「私たちの力の源」(2018年4月8日礼拝説教)

ネヘミヤ記7:72b~8:12

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」
 2018年度の年間聖句です。土気あすみが丘教会がこの地に立てられ、34年目を迎えています。今日は、そのことを覚えつつ、今年度の年間聖句から御言葉に聴きたいと願っています。
 これまでの年月、教会は絶えることなく礼拝を守り続けてきました。初めは駅の向こう側、高津戸に一軒家を借りて、この地で伝道を始めました。週報を確認しますと、1984年4月8日、今日のこの日から数えて34年前が、この教会の最初の礼拝でした。
その後、現在の土地を得て会堂を建て、2009年には、この新会堂を得て、宣教の歩みを続けています。
 教会は、主イエス・キリストの復活を記念する日曜日の朝毎にここに集い、主の死と主の贖いを覚える聖餐卓を囲み、主の十字架を見上げ、救いの恵みを味わいつつ、御言葉に聴き、おひとりの神を礼拝する。互いに挨拶を交わし、この朝も共に集えたことを互いに喜びつつ主にあって共に生きる共同体です。礼拝をひとことで言えば、神を共に喜び祝うということでありましょう。
私たちが見上げ、喜ぶのは、まずなによりも主なる神。このお方は変わることなく、私たちひとりひとりに御目を注いでくださり、私たちを愛し、導いておられます。どんな時にも、神は私たちと共におられます。そしてどんな時にも、礼拝を私たちの生活の真ん中に据えて、神を見上げ、神を賛美しつつ、御言葉に聴きつつ歩むならば、神は私たちの心にこの世の楽しみや喜びとは別の、天来の喜びを与えてくださいます。この年も、神を喜び祝いつつ、互いに励まし合いながら、歩み続けて行きたいと願っています。

さて、今年度の聖句は、旧約聖書「ネヘミヤ記」からの御言葉です。
「ネヘミヤ記」というのは、読まれることの多くない書物と思いますので、少し、時代背景などからお話しさせていただきます。
 エズラ記、ネヘミヤ記、このふたつの書物は、バビロン捕囚後のイスラエルの歴史の書です。もともとこの二つの書物は一巻のものであったと言われています。今日お読みしたのは「ネヘミヤ記」ですが、ここではエズラ記のエズラの律法の朗読が語られています。ふたつは非常に関係の深い書物です。
 ダビデ、ソロモンと続いたイスラエル統一王国は、ソロモンの死後、後継者争いによって、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂をいたします。しかし北王国イスラエルは紀元前722年、アッシリアによって滅ぼされてしまいます。その後も、南王国ユダは存続しますが、新バビロニア帝国によって、597年と587年、二度に亘る攻撃を受けエルサレムは陥落し、神殿は破壊され、イスラエルの人々の中でも、比較的身分の高い人々が捕囚となって、バビロニアに連れて行かれました。そしてエルサレムは廃墟となってしまったのです。
 その後、約50年後BC539年、ペルシャ王キュロスが、バビロニアに無血入場をし、エルサレムはバビロニアの支配からペルシャの支配へと変わります。このキュロスという人は、イザヤ書の預言にも記されている人で、異邦の王でありながら、「主が油注がれた人キュロス」(イザヤ45:1)と語られているのですが、征服して属国となった国の人々の宗教に対し寛容な政策を取り、イスラエルの民の宗教も寛容に取り扱い、バビロニアに捕囚となっていたイスラエルの民にエルサレムへの帰還を赦し、神殿の再建を赦す勅令を出し、そのための援助もしたのです。
 イスラエルの民は、喜び帰還し、第二神殿と言われる神殿を完成させます。これはバビロン捕囚からおよそ60年後の紀元前515年のことです。60年の歳月というと、バビロン捕囚を経験した人々は、僅かに残っているだけで、帰還し、神殿を建造した人々の殆どは、バビロニアで生まれ育った人々でした。また、捕囚後の時代もエルサレムに残っていた人々の現状と言うのは、バビロン捕囚の悲惨な経験から信仰への疑念が起こっている状況でした。この時代は、神殿は建造されても、信仰の純粋性が失われている、信仰の危機に瀕している状況であったと言えます。そのような状況の中、ネヘミヤ、エズラはイスラエルの信仰回復のために多くの改革を行ったのです。
ネヘミヤは第二神殿建造から数十年経た後の紀元前5世紀半ばの人なのですが、この頃にも、祭司であり律法学者であるエズラと共に、バビロンからの帰還民がおりました。ネヘミヤは、ペルシャの王の献酌官として、ペルシャの王に仕える人として生きていたのですが、当時未だにエルサレムの城壁は打ち破られ、焼け落ちたままであり、イスラエルの民は不幸と恥辱の中にあるという状況を、エルサレムに残っていた自分の親戚から聞き、ネヘミヤは座り込んで泣き、嘆き、断食をし、神に祈りをささげ、王の許可を取り、総督としてエルサレムに入り、エルサレムの城壁を修復し、その後、さまざまな改革を行ったのです。
お読みした8章は、城壁が完成した後、さまざまな苦難を乗り越えたイスラエルの人々が、エルサレムの完成した城壁のひとつである、水の門の広場に集まって「一人の人のように」なっていたという箇所です。そして、その人たちが、書記官エズラにモーセの律法の書を持ってくるように求め、その言葉と解き明かしを、夜明けから正午まで立って聴いていたと言うのです。

