ダニエル書7:13~14
使徒言行録1:1~12
先々週、ルカによる福音書を読み終えました。
その最後は、復活のイエス・キリストが弟子たちに「高い所からの力」=聖霊を送られることを語られ、ベタニアの辺りで、手を上げて弟子たちを祝福され、祝福されたままの姿で彼らを離れ、天に上げられた。そして、弟子たちは大喜びでエルサレムに帰り、それまで恐れて外に出なかったのに、町の中央、神殿の境内に出て、神をほめたたえていた、人目に触れることを恐れていなかった、そこでルカによる福音書は終わりました。
今日から使徒言行録を時々読んで行こうと思っています。週報にも記しましたが、使徒言行録は、ルカによる福音書の続編と言ってよい書物です。
書き始めは、「テオフィロ様、わたしは先に第一巻を著して」とありますが、新約聖書99ページ、ルカによる福音書の書き出しのところを開けてみますと、3節に同じ「テオフィロさま」と語られています。テオフィロという人はどういう人なのか、歴史的に検証出来ないのですが、恐らくローマ帝国の高官であったのだろうと言われています。この人物に向けて、イエス・キリストを信じる信仰はどのようなものか、ローマ帝国に対し決して危険なものではないということを語ることを目的としつつ、イエス・キリストの生涯、十字架と復活、さらにその後の弟子たちの働きについて書かれた書物なのです。
このふたつの書物の著者であるルカという人、パウロの手紙にルカという人のことはパウロの協力者として3箇所名前が出てくるのですが、おそらくその人であろうと思われるのです。コロサイの信徒への手紙の中には、「医者のルカ」と語られておりますので、ルカとは医者であり、パウロと共に多くの時間を過ごした人であったと思われます。
また使徒言行録を読み進んで行きますと、途中から主語が「わたしたちが」と語られるところが出てくるのですが、「わたしたち」とは、パウロの出来事を共に居て、直接見て語るルカたちであろうと思われています。ルカによる福音書、使徒言行録は、パウロをよく知る、パウロに非常に近い人が書いたということになりますね。そういう視点で、改めてこれまで読んできたルカ福音書を考えますと、ルカによる福音書は、パウロの福音書理解、認識に近い、そのように言えるのではないかと思いました。
使徒言行録の前半はエルサレム教会とペトロのことが中心に記されています。そして後半はパウロが中心になっていきます。また「聖霊行伝」とも言われ、イエス様の十字架の時には裏切って逃げてしまった弟子たちが、復活のキリストに出会い、さらに聖霊の力によって新しい力を受けて、命を掛けて、福音宣教の働きを成していき、イエス・キリストを信じる信仰が世界に広がっていった、その変化の様を生き生きと語られています。この弟子たちの変化というのは、私たち信仰者にとっても同様の希望です。私たちは弱く、罪多き、また心が不安定な部分を持つ人間です。しかし、信仰によって、強く雄々しい者に変えられてゆくことが出来るのです。そのことを使徒言行録を読む視点として心に留めたいと思います。
そして教会の成り立ち、ユダヤ教とキリスト教の問題、さらにさまざまな信仰に関すること、迫害のこと、そのようなことを経ながら、福音が世界に広がってゆく。それらがイエス・キリストの十字架と復活以降の弟子たちの働きを通して語られる書物です。
今日お読みした1章は、ルカの最終章と重なりつつ、ルカでさらりと語られたキリストの昇天の出来事を少し詳しく語っています。
イエス様は、十字架の死から3日目に復活され、「御自分が生きていること」を数多くの証拠、例えば魚を食べて見せられる、手をわき腹に入れさせ触らせるなどなどをなさりつつ弟子たちに度々姿を現され、神の国について、弟子たちに教えられました。その期間は40日であったと語られています。復活の主の現れる様子を福音書から見ておりますと、ずっと弟子たちと寝食を共にされたというよりも、ある時現れ、ある時ふっと見えなくなり・・・そのような御様子だったことがうかがわれます。
そしてある時、食卓の席でイエス・キリストは言われました。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と。この「前にわたしから聞いた」というのは、ルカによる福音書の最後24:48で主が復活された日に言われた、「父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」という言葉を指します。そのことを再度言われたのです。
「約束されたもの」それは、聖霊。2章で語られます、ペンテコステの出来事、聖霊降臨の出来事によってそれは起こるのです。
イエス様はここでそのことを「ヨハネは水による洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われました。
