「平和の王」(2018年12月23日礼拝説教)

「平和の王」
イザヤ書11:1~10
ルカによる福音書1:26~38a

 救い主イエス・キリストのご降誕を祝う、クリスマスがやってきました。この年のクリスマス、イエス様のお誕生を、たくさんの皆さんと一緒に喜び、お祝い出来ますことを、感謝いたします。

 教会の一年は待降節から始まりましたけれど、主の年2018年はもうすぐ終わりを迎えます。この一年を振り返ってみて、皆様にとってこの一年はどのような一年でしたでしょうか。牧師として、教会のこの一年を振り返ってみますと、知り得る限り、ご病気で入院をされた方、大切なご家族を天に送られた方、ご家族の介護でご苦労をされている方、たくさんの悲しみや困難を憶えながら過ごされた方々が殊更に多くおられたことを思い返します。
 それらのことに今も心に傷みを持ち続けておられる方も、おられると思います。一日も早く、その病が、悲しみやご苦労が癒されますよう祈ります。
 また何らかの過去の問題に対し、後悔で胸を締め付けられていたり、対人関係での他者のひとことに心にずっと重く沈んでいたり、いろいろな過去のマイナスと思える出来事がずっと心にひっかかり、悩みがずっと消えない、そのような重荷を持ち続けておられる方も、もしかしたらおられるかも知れません。
 しかし、イエス・キリストの到来は、すべてを新しくする光です。マイナスと思える世の出来事が、救いへと、暗闇が光へと変えられる出来事、世のすべてのことの「逆転」。それが、救い主イエス・キリストの到来の出来事であるのです。

 イエス様のお生まれになった時代は豊かな人は豊かで、貧しい人々は限りなく貧しい、貧富の差の広がった社会でした。当時のローマの書物を読みますと、お金持ちの人たちは、いつもどんちゃん騒ぎをしていて、どんどんご馳走を食べまくり、太っている。その反面、貧しい人はどんどん貧しくされ、食べるものもなく、温かい寝場所も無く、生まれた子どもたちの多くは、生まれてもそのまま死んでしまう、そのような貧富の差が拡大した社会でした。また民族が民族を、人が人を、特に病気の人を差別をするというようなことが横行していた社会でした。

 そのような社会の中で、低い身分の貧しい家に生まれ育ったイエス様の母となるマリアのもとに、天使ガブリエルが神から遣わされたのです。イエス様は、所謂富裕層ではなく、貧しい庶民の子として、お生まれになることになります。これは神のご計画、神の強いご意志のあらわれでありました。
 この時のマリアの年齢は、12歳くらいであったろうと言われる説、また新約聖書外典「ヤコブ原福音書」によれば、この時、マリアは16歳であったと記されています。いずれにせよ、若い少女と言える年齢であったマリアはこの時、ヨセフという人と婚約をしていました。

当時、ユダヤ人の結婚は、まず一般的には女性の家で契約書のようなものを取り交わし、婚約が成立します。それから男性は一緒に住む家の準備をします。準備が整うまで1年程かかり、準備が整った1年後、花婿花嫁両方の家で、皆でワインを飲み、食事を楽しみ、歌い踊り、場合によってはそれを一週間続けて結婚を祝い、それから二人は同居を始めるのです。
 この時のマリアの状況というのは、婚約の契約書を取り交わし、正式な結婚式を待っている状態の時でした。もうヨセフとの結婚は公のものとして周囲の人々にも知られています。その状況で、天使がマリアに顕れたのです。そして語りかけました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と。
 マリアは冷静に物事に考えるタイプの少女だったのではないでしょうか。突然目の前に天使が表れ、語られたその言葉にマリアは戸惑い、「考え込んだ」と語られます。畏れつつ、戸惑うマリアの様子が浮かびます。
 天使ガブリエルは、そんなマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と告げました。「恵みが与えられる」―どうやら良き報せのようです。
しかし告げられたことは驚くべきことでした。
「あなたは身ごもって男の子を産む」と。さらに「その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることはない」と。

