「行きなさい。もう罪を犯してはならない」(2018年5月6日礼拝説教)

エゼキエル書33章11
ヨハネによる福音書8章1~11

日本人は祭りが好きですね。私は一度、写真を撮る用事があり、浅草の三社祭りの一番大きな祭りの時だったでしょうか、早朝からそこに行ったことがあります。朝早くから大きな神輿を見るためのすごい人だかりで、ウエストポーチの革紐がなんの拍子だったのか、人ごみの中で押されて切れてしいました。朝から興奮状態の人々、そして、少し裏道に行くと、ずっと夜通しお酒を飲んで、酔いつぶれている人たちがいる。お酒の臭いがする、そんな光景を思い出します。
 祭りというのは、人を興奮させますし、無秩序にもなりやすい。イエス様の時代のユダヤ人の仮庵の祭りも、恐らく信仰的な敬虔なものというよりも、祭司が水を汲みにシロアムの池に行き、祭壇の西の隅に水を注ぐ、そのことを7度続けるという祭りの最終日は、殊に人々の熱狂でごった返していた。仮庵を造り、そこで寝泊りをしてお酒を飲み、騒ぎまわる人々がいて、人々は解放された気持ちになっていた、そんな状態だったのではないでしょうか。そんな祭りが最高潮だった日の恐らく翌朝、ひとりの女が、姦通の現場を捕らえられて、イエス様の前に連れて来られたのです。

 ところで、今日の御言葉、その直前の7:53から8:11は、括弧で括られていることにお気づきになられましたでしょうか。私自身このことは大きなこととは捉えず、括弧は無いという前提で御言葉の取り次ぎをさせていただくつもりですが、珍しい括弧つきの箇所ですので、疑問に思われる方もおられるかと思い、少し説明をしておいた方がよいかと思います。
今日のこの御言葉、非常に印象的で有名な御言葉なのですが、実は初期の写本には、括弧内は入っていないのです。聖書の原本、ヨハネ自身が書いたものというものは現存しておらず、写本と言って、元のものを書き写したものが残っているのですが、初期の写本にこの部分が書かれていないということは、すなわちこの部分はもともとヨハネによる福音書には無かったのだと考えられているのです。この御言葉が入っている写本は、紀元4世紀のものが最初なのだそうで、この御言葉を聖書正典と認めるかどうか、16世紀のトリエント公会議で議題となり、残すことが多数決をもって決められ、私たちの持つ聖書には入れられることになりました。もともとヨハネが書いたものに含まれていないのならば、何故、入れられなければならなかったのか、という問題も出てきます。正確は理由は分かりません。
しかし、ひとつの鍵としては、これが仮庵の祭りという水の祭りの中の出来事であったということだと考えられます。四章には、五人の男の人との結婚と離婚を繰り返しながら本当の愛を得ることが出来ず、今も新たな男の人と一緒に暮らすサマリアの女とイエス様の出会いの出来事が語られていました。彼女は飲めばまた渇く水を飲んでは渇き、飲んでは渇きを繰り返しつつ、人々の非難の目に曝されながら、「私が与える水を飲む者は決して渇かない」と言われてイエス様の言葉に、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」 とカラカラに渇いた心からの呻きをイエス様に向かって発していました。
その後、6章ではまことの命のパンについて語られ、7章全体は水をふんだんに使う仮庵の祭りであり、8章もその流れの中にあります。人間が時に刹那的に求めてやまない肉の糧、祭りの賑わいで使われる水と、神から与えられるまことの命のパンと、湧き上がるまことの命の水、それらが対称的に語られる流れの中で、サマリアの女の「渇き」とある意味共通する、姦通の女とイエス様の出会いの出来事がいつしか、写本に入るようになった。さらに正典として認められるに至った。そこには神のご意志が働いているということを、私は信じます。
そしてこの新共同訳聖書は、それらの少し複雑な経緯を踏まえて、敢えて括弧つきでこの御言葉を入れている、このことを少し覚えておいていただければと思います。

 先週の御言葉にはイエス様は出て来られず、ファリサイ派の人々の間でイエス様を捕らえようとする動きが具体的になっており、ファリサイ派の議員であり、イエス様の口から永遠の命の御言葉を語らせたニコデモが、同じファリサイ派の議員に、律法の掟を用いて、イエス様のために弁明をしたことが語られておりました。ファリサイ派の人々は、自分達に都合のよい律法を用いながら、「律法を知らないこの群衆は呪われている」と、自ら人を裁く裁き手となっていました。今日の御言葉も、人々は尚一層自分を「裁き手」の位置に置いて、ひとりの女を、そしてイエス様を、徹底的に裁こうと企んでいます。
 人は、往々にして自分に対して優しく、他者に対して残酷です。人を裁くことを安易に致します。テレビに出ている芸能人が、不貞を犯したなどというスキャンダラスなことは、面白おかしく現代でもマスコミを通じてそれだけで国中が大騒ぎをしています。世の巨悪や不正や差別、暴力に対し、大いに批判することは必要ですが、それとは別に、ひとりの人間のプライベートな恥ずかしい部分を見つけてあげつらい、こぞって恐ろしいほど、人を叩きのめすさまを見ます。人間のそのような性質というのは、古今東西変わらない、人間の大きな罪なのではないでしょうか。人は、自分を「裁き手」の立場に置きたがる、そして、他者の「過ち」をどこまでも面白おかしく裁き続け、話題にし続ける。それをしている人たちの中にも、同様のことをしている人も多いのではないかと思えますが、自分のことはさておき、人は人をとことん叩きのめし、自分を正当化しようとする、本当に悪い罪の性質があることを思います。
 
