「神は私たちの愛を忘れない」(2018年9月9日礼拝説教)

創世記22:14~18
ヘブライ人への手紙6:4~20

 神の愛を伝えるということで、私の心にひとつ、あるイメージがかなり以前からあります。それは、起こって欲しくはないことなのですが、多くが破壊されてこなごなになった場所で、「それでも神はおられる。あなたを愛しておられる」と叫ぶ、そのようなイメージです。すべてが無くなった中で、「神はおられる」ということを叫んで、その先、どのように話をするのか、それ以上の言葉はまだ見つからないのですが、そんなイメージはよもや私の頭の中に引き起こされる空想の出来事だと思っていましたが、この夏の立て続けの台風、豪雨、大地震が起こる中、自分の頭の中にあったイメージがいつ起こってもおかしくないと思うようになりました。
 さまざまなことが起こりますが、すべてを統べ治めておられる神のご計画がどこにあるのか、訊ね求めつつ、しかし主に信頼をして、大胆に神に近づき祈りつつ、日々を生きたいと願うものです。
 また今日はご高齢の方々を覚えての礼拝です。今年も満78歳以上の方々19名、H先生を加えますと20名の方々にカードを送らせていただきました。
78歳以上と言いますと、皆様、先の戦争を経験しておられます。混乱の時代、幼少期を過ごされ、復興と高度成長期を支えて来られたことを思います。幼少期から、さまざまな忍耐を強いられたご経験も多かったのではないかと思います。そして時代の移り変わりを見てこられ、年齢を重ねる喜びも、またご苦労も背負われながら、今という時を、神と共に歩んでおられます。信仰の先達として、また人生の先輩として、さまざまなご苦労と、豊かなご経験をして来られたことを思います。
はじめに、台風21号による西日本、関西地方の甚大な被災、北海道いぶり東部地震による甚大な被災を受けられた地域と被災をされた方々のために、またご高齢の方々のために祈らせていただきたいと思います。

 さて今日の御言葉には、たくさんのことが語られています。始めに非常に厳しく、信仰から堕落していくことに対する戒めの言葉から始まり、信仰の成熟ということ―これはアブラハムの信仰に倣うことを前提し、神の約束と誓いを受け継ぐということがどれほど大きな私たちの人生の希望であるかということ、そしてそのためには、忍耐が必要であるということ、さらに、神は私たちが神の名のために示した愛をお忘れになることはないということが語られています。

 この御言葉からまず申し上げたいことは、神の約束と誓いは、破られることのない確かなものであるということです。このことを是非とも信じて心に刻んでいただきたいと思うのです。イエス・キリストを信じて洗礼を受けたということは、神の御前で決して破棄されることではなく、悔い改めの洗礼によって、私たちの命は、既に神の領域に入れられています。これは何が起ころうと破られることのない救いの現実です。たとえ、今、目の前に見える現実が不毛と思えることであろうと、神の約束と神の誓いというものは、取り消されることはないのです。目には見えませんが、私たちを覆っているのです。でも希望を持たなければ、心が神に向かっていなければ、それを私たちは実感として受け取ることが出来ません。神の恵みが覆っていても、気づかず右往左往してしまいます。どのようなことがあろうと、神に希望を持ち続けること、これは救いを私たちが我が物として受け取り生きるために必要なことです。
 そして9節の「もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」と語るこの手紙の著者の言葉は、希望に加えて信仰と忍耐を絶えず持ち続けることに関わっています。

 さて、今日の御言葉、ヘブライ人への手紙というのは、書かれたのは、紀元80~90年頃と言われています。この時代は、イエス様の十字架と復活の出来事から50年ほど経った頃で、教会はローマ帝国による迫害を経験し、エルサレム神殿は既に崩壊している時代です。そのような中で、教会の中でも、さまざまな困難、目に映る現実の厳しさを経験し、信仰の揺らぎを持つ人が、恐らく少なくはなかった。5節には、「神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落したものの場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」と厳しい言葉が語られており、この御言葉は私なども自分を省みて、どきどきしてしまうような御言葉ですが、この厳しさの背後には、世の目に見えることの困難さ、迫害の厳しさに、イエス・キリストへの信仰と神への希望を見失い、信仰から離れたり、イエス・キリストを信じると言いながらも、この当時教会の中に入り込んでいた異端的な教えを信奉するようになっていた人たちが居たという事実があります。
 そして、7,8節では信仰を神の畑に譬え、同じ畑を与えられながらも―皆さん、すべての人に救いの恵み、耕すべき畑は与えられているのです―神からの恵みの雨を受けつつ、よく土地を耕し、良き農作物=実りをもたらす人たちには神の祝福が、茨やあざみなどを与えられた畑から生えさせる者は、呪われるという、厳しい言葉を告げているのです。これらの厳しい言葉は、何としても、「約束されたものを受け継ぐ」人となって貰いたいという、語り部なる著者の切なる思いが込められているのだと考えます。
 9節からは、それほどの厳しい言葉を語りながらも「しかし、愛する人たち」と改めて語り掛け、「もっと良い、救いにかかわることがあると確信しています」と言葉を継ぎます。そして、語るのです。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示した愛をお忘れになるようなことはありません」と。
 神は、私たちひとりひとりを覚えておられます。私たちの心にある神に対する愛、神、そして教会のために為したこと、ほんの小さな業と思えることであったとしても、神は私たちの神に対する愛をすべてを覚えておられ、お忘れになることはありません。神は全知全能であられ、私たちの心の奥深くまでご存知であられ、そして、私たちが世のさまざまな苦労を通しても、神を見上げ、神へ示した私たちの愛を忘れることなく、私たちを愛してくださっておられます。
 そのように神を愛し、また神に知られ愛されるひとりひとりに対し、この手紙の著者はアブラハムに対する神の約束を語りつつ、さらに良いこと、救いに関わる良いことを得るために、必要なことを語るのです。