一体天使は何を言っているのでしょうか。神様は「おめでとう、喜びなさい」と言いながら、何ということをなさろうとするのしょうか。「あなたは結婚して男の子を産む」なら分かりますが、ここで天使が告げたことは違ったのです。結婚をしていない、婚約中のマリアが「神の子を産みますよ」と告げて、そのことがすぐにでも起ころうとしている、結婚前に、ということが語られているのです。そして、その子は人間の男の人によるのではなく、聖霊、神の霊によって、マリアのお腹に宿るのだと言うのです。 
「聖霊=神の霊によって子を宿す」・・・とは言え、マリアはまだヨセフと結婚に至っておりません。
婚約中の身の娘が、子を宿す・・・これはこの当時のユダヤに於いては、姦淫という重い罪と見做されていました。人の目から見れば婚約者を裏切り、他の人の子どもを宿したとして、当時は石打の刑、死刑に見做される罪です。マリアはヨセフを裏切ってなどいませんでしたが、周りから見れば、マリアは死刑に価するような罪人とされてしまう、天使がマリアに告げたことは、そのような出来事が起こる可能性のあることの、恐ろしい報せだったのです。そのことを天使は「あなたは恵みをいただいた」と告げているのです。
 マリアは神から選ばれて、神の子の母とされようとしている。しかし、人間的な目で見るとこの出来事は、マリアを死と隣り合わせにさせること、マリアに苦しみを負わせることに他なりませんでした。
 しかし天使は言葉を続けます。「神に出来ないことは何一つない」と。
 天使の語る出来事に戸惑いながらも、静かに考えていたマリアは、このすべての言葉を信じました。自分の身の上にこれから神が起こそうとされていることを、自分の身に起こることが予測される苦しみも、すべては神の御心の中にあるのだと、信仰をもって受け入れました。そして申しました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」。

 イエス様の父となるヨセフがこの出来事を聞いた心の様子は、マタイによる福音書の1章に記されています。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」と。
 先ほども少し触れました、新約聖書外典―新約聖書の時代の書物ですが、聖書には入れられなかった文書―のひとつである、「ヤコブ原福音書」には、実にマリアとヨセフの、この出来事を巡る葛藤と言いますか、修羅場とも思えることが赤裸々に記されています。ヨセフはマリアを激しく問い詰め、マリアが激しく自らの潔白を語る姿です。おそらくそのようなことが本当にあったのではないか、と思わせる記述です。
 しかし、聖書は二人の激しい言い争いには目を向けず、愛する婚約者から裏切られたと思える出来事を前にした、ヨセフの激しい孤独に心を向けさせます。
愛する婚約者マリアが、自分とは関係の無い子を宿したことを告げられたヨセフの葛藤を聖書は淡々と静かに語ります。
ヨセフから見れば、マリアが自分を裏切ったことは明白に思えます。そしてヨセフが騒ぎ立てたら、マリアはそのまま死刑になります。
ヨセフは神を信じる正しい人、心の安定した心のまっすぐな男性だったのでしょう。裏切られたと思える悲しみの中でも、マリアが何とか死刑にならないで済む方法を考え、「ひそかに縁を切ろう」と決心をしました。そんな苦悩の中にあっても、心の優しいヨセフに主の天使が夢に現れて告げたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と。
 ヨセフは夢で天使に語られたことを信じました。そしてマリアと結婚をして、自分とは血の繋がりの無い聖霊によってマリアの胎に宿った子、マリアの産む子の父となることを決断したのです。

 神が地上に於いて、神の御子の父母になることに選ばれたマリアとヨセフ。二人に与えられたこの出来事は、初めから混迷に満ち、信仰の試される「試練」と言える出来事でした。なぜ、神の御子がこのような複雑な生まれ方をなさったのだろう?と思います。
この後イエス様は、ユダのベツレヘムの馬小屋という貧しさの極みの場所でお生まれになられます。その知らせを最初に受けたのは、貧しく羊の世話を24時間休み無くしなければならないがために、ユダヤ人たちからは「罪人」と呼ばれ、侮蔑をされていた羊飼いたちでした。
 また、お生まれになられたイエス様は、ユダヤの王ヘロデに命を狙われ、マリアとヨセフは、エジプトに避難し、数年を過ごすことになります。次から次へと、イエス様の誕生の物語には苦労がつきまとったのです。まるで、世の罪と暗闇を象徴するかのように、マリアとヨセフには、イエス様の誕生に纏わる困難が重なり、絶えず死にさらされ、しかし死の縄目をかいくぐるように、マリア、ヨセフ、そして幼子イエス様は命を神によって守られ、すべての困難を乗り越えて行ったのです。
マリアとヨセフは、ひとつひとつの出来事が起こる度に恐れ戸惑ったに違いありませんが、しかし、困難を通して、「神が共におられる」「神は必ず救いだしてくださる」ということを知るようになっていったに違いありません。神の子を宿すということは、困難を通して信仰を、神への全き信頼を深める出来事でもありました。
 