 この時、神殿で民衆の前で座って話しておられるイエス様の前に連れて来られた、姦通の現場を取り押さえられて、連れて来られた女。姦通ということですから、この女性が結婚をしていたのか、相手の男に妻が居たのか、どういう事情だったのか書かれていないので分かりませんが、律法の教えには、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記22:24)という掟があります。しかし、ここで連れてこられたのは、女ひとりでした。男は逃げたのでしょうか、ここで連れて来たファリサイ派の人々は「こういう女は石で打ち殺せと律法の中で命じています」と、ファリサイ派の人々は女のことだけを言っておりますので、もしかしたら、男社会の中で、ここでも律法を勝手に解釈をして、男は逃し、女だけをイエス様の前に連れてきたことも考えられます。
 そしてイエス様に向かって申しました。「ところで、あなたはどのようにお考えになりますか」と。イエス様を試し、言葉尻を捉えて、逮捕する口実を作ろうとしているのです。

 姦通の現場を取り押さえられた女性。この女は娼婦ではありません。一般の女性です。私も女ですから、「現場を取り押さえられる」などというそのこと自体、女性としてどうしようもない「辱め」を受けたことになることは分かります。恐らくは、ほどかれた髪のまま―この時代の女性は夫以外の男性に髪をほどいた姿を見せることはありませんでした―、とるものも取り敢えず着たであろう乱れた服。両腕を男たちに鷲掴みにされて、イエス様の前に連れて来られたのではないでしょうか。そして、姦通の現場を捕らえたと言って、殺気立つ男たちに囲まれ、石で打たれて殺されてしまう、その恐怖でひきつっていたに違いありません。

 イエス様は、連れて来られた女性をどのような目で見つめられたのでしょうか。とにもかくにもこの女性は、イエス様の前に立たされました。この女は、彼女が罪と死の恐怖にまみれた時に、イエス様と出会ったのです。
 この女性は罪を犯した。何らかの裏切りがあり、また自分の何らかの心の渇きをひととき忘れるために姦通の罪を犯し、その現場を取り押さえられてしまった。神の律法によれば裁かれるべき状況であることに違いはありませんでした。

 イエス様は、引き立てて連れて来られ、恐怖と混乱の中で、イエス様の前に立つ女性に、声を掛けるでもなく、目を伏せるようにかがみ込み、下を向いて、指で地面に何かを書き始められました。
 イエス様はこの時、何を書いておられたのでしょう?
 イエス様の目の前には、喧騒の中、辱めと命の危険にさらされている憐れな女性がひとりおり、それを取り巻いて、自分のことはさておき、ひとりの人間のスキャンダラスな出来事に殺気立っている男たちがいる。さらにその人たちは、イエス様をも試そうとし、イエス様の返答次第でイエス様を捕まえようと殺気立っている。
 このことには、いろいろな説があり、一番用いられている説は、宗教改革者カルヴァンも語っていた、何か書いた事柄に意味があるのではなく、むしろ書いた動作そのものに意味がある、つまり、このファリサイ派の人たちの訴えに対し、イエス様は相手にしなかった、答えることを拒否なさった、持ち出された問題を、下を向いて無視することに、この場合意味があるのではないかという考えです。
 また、イエス様はそこにいるすべての人の罪状を書いておられたという説があり、また、この時、イエス様は人々の罪を背負って崩れ落ちそうになって屈みこんでいるのだ、という印象的な説もありました。私はこの説はひとつの側面として有り得ると感じます。目の前に立たされている女性も罪の女です。そして、取り巻く人々の罪がある。イエス様は十字架で苦しまれる罪の重荷の先取りのように、人々の罪を体に負い、かがみこんでおられた、それはそうなのではないかと思えました。
 しかし、多くの学者が取る、「答えることを拒否された」というのは、女である私には一番腑に落ちない。男目線で、女性の立場を忘れているような気がします。
 私には辱めを受け、命の危険にさらされている女性がひとり、イエス様の前に立ち、震えている。その様を前にして、イエス様が我関せずと、ただ下を向いて、何かを書いているとはとても思えないのです。確かにイエス様ご自身、ファリサイ派の人々の悪意、また人間のひとりの人をどこまでも貶めて嘲笑い、命を奪うことも厭わないような残酷さという人間の罪を前にして、「あなたたちにこの女性の罪を裁く権利があるのか」という思いはおありになったに違いない。また人々の罪を、悪意をその身に一身に受けて屈みこまれている。しかし、イエス様にとって、この時、一番大切だったのは、この時出会った、目の前にいる辱めを受け、命の危険にさらされ震えているひとりの女ではなかったでしょうか。
私の思うところは、イエス様は、この女の罪を、心の嘆きを、これまでの生活を書いておられたのではないかということです。人々から姦淫の現場を押さえられて連れてこられ、人々の手で裁かれようとしている一人の罪人であるこの女性。その罪をイエス様はすべてご存知であられ、それを綴っていた。彼女のすべてはイエス様の御前にさらけだされた、何故ならイエス様は、「罪を赦す権威」を父なる神から与えられているお方です。「罪を赦す」ならば、その罪のすべては明らかにされねばならない。明らかにされるということは、まことの裁きの座に着かされるということです。この女は、この時、イエス様の前にすべてをさらけだされて、裁きの座についていたのではないかと思えるのです。

