「求めるものは神の栄光」(2018年2月11日礼拝説教)

イザヤ書42:1~7
ヨハネによる福音書7:10~24

人は物事の本質を自分の目と心で確かめないまま、人の噂をする言葉を聞き、それを鵜呑みにして自分も人を中傷することに加担してゆくということが、人間の社会には余りにも多いように思います。声の大きな人の言葉に、人は影響を受け、同調していくという弱い性質を、人間は持っています。
そして人は物事の本質を知ろうとしないままに、また自分自身を省みないまま、噂によって、自分よがりな思いで人を裁き続けてゆくことがあまりにも多い社会の現実を思います。
 イエス様は言われました。「うわべだけで裁くのはやめ、正しい裁きをしなさい」(7・24)と。この主の言葉の背後には、ヨハネによる福音書5章で、ユダヤ人の安息日にイエス様がベドサダの池で38年間病気で苦しんでいた人を、癒されたことが発端となっていました。5章の安息日の癒しの出来事は、ユダヤ人の間で噂が噂を呼ぶ出来事になっており、人はイエス様を「良い人だ」と言ったり、「群衆を惑わしている」とささやかれたり、さらに「あなたは悪霊に取りつかれている」などとまで言う人々が周りに居り、イエス様を殺そうとまで言う人々がいたのです。
 21節以下では、イエス様はユダヤ人の割礼のことを引き合いに出して語っておられますが安息日というのはそもそもモーセの律法に於いて定められた掟です。神が6日を掛けて万物を創造され、7日目に休まれたことに起源を持つもので、その日は「働いてはならない」、奴隷も家畜も皆休まねばならないと定められた神の愛の掟です。しかし、イエス様が安息日に病人を癒したということが、ユダヤ人にとっては律法に背いて「癒す」という「仕事」を行ったと言うことをユダヤ人たちは問題視して、言いふらし続け、イエス様をその故に殺そうとしていたのです。
 しかし、イエス様が安息日に病人を癒したことが律法に背くと言い続けるユダヤ人たちは、同じ律法の定めである「割礼」は、安息日であっても施し続けていたのです。
 割礼というのは、男性器の包皮の一部を切るという神と人との契約のしるしであり、また一種の医療行為であり、男子が生まれて8日目に施すということが律法に定められております。
しかし、このことは、イエス様も今日の個所で語っておられますとおり、モーセの律法が定められる前、族長アブラハムを通して神が定められたことでありました。それがモーセ律法に改めて取り入れられ定められ、ユダヤ人たちは神との契約のしるしとして守り続けておりました。
「8日目に」と定められておりますので、ユダヤ教の安息日は土曜日ですが、土曜日に生まれた子は、産まれた日から数えて8日目の土曜日に割礼を施されていました。土曜日は安息日です。それは一種の医療行為ですが、当時のユダヤ人たちは、「これはやってもよい」と決めたのです。なぜかというと、それをしなければ、その子が神の祝福から落ちてしまうからです。その子の救いがかかっているからです。だから、自分たちの子に割礼を施すためであるならば、モヘールと呼ばれる専門家を呼んで割礼を施しておりました。イエス様はそのことを言っておられます。あなたがたはそのようにして、安息日の戒めというのが人の救いのためであるから行うことを認めているならば、なぜ、イエス様が安息日に全身を癒したからと言って腹を立てるのか、と言われるのです。
「全身」と訳されている言葉は、「全存在」と訳してもよい言葉です。5章の38年間病の中にあった人を安息日に癒された出来事というのは、その人の全存在を癒し、解放した、神の愛の出来事でした。自分たちは安息日に割礼を施し、その子が神の祝福から落ちないようにすることを認めているならば、なぜ、イエス様がその全存在を癒し、解放したことが安息日の違反だと言って、イエス様を殺そうとまで狙っているのか。そのことに対し、イエス様は「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」と言っておられるのです。
「安息日」は、元来立場の弱い労働者や家畜たちにも休息を与えるための掟です。それが、人が人を監視したり、人を裁くために用いられるようになっていました。神の意図とはまるで違う、むやみな人間の人を裁くための道具と安息日が成り果てていたことに、主は悲しんでおられました。

