イザヤ書57:18~19
ルカによる福音書24:13~35
イエスさまと共に3年間教えを受けつつ生きた弟子たちは、本当に幸せだと羨ましく思うことがあります。お側に居て、その顔を見て、語る言葉を直接聴き、語り掛けられ、また語りかけ、その体に触れることすら出来た。イエス様の言葉を聴いて、いつも心は燃えて、希望に満ちていたのではないでしょうか。このお方こそが、聖書に預言されていたメシア・救い主なのだ。私たちはその方のお傍に居る――
そして大勢の群衆がホサナホサナと棕櫚の葉を持ち、それを敷き、王の入城さながらエルサレムに入場されたイエス様のお傍で、王様の側近になったような思いだったのではないでしょうか。
しかしその数日後、事態は一転し、群衆は豹変してイエス様を憎み、イエス様は逮捕され、ローマの政治犯の極刑としての十字架に架けられ、死んでしまわれたのです。その時、弟子は皆、イエス様を見捨てるがごとく去ってしまいました。それまでお傍に居ることが嬉しく誇らしかったのにも拘らず、一瞬にして自分がイエス様の仲間だと思われたくない、思われたら自分も捕まえられてしまうと、逃げ、隠れ、恐れをもって数日を過ごしていたのです。
そして今日の御言葉は、十字架から三日目の朝、女性たちが空になった墓を見た、その同じ日の夕刻の出来事です。イエス様の二人の弟子は、墓は空だった、イエス様は復活されたのだと天使が語ったという話を聞いたけれど、信じることが出来ないまま、エルサレムを出て、そこから60スタディオン―およそ11キロ―離れたエマオという村に向かって歩いていました。そこに滞在していた家があったのでしょう。
ひとりは、クレオパという名の男性でした。12使徒ではありませんが、イエス様にずっと従っていた人のようです。もうひとりは、名前も性別も分かりません。
ふたりともイエス様が逮捕された時、蜘蛛の子を散らすように逃げた人たちだったに違いなく、イエス様を裏切り、イエス様のもとから去ってしまった人たちです。
ふたりはイエス様のお傍で絶えず教えを受けておりました。しかし、その主の墓が空だということをその朝、婦人たちを通して聞きました。でも、彼らは信じることが出来なかったのです。
そして、エルサレムから離れエマオへ歩きながら、この数日に起こったことを思い起こしつつ、議論し合いながら歩いていました。彼らは失意の中にいました。それまで持っていた燃えるような心、希望は潰えてしまい、挫折感とやるせなさ、罪悪感、孤独、さまざまな思いを交差させながら、互いに議論しあっていたのでしょう。「議論」というのですから、イエス様のことをあれこれと、論評をしていたりしていたのではないでしょうか。
すると、復活されたイエス様が、彼らと共に歩き始められました。しかし、「彼らの目は遮られていて」、イエス様だとは分からなかったのです。
イエス様は問われます。「歩きながら、やり取りをしているのは何のことですか」と。ごく普通に、無邪気な旅人が見知らぬ人に話しかけるように、イエス様は弟子たちにあっけらかんと問われました。
その言葉に、ふたりは「暗い顔をして」立ち止まりました。それは、彼らの心が閉ざされていた顕れでありましょう。また後ろから語りかけられ、何も知らないような無邪気な問いかけに、鬱陶しさのようなものを感じたのではないでしょうか。
そして「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか」と呆れたように言い、ふたりは、ナザレのイエスという、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者であった人で、この人こそがイスラエルを解放してくださると望みをかけていた人が、捕らえられ十字架に架けられて死なれたこと、しかし、今朝、婦人たちが墓に行ってみると遺体を見つけられず、天使たちが顕れ「イエスは生きておられる」と告げたということを聞き、仲間も見にいったが、婦人たちの言葉のとおり、遺体は見あたらなかった、ということを語りました。
この言葉で、彼らはイエス様を「預言者だった」と過去形で語っています。彼らにとってイエス様は救い主として語られるのでもなく、また過去の人として語っています。
それをじっとイエス様は聴いておられたのでしょう。そして「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったこともすべて信じられない者たち、メシアは苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言われ、旧約聖書のモーセとすべての預言者のこと、そして聖書全体に亘って、御自分、イエス様のことについて語られていることを説明されました。旧約聖書は、イエス様を証しするために、その前触れとして書かれた書物であるということを、イエス様ご自身が語られたのです。
一行は目指す村、エマオに近づきましたが、イエス様はなおも先へ行こうとされている御様子でした。しかし、二人はもっと話を聴きたかったのでしょう。また離れて行こうとする「その人」イエス様と離れたくなかった。今離れたら、心に穴が開いてしまう、そのお方が誰かを知らないけれども、さらに先へ行こうとするそのお方の後姿に、どうしようもない寂しさを感じたのではないでしょうか。「今この人と離れたくない」と、寂しさと共に沸き起こる願いが生じたのではないでしょうか。