それにしても、ここに集っていた人々のおそらくすべては、バビロン捕囚を経験した人ではありません。バビロニアの捕囚民の子として、バビロニアで生まれ育った人々は多く、また、バビロン捕囚の後、廃墟となったエルサレムで生き延びた人々の子孫です。異教の地で、また残された土地で、生きるために民族を超えて結婚をしていた現実がありました。
また、捕囚という民族の壊滅的危機を経験することによって、信仰に対する疑念のようなものも生まれていました。しかし、祖先から語り伝えられてきた信仰、また自分たちは、選ばれた神の民であるという認識は持っていたのでしょう。自分は何者であるのか、人々は、回復された城壁を喜びつつ、飢え渇きをもって、ひとつのところに集ったのでありましょう。その場所は、新しく出来た城壁のひとつ、「水の門」の広場でした。
「水の門」というのは、エルサレムの南東、神殿の南側にある門であり、エルサレムの水源であったギホンの泉の近くです。仮庵の祭の時には、この泉から水を汲み、祭壇に注ぐ儀式が行われておりました。神殿に比較的近く、神殿に近いけれども、神殿そのものではないですので、男女問わず集まれる広場です。神殿そのものの内部には、男性しか入れませんので、この場所は皆が集まるには最適な場所だったのでしょう。男性も女性も聞いて理解出来る年齢になっていた人々は皆おりました。
イエス様は、この時から約500年近く経った頃、この泉のほとりで言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。
集まった場所がイエス様がこの御言葉を語られた水の門であったということと、この時イスラエルの民が水の門に集まり御言葉に聞いたこと、これは符合する出来事、恐らくイエス様は今日の御言葉を心に描きつつ語られたのではなでしょうか。この時、イスラエルの民は渇いていたのです。御言葉に渇いて、命の水を求めて「水の門」に集まっていたのです。
そして、ここで語られているのは、イスラエルの民の集会ではありますが、ただの集会ではなく、いつしか神を讃える礼拝になっていきます。集められて「一人の人のようになり」同じおひとりの神を讃えはじめるのです。
「一人の人のようになった」ということ、それぞれさまざまな問題も抱えて、苦労をしてきたひとりひとりです。しかし、おひとりの神の御前に立つ時、心をひとつに、同じ神を礼拝する民として、集った人々は「一人の人のようになった」のです。これは、私たちの礼拝に於いても、重要な要素でありましょう。
 そして、民の方からエズラに、モーセの律法の書を持ってくるように求め、エズラは求めに応じて律法の書を会衆の前に持って参りました。彼らは、自分たちの祖先から受け継いでいるものが何であるのか、御言葉に飢え乾き、慕い求めていたのです。
 その様子はこうです。
 エズラは用意された木の壇の上に立ち、その両脇にはレビ人たちが居りました。エズラは人々よりも高い場所に立ち、皆が見守るなか律法の書を開きました。エズラが律法の書を開くと、民は皆立ち上がり、エズラが主を讃えると、民は皆両手を上げて、アーメン、アーメンと唱和し、そして、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝いたしました。
 ここには、旧約の時代の礼拝、神を讃える民の姿が描かれています。両手を挙げること、これは天に、神の居られるところに手を伸ばす、そのような動作でありましょう。そして、「アーメン、アーメン」、主よ、あなたの言葉は真実です。真実なる神の御心がなりますようにとひとつになって唱和し、神を讃え、そして次にひざまずき、顔を地に伏せる。見上げ、手を伸ばし、しかし跪き顔を地に伏せる。大胆に神に近づく姿勢と、神の御前にへりくだる、礼拝の姿が描かれています。
 この動作は、私たちの信仰の姿勢そのものなのではないでしょうか。神を大胆に求め、腕を広げて神を求める。絶対に神を得るぞという熱意。そして圧倒的な神の光に照らされた時、偉大なほめたたえるべき神のもとには「私」という存在など、どれほど小さなものかを知らされ、畏れつつ、跪くしかない。神の御前に私たちが立つとはそのような姿でありましょう。
 続いて、レビ人たちが、律法の説明をいたします。その間、民は立っていたというのです。疲れないのでしょうか?夜明けから正午までと語られています。6時間くらいでしょうか。
 恐らくは、この時、人々は神を礼拝する特別な恵みに満たされていたのではないかと想像いたします。雑念など心のうちに入り込まないほど、御言葉を聴く恵みに満たされていた、神の霊に満たされていたと理解すべきでしょう。恐らくは、神の側からの圧倒的な恵みと愛が、この時、礼拝をするイスラエルの民を、寸分の隙のないほどに覆い、降り注がれていたのではないでしょうか。このような礼拝を、信仰の経験出来たらどれほど素晴らしいことでしょうか。
彼らは捕囚の時期に生まれた人々です。先祖から受け継ぐ信仰の教育は、十分にはなされていませんでした。しかし、この時、モーセに与えられた律法の書―創世記から申命記までの五書―を聞いて、レビ人の解説を聞いて「理解した」のです。そして、この律法の言葉を聴いて、すべての民は泣きました。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない」、レビ人たちがそのように諌めなければならないほど、すべての民は大きな声で泣いたのです。
彼らは律法の書を聴くことを通して、自分たちが、先祖がどれほどの罪を犯してきたのか、神の律法に従わなかったために、自分たちの民族は捕囚という悲惨に遭ったのだ、彼らはそのことを、御言葉によって気づかされ、自分と、祖先の罪に泣いたのです。