イエス様は、人々の理不尽な中傷の中に置かれておられました。人間社会というのは、人々の思惑が重なり合い、多くの歪みがあります。人間の罪が積み重なる歪みとも言えましょう。そのような世に、罪の無い神の御子が、天から降られ人となられ、ご自分の思いではなく、ご自分をお遣わしになった方の言葉、主なる神、天におられるお方の言葉を語り、また、神の愛の業を行われました。イエス様は、罪の世に染まることなど出来る訳がなく、世のあり様と違うあり様をされておられたため、罪の人の世に馴染まず、誤解され、嫉妬され、中傷される、そして、時にその行動が人間には理解しづらいこともあったのではないかと想像しています。何せ、神が人となったお方なのですから。
 先週お読みした7章1~9節では、イエス様の兄弟たちのイエス様に対する嘲りとも言える言葉が語られていました。神の御子イエス様の持っておられる価値観というのは、世のものとは全く違うということを先週も語らせていただいておりました。そして、兄弟たちの「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」(7:4)という嘲りの言葉に対し、イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と語られ、ご自分は仮庵祭のエルサレムには上られないということを、兄弟たちに告げられ、ガリラヤに留まっておられました。
 しかし、今日の箇所では、兄弟たちがエルサレムに上って行った後、イエス様ご自身は、人目を避けて、隠れるようにしてエルサレムに上って行かれたと語られています。

 イエス様の行動というのは、時にとても不思議です。この箇所はイエス様の言行が不一致とも思えてしまう謎の行動に思えます。理由ははっきり分かりませんが、前のところでは弟たちの「自分を世にはっきり示しなさい」と言う嘲りと無理解の言葉に対し、ご自身の栄光を表す十字架の時はまだ来ていないと言われて、「祭りには上っていかない」=それは栄光を表す時ではない、という意味で言われていたのであって、その後、「隠れるようにして上って行った」というのですから、栄光を表すために、自分を公に表すために上って行かれたのではないということではありましょう。弟たちの言葉に、むやみに反論しつつ踊らされるようにエルサレムに上るのではなく、ただ主なる神、イエス様を遣わされたお方の言葉だけに従っておられるということは確かなことです。そのようなイエス様の行動というのは、人の目に不思議に思えたり、理解しづらかったりすることが、もしかしたらあったのかもしれません。
 しかし、ユダヤ人たちのイエス様に対する嫉妬や悪意はあからさまで、律法を曲解してイエス様を「殺そうと狙って」いるような状況でしたから、人々は互いにさまざまなことをささやき合いながらも、イエス様について公然とは語っていない、口をつぐんでいたようです。

