「忍耐によって命を勝ち取りなさい」(2018年2月18日礼拝説教)

マラキ書3:19~20a
ルカによる福音書21:7~19

 先週の水曜日から受難節に入りました。イエス・キリストの十字架への道と受けられた苦難を思いつつ、その御苦しみが、私の罪の贖いのためであったことを心に刻みつけつつ過ごす時です。

 本日の説教題は、お読みした御言葉の中から「忍耐によって命を勝ち取りなさい」とさせていただきました。「忍耐」ということ、信仰の非常に重要な事柄です。パウロはローマの信徒への手紙15章で「忍耐と慰めの源である神」と語っております。「忍耐」とは、神から来るものであり、また神ご自身のご性質でもあります。
 忍耐というギリシア語原語の意味を聖書ギリシア語の語句辞典から見てみますと、「特定の状況の『下に』とどまり、辛抱すること。またはそれと並んで、過ぎ行く時間に直面した状況で期待を持ち続けること」とありました。さらに肯定的な意味と否定的な意味があると記され、肯定的な意味合いとしては、「怒涛のように襲い掛かってくる災難に対し抵抗する不屈の忍耐。一種の勇気」とあり、否定的な意味では「相手からの屈辱的な扱いを、卑屈と思えるほどに耐え忍ぶことを表す」とありました。
 聖書が語る忍耐というのは、両面あるのでしょうが、否定的な意味合い「卑屈と思えるほどに耐え忍ぶ」ことが、「誇るべきこと」であるという逆転を起こし、さらにそれはキリストにあって、忍耐とは過ぎ行く時間の中で「待ち望む」という希望を可能にしてくれるものであると語るのです。聖書に於ける忍耐とは、否定的な意味合いを持つ場合であっても、自虐的な状態にだけ自分を押し込めるのではなく、忍耐の先にある希望を見据えること、また見据えられるかどうか、これが大切なことです。
 
 ルカによる福音書に戻って参りましたが、ルカは19章から既に受難節というよりも、受難週、イエス・キリストが十字架に架けられる前の一週間の出来事に入っており、イエス様は既にこの時エルサレムに居られ、十字架の死を覚悟しつつ、非常に緊迫した空気の中、人々に語り続けておられます。
 ある人たちが、エルサレム神殿が見事な石と奉納物で飾られていることに見とれている時、イエス様は「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日がくる」と、見とれている人たちに神殿の崩壊を告げられました。それを聞いた人々―ユダヤ人たちに違いありません―が尋ねるのです。「先生、ではそのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と。
 今日の御言葉は、この御言葉がイエス様の口から語られた約40年後、紀元70年にユダヤ人がローマ帝国に起こした反乱、ユダヤ戦争に於いてローマ軍によってエルサレム神殿が破壊されることになるのですが、そのことを予告することに重ね合わせつつ、イエス様は「終末」世の終わりが近い時、どのようなことがらが徴として起こるか、ということをここで語っておられます。この箇所は、福音書の中の「小黙示録」と言われている御言葉で、マタイ、マルコ、ルカ共、このことを記しています。

 聖書は初めがあり、終わりがあることを語ります。しかし、神は永遠の昔からおられ、永遠におられるお方です。
神の永遠のご支配の中、私たちの生きるこの世、神の造られたこの世界があります。それは初めがあり、終わりがある世です。主なる神がすべてのものを造られ、「すべて良かった」と言われた世でありましたが、人間の罪によって、罪という性質とは共に居ることの出来ない聖なる神から、この世は引き離されたものとなりました。人は母の胎より生まれ、成長し、大人になり労苦して働き、女性には産みの苦しみのある世となりました。そして、私たちの生きる現実には「死」というこの世の生の終わりがあります。私たちのすべては、それらこの世の生の営みを受け入れ、神の造られた世にある時の流れを刻んでいます。
それに対して、神のご支配は「永遠」です。
 それにしても、「永遠」とは何なのでしょうか。聖書の語る「永遠」というものが、どのような時の流れを刻んでいるのか、分かりません。ペトロの手紙二3:8に、「主のもとでは一日は千年のようで、千年は一日のようです」と語られておりますが、流れ方もきっと私たちが想像し得ることではないように思えるのです。私たちの生きるこの世の時間軸が、ただ、私たちが思い描く時間軸としての「永遠」に続くというのではなく、「永遠」とは、神が共にある、神の支配の中に入れられることであり、神は愛であられますから、神の愛の中、世の命を、死をも超えて、神の完全なご支配のうち、愛の御手のうちに神との平和を得て憩い生きる、そのような神と共にある、罪という性質の無い命を「永遠の命」と聖書は語っており、永遠の命に至ることが「人間の救い」であると聖書は語っているのです。
 そして、その救いを得ることを、19節では「勝ち取る」という言葉でイエス様は語っておられます。「忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」、その命を得ることは、勝ち取ることであると言うのです。また、そのためには忍耐が必要だと言うのです。それほどまでに、狭き門である、ということなのでしょうか。非常に厳しい、イエス様のお言葉です。

