「互いに足を洗い合いなさい」(2019年1月13日礼拝説教)

イザヤ書52:13~15
ヨハネによる福音書13:1~17

 すべての造り主であられるただおひとりの神が、この世に人として降られお生まれになられた。これが、クリスマスの出来事でした。何故そんなことが起こったのか。それは、世が罪にまみれ、神は人間が罪の故に滅び行くのを黙って見過ごすことがお出来にならず、また貧しさや病のため、多くの人が苦しんでいるのを、見て見ぬふりなどお出来にならず、神自らが人間に対する激しいまでの愛の故に苦しまれた末に、神自らが、へりくだられ、すべての人の罪や苦しみをその身に引き受ける代価となるために、贖いとなるために、高き天より低きこの地に飛び込まれたのです。それが人となられた神・イエス・キリストであられました。
 神の御子はその時代の豊かな人々の中ではなく、貧しい庶民としてお生まれになり、30歳の頃まで大工として働かれ、30歳の頃からおよそ3年間、神の国を宣べ伝えるために、故郷のガリラヤを中心として、弟子たちと共に活動をされました。
 今日の御言葉は、そのご生涯の最後、所謂、最後の晩餐と言われているところです。

この13章からヨハネによる福音書は第二部に入ると言われています。この日、この直後、イエス様は捕らえられ、裁判を受け、翌朝、十字架に架けられることになります。13章から18章という長さをかけて、この晩餐の時から次の日の明け方までの、10時間程度のことが記されているのです。
1節にこの時が「過越祭の前のことである」と語られますが、過越祭というのは、旧約聖書出エジプト記12章で、エジプトで奴隷であったイスラエルの民に、主なる神がエジプトを脱出することを命じられた時、まず傷の無い雄の小羊を屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗り、そしてその夜、屠った小羊の肉を火で焼いて食べなさい、ということを命じられました。その夜、主なる神がエジプトの国を巡り、人も家畜も、すべての最初の子を打つ=殺されるという災いを起こすというからです。しかし、小羊の血の塗られた家は、神の民のしるしとなり、その災いから逃れられることとなりました。かくして、そのことは起こり、屠られた小羊の血によって命を守られたイスラエルの民は、その後すべてを神に導かれて、奴隷であったエジプトを脱出した、という旧約聖書最大の救いの出来事を記念する、イスラエルの三大祭と言われる中でも、最も中心的な祭なのです。

ユダヤ人の一日は夕方から始まりますので、過越の祭の始まる前の日の昼というのは、私たち日本人の感覚からすれば、その日の昼ということになります。昼に神殿で屠った羊を、祭の始まった夜に食べるのが過越の食事です。他の三つの福音書によれば、この最後の晩餐と言われる食事は、過越祭の食事でした。しかし、ヨハネによる福音書だけは、この日程が一日前倒しになっており、最後の晩餐と言われる食事は、13章の1節にありますとおり「過越祭の前のこと」とされています。
他の三つの福音書の認識が正しかったのか、ヨハネが正しかったのか、分からないのですが、ヨハネによる福音書が最後の晩餐が過越祭の前の日の食事とされていることには、独特の意図があります。覚えておられますでしょうか。1章で、洗礼者ヨハネがイエス様が来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語っていたこと。
ヨハネ19章13節以下に、ピラトがイエス様を十字架刑に言い渡す時刻は、「過越祭の準備の日の、正午ごろであった」とあります。つまり、ヨハネ福音書では、イエス様は過越の食事で食べられる小羊が神殿で屠られる時刻に十字架に架けられたことになっているのです。それは、イエス様の十字架が、世の罪を取り除く、屠られた過越の小羊としての犠牲の死であったということを、ヨハネによる福音書は殊更に強くメッセージとして語っているのです。そしてこの時の食卓は、過越祭の前の日の食卓として見做され、翌日の昼、過越祭が始まる前の昼に、イエス様は十字架に架けられ、過越の小羊として、すべての人の罪の贖いとして死なれた、というのがこの福音書の理解なのです。