 私たちの人生。誰の人生にもまったく苦労の無い歩みはないことでしょう。どうしてこんなことが起こるのだろう?と思えることが起こったり、人の無理解に苦しみ、またヨセフが一時マリアに裏切られたとしか思えない出来事に苦しんだように、人に裏切られる悲しみや苦しみ、激しいまでの孤独を味わうこともありましょう。私自身も、そのような思いに苦しんだ年月があったことを思い起こします。混乱と混迷と悲しみ、試練。それは世に生きる私たちが誰しも、まことの恵みを知るに至るために、何らかの形で経ていかねばならない事柄なのかもしれません。
 しかし、主なる神は、世の悲しみや苦悩を持ちながら生きる私たち人間を憐れまれました。神が人となられた、これは世の人間を罪から救うため。このことが何より一番の大きなことでありましたが、それと同時に、神は人間がこの人生に於いて経験する傷みや苦しみ、悲しみを、お見過ごしになることがお出来にならなかったからでもあるのです。

そして遂に神の御子イエス・キリストはそのような人間の傷みと混迷の只中にお生まれになられました。そして人間として多くの苦労をなさり、人間の傷みをその身をもって知る日々を送られました。イエス様に従う弟子たちですら、イエス様を本当に理解することなく、弟子たちの無理解の中、イエス様は悲しみ苦悩されたことが福音書には記されています。また、イエス様が逮捕されるときには、すべての弟子たちはイエス様を裏切って、見捨てて逃げてしまいました。
 イエス様は世の私たちの経験する悲しみや苦悩を、すべてその身で体験され、すべての人に見捨てられ、そして、その生涯の終わりは、罪が無いのに、無実のままで、十字架という死刑とされ、人間としての苦しみの極みを味わわれ、死なれたのです。
 それは、私たちすべての人間の苦悩を、神がご自身で味わわれ、すべての人の苦しみを共有する、すべての人、苦しみ悩み、悲しむ人の友となるためでありました。
 
 さらに、イエス様の十字架の死は、死では終わりませんでした。
 イエス様は十字架の死から3日後に復活されました。死の暗闇を打ち破り、復活され、その姿を、イエス様を裏切って逃げてしまった弟子たちに顕されました。そして40日に亘って、新たに弟子たちに多くの教えを為さり、弟子たちの見ている中、天にそのままの姿で上げられて、雲に隠れて見えなくなりました。今、イエス様は、復活され、天の父なる神の御許におられます。そして、ご自身の霊であられる聖霊を、絶えず私たちのもとに送ってくださり、守り導いていてくださいます。

 そして、イエス様が死を打ち破り復活されたように、信じる私たちにも死を超えたまことの命を与える道を拓かれました。イエス様のご復活、それこそが、世の死が命に変えられる大逆転でした。
またさらにイエス様の復活の出来事は、私たちのこの世の問題に対する、新しい道、新しい命が示される出来事でありました。
私たちが苦しむ時、イエス様はその苦しみを知っておられます。私たちが悲しむ時、イエス様はその悲しみを知っておられます。私たちが傷むとき、その傷みをイエス様は知っておられます。そして、私たちと苦悩を共にしてくださり、支え、守ってくださいます。

今、私たちがこの世を生きながら、時に悲しみ、苦悩し、落胆し、どうしようもないと思える状況に陥ることがあったとしても、それが私たちにとって先が見えないと思えるような、死にも匹敵するようなことであると思える出来事であったとしても、私たちがイエス様を、ただおひとりのまこと神を信じる信仰に立って、救いを信じて希望を失わず生きる時、必ず新しい、神が共にある光の道が与えられます。
これこそがイエス様のお誕生に纏わる出来事、両親となったマリアとヨセフの苦悩、イエス様ご自身が命の危険にさらされ、さまざまな混迷の中に起こったことの意味なのです。世は未だ不完全です。神は不完全な罪の世を憐れまれ、世の苦しみから私たちの苦しみから救い出すために、今も働いておられます。世の苦悩や混迷の中にこそ、神は大胆に介入される、このことを、イエス様のご降誕に纏わる物語は伝えているのです。
私たちには、たとえ世で苦労があっても、混迷や苦悩を超えた、まことの平和の道が、イエス様を通して、必ず備えられているのです。

イエス・キリスト、平和の君。世の暗闇を突き抜けるまことの光。
このお方が、私たちの只中に来られました。イエス・キリストのおられるところ、そこには私たちにとってのまことの喜びと平和があります。混迷に光を、新たな命を与えられるまことの道が、世の苦しみ、人の無理解を超えて、神が共にある、人々が互いに愛し合う、新しい命の道が拓かれてゆくのです。
このお方を、まことに信仰をもって、私たちのうちにお迎えしたいと願います。