 ここで語られる終末の徴というのは、ヨハネの黙示録を彷彿させるイエス様のお言葉が語られています。
「わたしを名を乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか『時が近づいた』と言うが、ついて行ってはならない」。
「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こることに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」
 なにやら恐ろしい。
 しかし、ひとつひとつの言葉は、現代の私たちを取り巻く社会で既に多く起こっているということに思い巡らせるものです。
「わたし=イエス・キリストを名乗る者が現れて、わたしがそれだ、時が近づいたと言う」ということ。歴史の中で、このようなことは絶えずあったことのようですし、近年、私たちの知り得るさまざまな新興宗教のようなものが、イエス・キリストを名乗り、終末を煽っていたこと、また今も煽っていることを、皆様も見聞きしたことがおありになるのではないかと思います。モルモン経、ものみの塔というキリスト教異端と言われる団体は、それぞれ創始者がイエス・キリストの再来だと自己喧伝しています。統一協会=現在世界平和統一家庭連合も同様です。その他にもさまざまなキリスト教系カルトと言われる団体は、「わたしがそれだ」「時が近づいた」と終末がいつやってくるか、それを年月を区切って語り、人々を闇雲に恐怖に陥れているということが後を絶ちません。
 また戦争や暴動。これらはどの時代にも絶えることがありませんでした。現代もその動きは加速しているようにすら思えます。そして、民族は民族に、国は国に対して立ち上がるという言葉を聞いても、現在世界を見渡すとあれ、これと数えられる事柄があります。
 さらに大きな地震や飢饉や疫病。これらも近年顕著ですが、でも今に始まったことではなく、歴史の中で、周期的に、また絶えずどこかで起こっていました。
 
 イエス・キリストが十字架に架かられ、復活され、天に昇られてから既に世に於いては2000年近い年月が経っていますが、9節でイエス様が語っておられますとおり、「世の終わりはすぐには来ない」、来ていません。主の救いの十字架が既に立てられた世に私たちは生きておりますが、それから今までの年月は、絶えず「終末」と言われる「時」であると言えるのだと考えます。世は絶えず迫害や戦いのある世で、人は世にあって、終わりの時、永遠の救いに入ることを「勝ち取る」ために、どのような時にもイエス・キリストを信じる信仰に忍耐して踏みとどまりなさいと、イエス様は語られるのです。救いの十字架が立てられた世に於いて、神はすべての人が、主の十字架のもとに来て救われることを、神は忍耐して待っておられます。現在に至る2000年の年月は神の忍耐の年月と言えましょう。

 そして主は言われるのです「おびえてはならない」と。
 世でさまざまなこと、戦争や戦争の噂、地震、疫病飢饉、さらには迫害など、絶えずあるけれど、それらはこの罪の世には「ある」ものであり、しかし世にありながらキリストと共にある者を神はしっかりと守ってくださるのです。迫害をされ、王や総督の前に引き渡される時は、「信仰の証をする機会になる」とまで言われるのです。その時には、主が「どんな反対者でも、対抗も反論できないような言葉と知恵を、主ご自身が授けて下さると言うのです。イエス・キリストにある者、主に繋がり、この世にあって信仰によって既に救いを得ている者たちは、世にありながら既に神の永遠の支配の中に入れられており、信仰による試練を受ける時、神が共におられ、知恵を与えてくださる。そして目に見える現象に「おびえるな」と言ってくださるのです。
 初代教会の時代、「終末がいつ来るのか」ということは、信仰者の最大の問いであり、その日こそが、信仰に於いて苦難を受ける中の希望であったことに間違いはありません。イエス・キリストを信じる人々は、イエス様のお言葉のとおり、さまざまな迫害を受け、牢に引き渡され、拷問を受けるということがあり、忍耐によって殉教の死を遂げる人すらも多かったのです。