 さて週報裏面にモノクロで分かり難いと思いますが、一枚の絵をお載せしました。これは、フォード・マックス・ブラウンという18世紀のイギリスの画家が描いた、「ペトロの足を洗うキリスト」と名付けられた絵です。
 十字架に架けられる時イエス様は33歳頃だったと言われていますが、イエス様は低くひざまづき、腕の筋肉を盛り上がらせて、一心にペトロの足を洗っています。周りにいるのは12弟子たちで、左端は、恐らくユダ。鋭い興味津々の目つきでイエス様がペトロの足を洗うのを見ながら、次は自分だというように、草履の紐をほどいているように見えます。その他の5人の弟子たちの多くは、イエス様がペトロの足を洗うことを見るのが耐えられないという顔をしたり、それぞれの表情で、ペトロの足を洗うイエス様を見つめています。
ペトロの年齢は分かりませんが、恐らくイエス様とそう年は変わらない。一説によれば、ペトロはイエス様と同じ年、いえそうでなくても、イエス様を師と仰いでいるのですから、イエス様よりも年下だったのではないかと思われるのですが、それにしても、この絵画の中のペトロはひとり年老いているように見えます。神は白髪に近く、顔には生きて来た年輪、皺が深く刻まれています。背は丸く、身を震わせるほど心を昂らせているように見え、手は祈りの姿勢で、一心に力強くペトロの足を洗うイエス様を、何と形容してよいのか分からない表情で見つめている。足は無防備です。
私の解釈ですが、この絵のペトロは、年老いて殉教をする直前のペトロだったのではないか、年輪を経て、多くの苦難を経て、ペトロは遂に、キリストが自分の足を洗ってくださった意味に身を震わせるほどに気づいたのではないか。イエス様はペトロに「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分なるようになる」(7節)と言われました。この絵のペトロは、イエス様の言われる「後で分かるように」なったペトロの姿であり、「その時」を回想しながら、キリストが足を拭ってくださった意味を、その愛を、人生の終わりに身を震わせるほどに気づいた姿なのではないか、そう思えてならないのです。

過越祭の前の夜、イエス様は「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟」られました。これまで「わたしの時はまだ来ていない」と言われていたけれど、遂にその「時」が来たのです。主はご自身の「時」が来て、ご自身が苦しみ死に渡されることを、覚悟しておられました。そして、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」というのです。ご自身の死を、それも痛み苦しみの十字架の死を覚悟してのイエス様の思いは、世の弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた、愛の極みまで愛し抜かれたと語られるのです。
「世の弟子たち」とは誰のことでしょうか。勿論、この時イエス様と共にいた12人の弟子たちでありましょう。それと共に、世にあって、イエス様に従う者たちのすべて。それは、今を生きる私たちも含めての弟子なのではないでしょうか。

 この時、この後イエス様を裏切り、ユダヤ人たちの手に引き渡す、イスカリオテのユダも、ここに居りました。この時ユダは「イエスを裏切る考えを」既に抱いていたことが敢えて語られています。弟子たちのさまざまな思惑が、人間の罪が、この場にあったことがうかがえます。弟子たちはまだイエス様の本当の思いというものを理解をしてはおりませんでした。他の福音書では、この期に及んで「自分たちの中で、誰が一番偉いのか」などと言い合っているような愚かな弟子たちでした。
しかし、イエス様は、そんな世の弟子たち―世というのは、ギリシア語でコスモス。混沌とした罪の世を表す言葉です―を愛して愛し抜かれたのです。さらに申せば、ここにはユダも居るのです。罪の世の罪人を愛し抜かれたのです。
イエス様が「愛して、この上なく愛し抜かれた」愛とは、どのような愛であったのか。それがこの日の出来事でありました。

イエス様は、「父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとへ帰ろうとしていることを悟り」、食卓の席決意を込めたように立ち上がられ、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手拭いで拭き始められました。