 何も言わずかがみ込み、指で地面に何かを書いておられるイエス様に、ファリサイ派の人々はしつこく問い続けていました。そして主は遂に身を起こし言われたのです。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。
イエス様は、律法に基づき女が石打の刑に値する罪を犯したことを認めておられます。大目に見るとか、水に流すとかいう態度を取ってはおられない。しかしここでイエス様は、そこに居る人々に、その罪を裁く資格、裁く権威が誰にあるのかを問うておられるのです。罪人が罪人を裁くことが出来るのだろうか?と。
 この言葉に、そこに居た人々は驚き、鎮まったのではないでしょうか。
 そして、年長者からはじまり、一人、また一人と、立ち去ってしまい、イエス様ひとりと、真ん中に連れてこられた女だけが残されました。
 年長者から立ち去る―これは罪ある人間にとって、救いの出来事だと思います。恐らくこの時、若い人ほど、血気盛んに女とイエス様を責めたてていたのでしょう。しかし、イエス様のひとことで、さまざまなことを経験して、年を重ねた年長者から先に、自分の罪に気づかされていった。
人間が生きるということは、自分の罪に気づき、神に立ち帰るためなのではないでしょうか。そうであるならば、年を重ねることによって罪に気づくのならば、人間がさまざまな経験、罪も犯しながらも生き続ける意味があります。神の望みは、すべての人が、悔い改め、神に立ち帰って生きることであるからです。
 そして、どれだけの時間が経ったのでしょう。最後のひとりまで、自分に罪あることに気づき、その場を立ち去り、イエス様と捕らえられ連れて来られた姦通の女だけが残されたのです。

 イエス様は、そこで初めて身を起こし、言われました。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたの罪を定めなかったのか」
女は、「主よ、だれも」と言うと、イエス様は言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と。
イエス様がこの女に言われたこと、「もう罪を犯してはならない」ということでした。原語的に言えば「罪を犯すことは出来なくなった」という強い意味です。しかし、人間というものは、とことん罪にまみれていますので、「罪を犯さない」人などは、悔い改めても悔い改めも、どこまでも、おそらく一人もいない。しかし、ひとつの罪に気づいたならば、同じことは繰り返してはならない。少なくとも、「もう罪を犯さない」という決意をもって、赦されて新しい歩みをすることが求められてありましょう。そして、そのように悔い改めて、新しくされ、新しく歩み行くことが、イエス・キリストにあってすべての人に拓かれているのです。赦されたのですから、最早「罪を犯すことは出来ない」、そのことを肝に銘じて生きるべきです。
 
この女性は、人々の嘲りの中、恥と死の恐怖の只中でイエス様に出会いました。しかし彼女の恐怖のどん底の傍にはイエスさまがおられた。まことの命の水であるイエス様に出会い、そして彼女はイエス様の前にすべてをさらけ出し救われました。「地上で罪を赦す権威を持って」(マタイ9:6)おられるお方の御前に一対一で御前に立たされ、赦しの宣言を受けたのです。人々に裁かれ、辱めと恐怖の中にいた一人の罪を犯した女性は、目の前に居て、その場にいる人々の罪をすべてその背中に背負い、かがみこむイエス様に、自分の罪を引き取っていただき、赦されたのでありましょう。イエス様は、この出来事のおそらく半年後、すべての人の罪をその身に背負い、十字架の死を遂げられることになります。

 私たちもひとりひとり、いずれ主の御前にひとり立たされる時が、それぞれ必ずやって参ります。その時、「あなたの罪は赦されている」と言って頂ける、そのような歩みを、既に罪に気づいたのであれば歩ませていただきたいと願います。
 また、自らの罪に気づき、裁き手の座から去り、主の御前に赦されなければならない者であることを知り、完全に主のものとなり、光の道を歩む人となることを、どなたにあっても、いつにあっても、主は求め、待っておられます。