 そしてこの言葉は、現代の私たちにも語られている言葉です。
 先の戦争に於いて、この日本で、信仰の故に投獄され、亡くなった方々がおられました。以前、辻哲子先生から、ご伴侶の辻宣道牧師のお父様辻啓蔵牧師が、信仰の故に国に投獄され、獄死されたことを窺いました。今からわずか70数年前の出来事です。
 今のこの国の流れは、戦後の民主主義から、再び戦前そうであったような国家主義へと戻って行っている、そのように思え、私は個人的に非常に危惧を抱いています。惑わされ、おびえそうになることがあります。
 しかし、イエス様はそのような私に、私たちに語りかけてくださいます。「おびえてはならない」と。この世は、神から離されている世であり、その故にさまざまな問題のある世ですので、いろいろなことがある。イエス様はこのことをはっきりと言っておられます。世のさまざまな出来事に遭遇したならば、最初にお話しした聖書ギリシア語の語句辞典に記されていたように、「その状況の『下に』とどまり、辛抱する。さらに直面した状況と時間に於いて、神に期待を持ち続ける」という忍耐を正しく持つことが必要でありましょう。「良くない」と思える状況でたとえあったとしても、そのことを通して、神が私たちに「為してくださること」に、希望を抱き、生きるのです。
 そして15節には「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」と語られておりますが、神のもと、キリストのもとに私たちがとどまり、どのような時にも神に希望を置き、目の前の状況に忍耐をする時、神は、必要な知恵を与えてくださるというのです。知恵と言葉が与えられるということ、それは、忍耐する者たちに、神は目を注がれ、神はその人と絶えず共にいてくださるということです。
 イエス・キリストはインマヌエル=神共にいます、お方であられます。
 私たちは、世のどのような荒波があろうと、共に居て下さり、私たちに目を注いでいてくださり、知恵を与えてくださる主の為してくださることを、忍耐をもって、どのような時にも希望を持って歩みたいと願うものです。そして、キリストに繋がり、さまざまな困難にも忍耐をして生き抜くこと、そのことがまことの命を勝ち取ることに繋がってゆく、これは聖書の語る約束です。

 今日はこれまで「忍耐」ということを、神との関係に於ける「忍耐」として語らせていただきましたが、最後に少し、私たちの親しい人間関係に於ける「忍耐」ということについて考えてみたいと思います。
 始めにお話しした、ギリシア語語句事典にあった「忍耐」の否定的な意味で「相手からの屈辱的な扱いを、卑屈と思えるほどに耐え忍ぶことを表す」とありました。それはキリストにあって、過ぎ行く時間の中で「待ち望む」という希望を可能にしてくれるものであると語らせていただきました。しかし、その忍耐と希望の行き着く先は、世に於いて殉教という苦しい死でもあり、その先にある永遠の命の希望を、初代教会の人々は見て、耐え忍んでいたのです。殉教者たちは、神との関係に於いて、世に対し忍耐をし、神と共にある命、永遠の命を得ました。永遠の命は、究極の希望です。
 その方々の世の死を「卑屈と思えるほどに耐え忍」んだという言葉では表せませんが、私たちは聖書を読む時、殉教するほどの困難に遭遇している人々に向けられた言葉を、そのまま私たちの日常の人間関係に照らし合わせて、どのように対応してよいのか、苦しむということがあるのではないでしょうか。
 そして日常の近しい人たちとの関係の中で、聖書の「忍耐しなさい」「耐え忍びなさい」という御言葉に照らし合わせつつ、ひたすら人間関係を「我慢」して、耐えて耐えて自虐的にまでその時間を過ごしてゆくということがあるのではないでしょうか。
 もしそのような選択をして、近しい人との問題のある関係を耐えて乗り越えようとしておられる方がおられるとしたら、神はその忍耐に報いてくださる日が必ずあることでしょう。不器用なまでに御言葉に従う人を、神は必ず祝福してくださいます。
 しかし、忍耐と言いますか、「我慢」をひたすら続けることによって、別の問題も出て来ることがあります。心と身体をいつの間にか傷めつけているということも起こり得ます。キリスト教徒は御言葉の故に、自虐的になるまでに我慢をし、自分自身を痛めつけてしまうということがあり得ます。
 人間関係に於いて、必死にまた一方方向で「許します」と唱えながら、我慢だけをして時を過ごしなさいとイエス様は語っておられるのではありません。
 私たちを取り巻くあらゆる人間関係の手本となるのは、神と私たちの関係です。神と人間の信仰に於ける関係は、人格的な愛の交わりです。神は私たちの人格と尊厳を重んじてくださっておられます。そのような、神の愛に人間は応答して神を愛して生きる。そのような対等なまでの愛の関係です。
 神はあるがままの私たちを受け入れてくださっておられます。神がそうあってくださるように、私たちも近しい人たちの、「あるがまま」を受け入れる強さを持つことが、ただ「我慢」をすることよりも、まず必要です。受け入れるには自分自身の弱さに打ち勝つことが必要でありましょう。
 あるがままを受け入れる、ということは、非常に厳しい現実を受け入れなければならない場合もあります。また、すべての人が神の愛を知っているわけではない。それこそよく忍耐を用いることが必要な場合があります。しかし相手のあるがままを受け入れ、しっかりと見つめ、その上で、互いのために一番良い道を、神に問いながら祈りながら探してゆくのです。ただ、闇雲に忍耐、我慢をするのではなく、見極め、受け入れた上で、何が大切かを選択し、選択をしたところで忍耐を以って歩むのです。
よき忍耐によって、神の祝福の道を、世に於いても、いのちの道を歩み、永遠の命を勝ち取るものでありたいと心から願います。