そして「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理やり引きとめたので、イエス様はその言葉を受け入れられ、共に泊まるために家に入られました。
ここまでのことを読み、不思議なことはふたりが共にいる人がイエス様だと気づかなかったということです。ルカは「目が遮られていて」イエス様だとは分からなかったと語っています。マルコで同様のことが短く語られているところでは、「イエスは別の姿であらわれた」と語られています。そのようなことから、復活の姿はどのようなお姿だったのだろう?といろいろなことが語られてもいるのです。イエス様の復活された姿というのは、どのようなお姿だったのか。正直分かりません。
使徒パウロはコリントの信徒への手紙一15章で、「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」~さらに「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」と語っていますが、イエス様の復活の体というのは、霊の体。でも、復活の場となった墓では巻いていた亜麻布と顔を覆っていた布が置いてあったということですので、非常に不思議です。しかしその体はパウロが言うところでは、「蒔かれた」ということになるのでしょう。そして、十字架に架かられて死なれた体が蒔かれて、蒔かれなければ起こり得なかった新しい朽ちない霊の体として復活をされた。その体は、姿は、目が開かれた人、信じた人には分かる姿であった。私はそのように理解をしています。
またこの御言葉の中の弟子たちとイエス様の「行動線」と言うのでしょうか。それが非常に印象的に描かれていることを思うのです。
その「行動線」から見えてくることは、語られるこの二人の人の出来事にとどまらない、現代に至る、教会と私たちとイエス様、という関係の中でも理解出来る行動線であると思えるのです。
イエス様は、十字架を経て、心が燃える思いも希望も潰えて、挫折感とやるせなさ、罪悪感、さまざまな思いの中、エルサレムから離れていく弟子たちの後ろから顕れて、彼らと「共に」歩き始められました。さりげなく顕れて、共に歩き、弟子たちの思いやつぶやきに静かに耳を傾けておられました。また、イエス様の存在に気づき、立ち止まり振り向いた弟子たち。その時の顔の暗さは、神から離れようとしている人間の姿、エルサレム、主の十字架の場所、まだ同胞の弟子たちが残り、蹲っている場所から離れようとする姿、主の共同体から離れて行こうとする人の姿だったのではないでしょうか。
イエス様は自ら声を掛けられ、離れて行こうとするふたりと共に歩いて行かれます。教え、諭しながら。打ちひしがれ、悲しみと動揺の中、弱り、離れようとする人と共に、イエス様はその心に寄り添いながら、また教えながら共に歩かれたのです。
そして、彼らの泊まる家を越えて、イエス様はまだ先に歩もうとしておられました。ふたりの目指すところ、人間の目当ての場所を越えて、イエス様は行こうとしておられた。どこを目指しておられたのは分かりません。しかし、イエス様の、神の思いは、人間の思いを超えて、ある、のです。
しかし、イエス様は、ふたりの無理にイエス様を引き止める思いと言葉に促され、弟子たちの入る家に入ってくださいました。弟子たちの熱心は、イエス様のお心を変えられたのです。私たちの熱心なイエス様への愛、懇願に、イエス様は立ち止まってくださり、私たちの居ようとするところに、イエス様は共に居てくださるお方なのです。
そして、その家で三人は食卓につきました。
そこで「その人」イエス様は、食卓のパンを裂いて、ふたりにお渡しになられました。その姿は、最後の晩餐に於いて為されたパン裂きを、また5000人を2匹の魚と5つのパンで満腹にさせたことを髣髴させるものでした。そしてそのパンを渡された時、彼らふたりの目は開け、そのお方がイエス様であったことが分かったのです。しかし、それと同時にイエス様の姿は消えて見えなくなってしまわれたのです。
ふたりはエマオへの道で、共に歩かれる「その人」の聖書の解き明かしを聴いていた時、暗かった心が、燃えるような喜びに満たされていたことを思い起こし、「道で話しておられるとき、また聖書の説明をしてくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」、イエス様のお傍に居た時のあの心が燃えるような体験が、蘇っていたではないかということを語り合い、イエス様の復活は本当にあったのではないかと心動かされ、すぐにエルサレムの弟子たちのところへと戻りました。
弟子たちの群から離れ去ろうとしていたふたりは、復活の主イエス様の執り成しによって、共同体に戻って行ったのです。
そこでは、11人のイエス様のユダを除いた弟子たちとその仲間たちが集まって、本当に主は復活され、シモン・ペトロに現れたと語っていました。ルカはペトロがどのようにイエス様の復活に出会ったのか書いておりませんが、ペトロもこの日、復活の主にお会いしていたのです。
目が開けた時、ふたりは「心が燃えていたではないか」と言い合いました。「心が燃える」、喜びに満たされる、それは、イエス様が共におられるしるしなのではないでしょうか。