旧約聖書をひとことで語るとすれば、何と語りましょう?神に愛され、創造された人間が、その罪により神から離れていこうとする。その人間を追い求め、御自分のもとに引き戻そう引き戻そうとする神の働きと愛の書だと私は理解しています。
神は人間の罪を見つけてを裁こうとされるような、恐ろしいお方ではありません。人間は罪の故に神から引き離されているが故に、さまざまな困難に見舞われる世に生かされているのです。神は罪のないお方であり、罪と共にあることはお出来にならないのです。
しかし、神は人間を愛するが故に、神のもとに人間を引き戻すために、モーセを通して律法をお与えになりました。しかし、律法を民は守ることは出来なかった。いえ、もともと守ることなど人間には不可能なことだったのです。しかし、神は神の愛を神の規範を示すために律法をお与えになった。人々は律法に背き、神を悲しませ続けました。そして、罪の世で、罪のままに、自分たちの心の赴くままに、為政者たちは欲望―名誉欲、金銭欲―のままに民を支配し、また人々も生き続け、しかしその先にあったものは、命ではなく滅びであったのです。そして人間の願望を成し遂げようとする時、人はどこまで行っても渇くのです。何をやっても満たされない。環境を変えたら、自分は満たされるかもしれない、そのように思い、また人間は新しい行動を起こしたりいたします。しかし、罪を帯びたまま、自分の願望を神を求めるより先に目に見えぬ達成感を求めて、闇雲に自分の置かれている状況を変えながら、自分の渇きを潤してくれる何かを探し続けるその姿は、神に背く姿です。
まず神を見上げ、神を神の戒めを愛することを中心に据えなければ、人間は満たされることはない。「水の門」、まことの命のほとりに集まり、神からのまことの命を慕い求めることなしに、御言葉に従順である前に、自分中心の思い、自分の願望を中心にして生き続けるならば、人間は罪の縄目にがんじがらめにされ続け、滅びに至る。イスラエルの民にとっては、それは他国からの侵略、バビロン捕囚という形で顕されました。この時、イスラエルの民は、そのことに気づき、理解し、泣いたのです。自分たちと祖先の罪に大泣きに泣いたのです。

その時ネヘミヤとエズラは申しました。「言って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源である」。
罪に気づいたならば、そして悔いて泣いて立ち返るならば、その時は既に神は喜び迎えてくださいます。悔い改めたならば、人間は神のもと生き、神を喜び祝うことが出来るのです。神は悔いる心を侮られることはなく、御赦しのもとに置いてくださっているのです。
神は人間がいつまでも嘆き悲しむことなど望んではおられません。気づき、立ち返ったならば、神に顔も体もすべてを向けて、神を見上げ、赦しの許にある者として、主を喜び祝う。何を置いても自分ではなく、主を喜ぶ。そして喜び祝う。このことこそが、人間をどんな時にも生かす、力の源なのです。
そしてそれは何よりまず神を礼拝することです。今日の御言葉では、イスラエルの民は、神を礼拝することを回復いたしました。民は礼拝を通して造り替えられてゆくことになります。

私たちは、イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、神と共にある命のうちを既に歩ませていただいています。私たちをその命を捨てるほどに愛してくださり、救いに導いてくださったイエス様を、週の初めの日の朝、ここに集い、ひとつになり、主を喜び祝い、礼拝をささげます。このことは、私たちにとってまことの力の源です。ここから新しい力を受け、世の務めへと送り出されてゆくのです。
世に於いては、さまざまなことがありましょう。時に「失敗した」と思ったり、悔やむようなこともあるかもしれません。しかし、私たちには戻ってくるところがあります。ここに、この礼拝に、前の一週間の務めのすべてを携え来ることが出来ます。重荷を降ろし、悔い改め、赦され、新しく生きることが赦される場所です。
ここに週の初めの日に共に主を喜び祝い、新しい力を得て、世に遣わされてゆく。この神から与えられた恵みを存分に私たち自身の喜びとし、神を喜び祝い、神を讃美しつつ、生涯歩み続けさせていただきましょう。主は、神を喜び祝う私たちと絶えず共におられます。