「シモン・ペトロのところに来ると」とありますので、他の人から順番に足を洗っていただいていたのでしょう。「客人の足を洗う」ということ、これは当時奴隷の仕事でした。奴隷が主人に仕える行為として、「足を洗う」という行為が為されていたのです。また、奴隷の居ない家では、子どもたちが食卓に着く両親の足を洗ったと言います。足を洗うという行為は、愛の業でもあるのです。
 ペトロにとって、イエス様は尊敬すべき自身の師、先生でありました。その方が、奴隷の為す行為を自分にしようとされている。
自分の番が巡って来て、ペトロは申します。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と。イエス様は言われます。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と。
それに対し、ペトロは申します。「わたしの足など、決して洗わないでください」と。このペトロの言葉は、イエス様の為さろうとすることを理解しようとしない、私たちすべてのイエス様の御業に対する拒絶の態度の象徴でありましょう。と同時に、彼の中にはイエス様の最側近の弟子であるという自負があり、また他の弟子たちに示さなければならない手本のようなもの、ここでは謙遜の見本のようなものを自分に委ねられているという思いもあったのではないでしょうか。まさか、師であるイエス様が自分の足を洗うなどとんでもないこと、と尤もらしい謙遜な態度を示すことは、ペトロにとって皆に見せるべき態度と思われたのではないでしょうか。
それに対しイエス様は答えられます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。
 その言葉を言われて、ペトロは一転して貪欲なことを申します。「主よ、足だけでなく、手も頭も」と。するとイエス様は言われるのです。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」。
「水」「洗う」ということ、聖書、殊更にヨハネによる福音書に於いては特別な概念です。1章では洗礼者ヨハネの水の洗礼が語られ、2章では婚礼の席で、イエス様が水をぶどう酒に変えられたしるしが語られています。3章ではイエス様は、ユダヤ人の議員であるニコデモに、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃり、水と霊を通して、古い人間が死に新しい人間が生まれるということを語られました。4章ではサマリアの女とイエス様の井戸端での出会いがあり、イエス様は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われ、7章からは水の祭でもある「仮庵の祭」での出来事について長く語られています。
 そして「水」と言いますと、聖書に於いて、すぐに思い浮かぶのは、ここにおられる多くの方が既に受けておられる洗礼ではないでしょうか。ペトロの洗礼については聖書は語りませんが、弟子たちがイエス様に代わってヨルダン川で人々に洗礼を授けているという記述もあるくらいですから、既に洗礼を受けていたに違いありません。ペトロは罪の悔い改め洗礼によって体を洗われ、全身が既に清くされている。まだ、キリストは十字架に架けられておらず、復活もまだされておられない。私たちキリスト教徒にとって洗礼とは、イエス・キリストの十字架との関わりがなければ成り立たないものですが、ペトロがこの時受けていた洗礼は罪の悔い改めの洗礼であり、十字架とは関わりはまだない。しかし、イエス様は、十字架と復活の後の洗礼と、ペトロの受けていた洗礼を、この時結び合わせながら語っておられると思われます。そして言われたのです。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と。
 尚、さらに「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」と、この後、御自分を裏切ろうとしているユダのことをイエス様は語られますが、ユダとの関わりについては、恐らく2月一週に詳しく語らせていただくつもりですが、全身を洗われ、さらに足も洗っていただいた者であっても、深い罪に陥る者もいる、脱落する者もいる―このことを、私たちは戒めとして心に留めるべきだろうと思います。

それにしても「体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」これはどういうことでしょうか。
イエス様は、奴隷が主人や客人に仕える行為である「足を洗う」ということを、敢えて弟子たちに自ら行われました。それは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」行為でありました。イエス様は、へりくだられ、すべての世の弟子たちに仕える姿を表さたのです。
神は人として世に降られ、十字架の上で死なれた。イエス様の十字架、それは、すべての人の罪をその身に帯びられた犠牲としての身代わりの死。過越祭の屠られた小羊としての死、その死がすべての人の救いとなる死でありました。神ご自身が、身を低くし、へりくだられ、奴隷のように世のすべての弟子たちに仕えられた、神が私たち人間のために、命を捨てて、仕えられ、愛を示されたのです。
イエス様の謙遜とへりくだり、それは、ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と、師から足を洗われるということに対し、謙遜のそぶりを見せた、そのような見せ掛けの謙遜ではありません。
フィリピの信徒への手紙2章に次のように語られています「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6~8)
イエス様が世に来られたということ、それは「自分を無にして、僕の身分となり」、神と人とに仕えられたのです。そこには、どこにも自分自身の誉れは無い。世の一番低い低いところまでキリストは降られ、すべての人の足を洗われたのです。
私たちは、この今もイエス様に足を洗っていただいています。イエス様の十字架を通して、私たちは己の罪を知り、罪を悔い改め、過越の小羊であられるキリストに贖われ、私たちは罪に死に、新しく生きる命をいただいて、洗礼を受けてここにいます。また、それをいただこうとして、ここに居ります。そのような者たちの足を、イエス様は今も洗い続けてくださっている。今も私たちに身を低くして仕えていてくださいます。

そのようにイエス・キリストによって全身を洗われ、救われ、新しくされた者たちの共同体、世にある教会、主が中心におられる交わりは、互いに足を洗い合う、仕え合う交わりです。主は「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と言われました。
このことを、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙12章で次のように語っています。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手をすぐれた者と思いなさい」と。
イエス様が模範を示されたように、私たち、主によって洗われ、贖われ、新しい命をいただいている者たちとして、キリストに倣い、愛をもって互いに仕え合い、互いに重んじ合う、まことの謙遜を身につける者でありたいと願います。そして、この教会がイエス様に足を洗っていただくほどに、「愛して、愛し抜かれている者たちの群」として、祝福のうちに成長していきたいと心から願います。
そしておひとりおひとりが、小羊なるイエス・キリスト、命を捨てるほどの神の愛を受けている者であるということを、今一度、心に刻みたいと願います。