエス様は経験しておられました。
このことは、私たちがどれだけ誠意を尽くしても、対人関係の躓きが起こってしまったり、無理解の中で苦しむ経験と重なります。イエス様は、人間の通る理不尽や悲しみのすべてを通られたお方であられました。そして、私たちが苦しみや悲しみの中に打ちひしがれる時、苦しみと悲しみ、孤独を通られた主の友と、私たちはならせていただける、そのようなことを思います。

 しかし、そこでシモン・ペトロが「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者だと、わたしたちは信じ、また知っています」と、信仰の告白をいたしました。
 シモン・ペトロ。12弟子の筆頭とも言われるペトロですが、勇み足だったり、少しおっちょこちょいだったり、様々な人間的な弱さを持っていることが、聖書の随所で語られている人です。しかし、この時、ペトロの目には、イエス・キリストがどのようなお方か、霊の目が開かれているということが分かります。
 それを聞いたイエス様は言われます。「あなたがた12人はわたしが選んだのではないか」と。
そう、12人はイエス様の選びによって、神の業によって選ばれ、招かれた人です。選びの中で、ペトロはイエス様が、神の聖者であられ、永遠の命の言葉を持つお方であることを知っており、また、朽ちるパンではなく、永遠の命の言葉が救いには必要だということを、この時ペトロは知っています。
しかし、さらにイエス様は言われます。
「ところが、その中の一人は悪魔だ」と。
 イスカリオテのシモンの子ユダのことをイエス様は言われました。ユダ。イエス様を裏切り、銀貨30枚で祭司長に売り渡し、イエス様の十字架への道を開いてしまった人です。
 裏切り者のユダ。その後、死んだユダ。
 しかしこのユダもイエス様に選ばれた人でありました。

 ユダのことは、聖書の中の最大の謎と言えましょう。ユダのことを思う時、私たちはさまざまなことが頭に過ぎるのではないでしょうか。
 イエス様は最初から裏切る者だと分かっていてユダを選んだのか?イエス様の十字架がなければ、永遠の命の言葉は成し遂げられないのだから。そうであるならば、ユダは神様の御心を行うための悲しい道具だったのか?そうであるなら、ユダは裏切り者ではなく、神の忠実な僕ということになるのではないか?などなど。
 しかし、分かりません。明解な答えなど、この問いに対して、誰も語れたことなどないのではないでしょうか。
 しかし、ユダの裏切りによって、主の十字架が引き起こされ、復活と昇天、聖霊降臨という、神の救いの出来事が完成したことは確かです。ユダの裏切りの行為は、神に用いられました。神は悪の力を用いても、御心を成し遂げるお方であります。

 今日の御言葉は、とても暗い。人々の裏切り、人間の心の闇と、それに対するイエス様の悲しみに満ちています。そして世の事柄は複雑で、人間というものは一筋縄ではいかないということも思わされます。信仰を持っても、世のさまざまなことで苦しむことがあります。ペトロは、ここでは信仰告白を堂々としていますが、この後、ペトロもイエス様を裏切るのです。
 イエス様は、去っていく人々、ひとりひとりを知っておられたはずです。その人がどのような思いでイエス様の側に弟子として居たのか。輝く目で救いを求めた時があったこと、そしてイエス様のもとから去っていくことも。
 しかし、私たち人間の行動というのは、自分自身の思いに於いてはどこまでも正しいのではないでしょうか。自分の心に言い訳を人間は作ります。そして神の領域から―神は愛であられます―離れ、肉である人間の領域に戻ってしまう、ということをいとも簡単にしてしまう。イエス様と共に歩まなくなってしまう、ということも起こり得ます。「信仰」という神の業から離れることは、ほんの少しの心の隙をついて起こってくるのです。
人間の心の闇はどこまでも深く、神も人も裏切り続ける、そのような深い闇の性質が、ユダだけではなく、人間は多かれ少なかれ、誰しも持っているのではないでしょうか。イエス様は、そのような人間の深い闇を、今日の御言葉で見ておられる、と思います。いえ、絶えず、今も見ておられるに違いありません。
裏切るのはユダだけではないのです。ここに居た12人のすべては、主の十字架を前に、イエス様を裏切り、主の十字架の前に逃げるのです。
 
しかしイエス様は、ご自分を裏切り、見捨てることになる弟子たちを裏切ることも、見捨てられることもありませんでした。イエス様は、裏切ったペトロを、弟子たちを最後まで愛し抜かれました。
そして、すべての人の罪を背負い、最終的にはユダの罪を契機として、十字架に架かり死なれました。ご自分の体が裂かれ、血が流れ、すべての人の罪を負い悶え苦しまれ、イエス様は死なれたのです。その苦しみは、ユダの罪も苦しみも背負っておられたに違いないのです。

私たちは、その死によって、裂かれた体、流された血によって救いを得ました。これは、「霊」の言葉です。この言葉を信じる者にさせていただきたいと祈ります。

イエス様から去っていった人、その人たちの罪のために、イエス様は死なれました。
イエス様はすべての人が、悔い改め、主に立ち返ることを待っておられます。忍耐をもって待っておられます。
私たちは弱い。心にそこはかとない闇を持ち、暗闇に蹲り、神の光に背を向ける性質が根底にあります。主はそのことを知っておられます。
 しかし、主は私たちを決して見捨てることはありません。
 何故なら主は、天から降って来たパンとして、私たちにすべてを献げ尽くしてくださったからです。その十字架の死を、私たちは自分のためのものとして受け止め、その裂かれた体であるパンと流された血としてのぶどう汁を、私たちは絶えず食べ、飲み、主が私の罪のために苦しみ死なれたことを体に刻みつけつつ、暗闇を、罪を吹き払い、主のもとを離れ去ることを決してしないで、主と共に歩む者として、永遠の命へ至る道を歩みぬく者であらせていただきたいと心から願います。