 アブラハム、多くの方がよくご存知のとおり、アブラハムとは、旧約聖書ユダヤ人に於いては父祖と呼ばれる人であり、私たち全世界のキリスト者にとっては、信仰の父と呼ばれる、旧約聖書創世記に語られる人物です。この人は紀元前1900年頃、実際に生きた人でありました。
 新約聖書は、一つの意味として、アブラハムに神が与えられた約束と契約の成就であると言えましょう。それは、アブラハムの信仰を受け継ぐものが、世界中で星の数のように増えたということです。キリスト教徒にとって、アブラハムは「信仰の父」です。アブラハムは見える現実は虚しいものであったにも拘らず、「神の約束を信じた」信仰を神は義=神との関係に於いてただしい者とされました。キリスト教徒というのは、アブラハムの信仰を受け継ぐ者であるのです。受け継いだものは、アブラハムの「信仰」、まだ見ぬことへの「希望」を持つ信仰、神の約束に生きる信仰です。

アブラハムは、75歳―現代日本で後期高齢者に入る年齢―の時、神の声を聴きました。そしてその声に応えて、住み慣れた父の家を離れ、新しい神に示される地へと歩み始めたのです。
 神のご支配、信仰者の生き様というのは、このことひとつを取っても驚くべきことだと思います。75歳から新しい出発なのです。それまで多くの経験をしてきて、もう高齢となり、そのまま老いて人生は終わるのかと思える頃、神はアブラハムに呼びかけ、アブラハムは新しい歩みを始めたのですから。
 このことは、いくつになろうとも、私たちは神の子どもであり、また神が共にある人生というのは、奇想天外な思いも因らない恵みに満ちたものであることを物語っています。
主なる神は、アブラハムを暗闇の中、外に連れ出され、満天の星を見せて、「あなたの子孫はこのようになる」という約束を与えられました。この時が、今日の御言葉にもあります「約束」に当たる出来事、最初の出来事です。この時アブラハムは、75歳、子どもを得ることがないままその年齢になっていました。しかしアブラハムはこの時、神の約束の言葉を信じたのです。信じることによって、アブラハムの人生は神が共にあるものとなりました。しかしその日々は忍耐が必要とされる、また誘惑の出来事も起こってきたり、人間的な弱さも顔を出す日々でもありました。しかし神の約束は離れることなく、遂にアブラハムは約束の子イサクを得たのです。
 約束が成就されたことを経験したアブラハムには最大の試練が訪れました。約束の子、100歳にして得たイサクを、神に献げよという命令を与えられたのです。この出来事では、出来事が淡々と語られ、アブラハムの苦悩について聖書は語りませんが、アブラハムは神の命令に従い、イサクを献げようとしたその時、神の御使いが現れ、主なる神は、神を畏れ、自分の独り子さえ、神に献げることを惜しまなかった、その信仰を認め、イサクに代わって犠牲として献げる小羊を備えられ、そして約束に加えて、自らに賭けて誓われたのです。
誓いというのは、自分より偉大な者にかけて誓うものですが、主なる神以上に偉大な方はおられませんので、ご自分に賭けて、主は誓われたのです。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」と。これは、主なる神が、ご自身に賭けて誓われた、確実な誓いでありました。