 さて、先週から読み始めた7章からは、仮庵祭のエルサレムでのイエス様とユダヤ人たちとの論争が描かれている箇所となります。
 仮庵祭は一年のすべての収穫を感謝しての収穫感謝の祭です。その昔、モーセに率いられて出エジプトをしたイスラエルの民が、長い荒れ野の旅を、仮庵=移動式のテントを張りながら40年間暮らしました。荒れ野の旅で、神にのみ養われて生きたこと、その恵みを記念するために、仮庵祭の間は8日間テントを張り、そこで暮らして祭を祝うのです。現在でも、仮庵祭の期間、イスラエルの人々の多くはテントを張ってそこで祭を祝っているのだそうです。
 祭が半ばになったころ、恐らくは4日目辺りに、それまで人目を避け、隠れるようにおられたイエス様が神殿の境内に上って行って教え始められました。
 人々は申します。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と。
 イエス様はガリラヤの庶民である大工の子として育っておられました。イエス様と同時代に生まれ育ったと思われる、使徒パウロは、ガマリエルという律法の有名な教師のもとで律法を、学問を学んだのと対照的です。
 イエス様は、人間として低きところまで降られ、貧しく、特別な教育を受けられない庶民として生きられたのです。そのイエス様の言葉は、ルカによる福音書によれば、少年の時代から、エルサレムの律法学者たちと対等に議論するほどであり、この時も、知識と真実に満ちた言葉で、学者たちを驚かせておられました。
「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」、この言葉を聞いたイエス様は言われました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとするものは、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」
 イエス様は、神の言葉、神の知恵を、主なる神ご自身から受け取っておられました。そこには、人間の教育や人間の知恵など入り込む余地もなく、聖書は神の言葉ですので、神の言葉である聖書をそのまま、深くご自分の言葉として語っておられたのです。
 ここでは、イエス様が何を語り、人々を驚かせていたのか語られておりませんが、分かることは、それが自分の世の栄光を求める言葉ではなかったということです。
 人は自分を高めるための言葉を発します。最初にお話しをした、声高に人を中傷する言葉というのは、それらの言葉を発する心には、人を低めて自分を高めたい、イエス様の言葉をお借りすれば、自分に栄光を帰すために、敢えて他者を低める言葉を使い、それを鵜呑みにする人たちを増やして自分の権威のようなものを増して行きたいという、そのような思惑から発せられる場合が多いことでありましょう。
 しかし、イエス様には人を中傷する言葉はありません。イエス様の語られる言葉は、人々の理不尽な中傷の言葉に対する弁明であり、それは神の律法を基にして、人を中傷するのではなく、律法を通して人が自分の罪に気づくように問いかける言葉です。
19節で「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれも律法を守らない。なぜわたしを殺そうとするのか」と、厳しい言葉を語っておられますが、ユダヤ人たちは、自分たちは安息日に割礼を施すという行為を認めつつ行いながら、イエス様を安息日に病人を癒したということを理由に、イエス様を殺そうとしております。しかし、モーセに与えられた十戒の第六戒には「あなたは殺してはならない」という掟があります。ユダヤ人たちの殺意は、モーセの律法に反するものです。ユダヤ人たちは、律法をたてにイエス様を殺そうとしていますが、自分たちはそれを全く守ってはいないのです。
またイエス様は、共観福音書の中で、「律法の中でどの掟が最も重要か」と問い掛けられた時、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」とまず言われ、さらに第二もこれと同じように重要であると言われた上で、「隣人を自分のように愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つに基づいている」と言われました。この時、ユダヤ人たちは、律法の根底にある愛に全く基づいた行動をしていません。
神を愛するということより、まず自分の栄光を求めて、イエス様を殺そうと企んでいる人たちです。
イエス様は、イエス様を殺そうと息巻くユダヤ人たち神の律法を教えるために、頑なな心のユダヤ人たちに、ここで神の御心を分からせよう、分からせようと言葉を尽くしておられます。

そして、その言葉は神からの言葉です。モーセに律法を与えられた主なる神から、イエス様は教えを受けておられます。教えを受けるという言葉が適当かどうかは分かりません。父なる神と、イエス・キリストはおひとつなのですから。しかし、イエス様を人としてお遣わしになられたのは父なる神であられ、イエス様は、父なる神から世に遣わされたということを謙遜に受け留めておられます。
そして、イエス様はご自分がどれだけ世から貶められ、憎まれても、ひたすらに父なる神の栄光だけを求められました。世に於いてご自分を高く上げようなどと、イエス様ご自身、微塵も思っておられなかったのです。イエス様がひたすら求めていたことは、ご自身を遣わされた方=父なる神の栄光であり、ご自身は低く低く降られることだけだったのです。

イエス様が栄光を受けられる時とは、先週もお話しいたしました。イエス様の十字架の時です。十字架とは、低きに下られた神の御子が、すべての人の罪をその身に帯びて、苦しみ死なれた場所です。父なる神に遣わされた神の御子は、罪の無いお方は、低き地の、最も低いところまで下られ、世で罪人と定められ、すべての人の苦しみをその身に負って死なれました。人間は自分の世での栄光を求めます。神と人間はその性質が全く違います。人間の愛は自分を愛することが中心です。律法の掟によれば、「第一の掟は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして父なる神を愛すること」です。人間の思いは神の第一の掟に背きます。それは罪であり、罪は自分を高め、人を低めようとします。しかし神の愛はひたすら与える愛であられ、愛する人間を救うために、神として天におられることすら捨てて、世に下られました。
私たちはこのことを心に深く留めたいと願います。

そして、ユダヤ人たちが律法をうわべだけで捉えて、心に悪意を抱き、神の律法にそぐわない裁きをし続けていたのをイエス様は戒められました。そして、そのような罪の思いがイエス様を十字架へと向かわせることになりますが、私たちは、自分たちのうちにも、そのようなイエス様を十字架に追いやる罪が、神ではなく、自分中心の心があることを認め、主の御赦しの前に立ち、赦されなければならない罪人のひとりとして、絶えず神の言葉を聴き、信仰を通して自己を吟味し、御言葉によって物事を正しく判断し、人の言葉に惑わされない知恵を神から与えられたいと願うものです。