今、イエス様は地上にはおられません。今は天に昇られ、天の父と御子キリストのもとから、神の霊であられる聖霊が送られ、私たちを直接励まし、慰め、導いて下さっておられます。
このエマオの途上のふたりの弟子たちの出来事というのは、イエス様は復活をされたばかり。まだ天に昇っておられず、聖霊降臨もまだ起こっておりません。この時イエス様は復活の体、朽ちない体、瞬間に消えてしまわれたりする不思議な体を持ちつつ、さも当たり前のように弟子たちに接せられておられます。そして、弟子たちの心を燃えたたせるような喜びに包み込んでおられる。
この出来事は、この二人の出来事であり、それと同時に現代の私たち、信じきることが出来ず迷い、人生の問題や挫折、失意、悲しみの中で、あるべき場所から離れてとぼとぼ歩いている私たちの出来事でもあるのではないでしょうか。
あるべき場所を見失い、歩く道に、イエス様は後ろから来られる。声を掛け、共に歩いて下さる。教え、戒め、励ましてくださる。そのような姿にも読めないでしょうか。
今はイエス様は天におられ、イエス様がそのお姿で私たちに語りかけられるということはありませんが、天の父とイエス様から地上に与えられている聖霊によって、イエス様が共にいてくださるということが、私たちの現実の中に起こっているのです。イエス様は聖霊によって、今、私たちの同伴者として、悩みの中にある私たちを見つけ、近づき、心に語りかけ、執り成しをしてくださっておられます。
聖霊によって、私たちも、2000年前、イエス様と共にいた弟子たちがそうであったように、「心が燃える」経験をし得るのです。それは心が昂ぶるような興奮状態とは全く違う。仮令、置かれている状況がよくないことであっても、悲しみの中にあっても、挫折感の中にあっても、静かに心の奥底から湧き上がるような生きる希望、力です。
このふたりは、挫折感と悲しみ、仲間から自ら離れてゆく道すがら、復活のキリスト・イエスに出会って、「心が燃える」体験をしました。それは、イエス様のお傍に居た時に味わっていたのと同じ、不思議な喜びであったことを彼らは感じ、「あの人がイエスさまだった」と気づいたのです。
このことに関して、ジョン・ウェスレーというメソジスト教会の創始者である18世紀のイギリス人は、英国国教会司祭としての自分自身の伝道の働きに挫折をした失意のうちにあった中、ある集会に行き、そこで語られたルターのローマの信徒への手紙の講解を聞いて、「不思議と心が燃える」経験をしたと言います。
ウェスレーがその時聞いた言葉は、何度も聴いたことのある言葉と同じだったかもしれない。しかし、その時、ウェスレーは「心が燃えて」、目が開かれたのです。それまで閉ざされていた、また耳に入っていても心に届かなかった御言葉が、聖霊によって「心が燃」やされて、信仰の目が覚醒されて行ったのです。
今、イエス様は聖霊によって、また御言葉そのものとして、現代の私たちに、深く深く関わっていてくださり、私たちを守り、支え、導いていてくださるのです。
また、教会の聖餐式を髣髴させるパンを裂くという出来事によって、ふたりの目が開かれたということ。聖餐式は、目に見える御言葉とも言われています。教会は主の晩餐、聖餐式を重んじます。聖餐式は主イエス・キリストが定められたものであり、パンは十字架の上で裂かれたパンを表し、ぶどう汁は、イエス・キリストが十字架の上で流された血を表します。私たちは、イエス・キリストの十字架の出来事を、キリストが成してくださった救いの御業を体に刻み付けるために、絶えずキリストの復活の命に生かされていることを覚えるために聖餐に与っています。
この時、イエス様がパンを裂かれた時にふたりの目が開かれたということは、私たちも聖餐式を通して、深くキリストの恵みに目が開かれ得る。聖餐式は、目に見え、また体で体験するイエス・キリストそのものであるということなのです。
御言葉、聖礼典、そしてすべてを通して働かれる聖霊。これらによって、今も、イエス様はご自身を私たちに証ししてくださっておられます。
A神父という方がおられますが、この方は、このエマオの出来事で、イエス様がどこに消えたのかということについて、「弟子たちに現れたイエスが姿を消した先はパンである」と書いておられました。
最後の晩餐の席で、「これは私の体である」と、パンを裂き言われたイエス様。
この時、イエス様がパンの中に消えられた。面白い理解です。カトリック教会の理解ですが、イエス様は、聖餐式のパンの中におられるとは。そう思いますと、私たちが聖餐に与る度に、イエス様は私たちにご自身を献げてくださっているのだということ、私たちはまことの命のパンをいただいているということが、リアルなこととして受け取れるように思います。
イエス様は十字架で死なれ、今も私たちにその命を与え続けていてくださるお方なのです。
イエス様は、今、私たちには見えません。しかし、今も尚、弟子たちと共に歩まれた時のように、御言葉、聖礼典、そしてすべてに於いて働かれる聖霊によって、私たちひとりひとりと深く深く関わっていてくださるのです。
共に居て下さる主イエス。主の命を捨てられるほどの主の愛に生かされている者として絶えず静かに心が燃える喜びのうちを生きるものであらせていただきたい、そのことを強く思います。