 そのように約束と誓いを表されたアブラハムの生涯、神に出会い、忍耐強く神に従おうとしながらも、人間の弱さが顔を出し、罪を犯すことも多々あったことを聖書は余すことなく語っています。自分の命を守るために、王の前で自分の妻を妹と偽ったり、神の約束を一旦は信じたにも拘らず、側女のハガルに子どもを産ませたり、神に召されながらも、信じきることが出来ないような行動もしてきたアブラハムでした。アブラハムこそ、今日の御言葉のはじめに語られている厳しい裁き、呪いの言葉が相応しいのではないかと思われるようなことをして来たのではないのかとすら思えます。しかし、神は、アブラハムの神に示した愛をお忘れになることはなかったのです。
アブラハムの迷いの多い神に従う道の中にあっても最大の試練である「独り子を神に献げることを惜しまなかった」、究極の局面で表された信仰、神に従う時に、必ず御心がなることに、この世の思いを超えて神の御声に聴き従うことを選んだアブラハムに対し、神は、約束に加え、誓いを与えられたのです。神は不義なお方ではなく、ご自身の言葉に忠実なお方です。そのことを保証するために、アブラハムの神への愛、信仰に応えて、更に「誓い」を与えられたのです。
「二つの不変の事柄」とは、アブラハムにはじめに「子孫を星のようにする」と神が語られた約束と、アブラハムの神を信じ抜いた信仰に応えて、神が再び、今度は単なる約束ではなく、「わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」とご自身に賭けて誓われた誓いを指します。アブラハムに表されたこの二つの事柄は、信仰によるアブラハムの子孫である私たちに対する神の約束と誓いの事柄でもあります。

 アブラハムですら、神に従う道の中で迷いがあり、罪を犯すことがありました。人生とは、迷いの多いものだと思います。信じたと言ってもそれがどこまでも一貫性があるかと言えば、私たちはそうでもないのではないでしょうか。揺れ動く時があります。
 しかし、弱さを持ちながらも、究極的に神に従うことを選んだアブラハムの信仰に主は応えられ、「必ずあなたを祝福する」ということを、約束に加えた誓いによって、確かなもの、保証とされたのです。その保証は、イエス・キリストを信じる私たちにも受け継がれている、救いの保証です。神は、私たちが神に出会いながらも、罪の誘惑にかられたり、人生の苦悩を経験しながらも、「にも拘らず」忍耐強く、それでも神を見上げながら、神に究極の希望を持ち続けることを望んでおられます。そして、そのような私たちが苦悩しながらも示す神への愛をお忘れになることはありません。
 18節に「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れてきたわたしたち」という言葉がありますが、この時代は、イエス・キリストを信じる信仰を持つことによって迫害を受け、苦難を強いられる、そのような時代でした。世の理不尽や悪から、イエス・キリストのもとに逃れてきたということでしょう。アブラハムを信仰の父として、世のさまざまな困難からイエス・キリストのもとに逃れてきた人々、私たちにとっても、たとえ今、目に見える現実がどのようなものであろうとしても、神が信じて神の許に逃れて来る者たちから神の愛と祝福は離れることはない。二つの不変の事柄とは、アブラハムに表された約束と希望であり、それは、私たちに表された事柄でもあります。
 この希望は「魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの」とさらに語られます。錨というのは、ご存知のとおり、船を停泊させるために、鎖やロープを付けて海底、川底に沈める道具ですが、希望の象徴として、カタゴンベ=墓の壁によく刻まれておりました。錨とは希望を表し、私たちの人生の船が航海中、嵐の海で危険にさらされようとも港に戻り、錨を下ろして繋ぎとめられるなら安全なように、救いの希望を抱き続けているならば、神の御許に不動の錨を下ろしているようなものであるというのです。
 さらに希望を持ち続けることは、至聖所の垂れ幕の内側に入っていくものと語られます。至聖所とは、エルサレム神殿に於いて、大祭司が年に一度だけ入ることが出来る、神のおられる場所と言われておりましたが、イエス様が十字架で死なれた時、「神殿の垂れ幕が落ちた」と語られています。それは、至聖所と聖所を隔てる垂れ幕が落ちて、人はただイエス・キリストを信じる信仰によって、神の御許へと行くことが出来るようになったということを表しています。
その信仰を支えるものが、希望です。目に見える現実にへこたれて心を萎ませるのではなく、心を高く上げて、神を見上げ生きるのです。
神の御許こそが安定した魂の錨のようなものであり、また、私たちは信仰による希望によって、神の御許へ大胆に近づくことが出来るのです。

 いろいろ苦労が多く、また惑わされる出来事も多く、迷いの多い、私たちの人生です。忍耐しなければならないことが多い世の中です。しかし、忍耐は信仰と希望に固く結びつくものです。そして、私たちにはしっかりと下ろすべき錨が備えられています。神の御許に私たちは、神の約束と誓いを信じる信仰と希望によって、辿りつくことが出来ます。これは、私たちに与えられている揺るがない保証です。
 神は私たちの神に示した愛をお忘れにならず、私たちをご自身の約束と誓いのうちに、どんなときにも置いていてくださいます。
 このことを決して忘れないでください。神はあなたを愛しておられ、何があろうとも神を愛する私たちの神に示した愛をお忘れになることはなく、神は私たちをどこまでも天来の祝福のうちに置いてくださいます。私たちの絶えざる神への希望は、私たちを信仰の成熟に導かれ、それぞれの人生を神の恵みと祝福で満たしてくださいます。
 希望を胸に、この週も力強く歩ませていただきたいと願います。