ここにおられる多くの方は、水による洗礼を受けておられます。それは教会の牧師を通してなされた教会の業としての水の洗礼です。水による洗礼を、イエス様も洗礼者ヨハネから受けておられ、それを受ける時、自分よりも優れたお方に洗礼を授けることを躊躇したヨハネに対してイエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われ、洗礼をヨハネから受けられました。
また、復活のキリストご自身が、マタイによる福音書28章に於いて「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」という大宣教命令を出され、弟子たちに洗礼を授けることを命じられ、そのことが、現在の教会の水による洗礼に繋がっていきます。
水の洗礼というのは、罪の悔い改めを意味します。人間は生まれたままでは神から離されている。罪があり、罪があるままでは神と共にある命に入れられることは出来ません。罪を洗い清めるための洗礼、その意味があります。また、水による洗礼は、自分の罪を知り、悔い改めるという、私たち人間の側から、自らを認め、神の御前に願い進み出て、受けるものです。
私たちの教会では、頭に水を浸す洗礼ですが、古来、洗礼は流れる川で行われていました。イエス様はイスラエルのヨルダン川で洗礼を受けられました。水に頭から全身を浸すのです。そうして水によって罪をきれいに洗われることを意味し、また、水に沈められることは、死を意味いたします。それは罪に対する死です。罪に死に、新しく罪赦された者として生きるという意味があるのです。
イエス様はこの洗礼を「ヨハネの洗礼」と呼ばれ、さらに「聖霊による洗礼」を受けると言われたのです。
ヨハネによる福音書でも、イエス様は3章でニコデモというユダヤ教の議員に「はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と語られました。また、イエス様が水の洗礼を受けられたとき、同時に「天が裂けて、霊=聖霊がはとのように御自分に降って来るのを、ご覧になった」と語られていますので、水の洗礼を受けることによって、聖霊の洗礼も共にある、聖霊が降るのだということは言えると思います。しかし、ここでは、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と、水の洗礼と聖霊の洗礼とは別のものであるようにイエス様ご自身が語っておられるのです。そして、使徒言行録には、「聖霊が降る」「聖霊が注がれる」「聖霊を受ける」「聖霊を受けよ」という言葉が、合わせれば10数回出て参ります。
またヨハネによる福音書14章で、イエス様は聖霊は「弁護者」=ひとりひとりの傍らに立って弁護する者であると語っておられ、「わたし=イエス様が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ない。・・・その方が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」と語られました。聖霊は、イエス様が十字架と復活、さらに昇天によって、栄光を受けられた後に、弟子たちに降される真理の霊である、というのが、ヨハネによる福音書の語るところであり、聖書の語るところでありましょう。
聖霊は父、子、聖霊、三位一体なる神の第三位格。神、イエス・キリストの霊であられる聖霊。
聖書のあらゆるところから読み取ります時、聖霊の洗礼というのは、復活のイエス・キリストご自身がお授けになる、ご自身の霊である、聖霊の洗礼とはそのようにイエス・キリスト御自身から信じる者に与えられる恵みなのです。その最初の現れは、2章に於いて、突発的な、恐ろしいまでに思われるものとして現れます。
この時、弟子たちと共に食卓についておられたイエス・キリストはこの時、その驚くべきの聖霊降臨の出来事を指して「聖霊による洗礼を授けられる」と言っておられます。それを「待ちなさい」と語っておられるのです。
そして6節からは、イエス様が復活をされてから40日目のことです。
使徒たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と訊きます。イエス様は、復活をされて「神の国について話された」(3節)とありますのに、弟子たちは、復活されたキリストに出会い、直接話を伺いながらも、とんちんかんなことを言っているようです。この世的な支配を、まだ望み続けているようです。
イエス様が語られる神の国というのは、二つの意味があります。ひとつは、「神の御子キリストの到来によって、神の国は、私たちの只中=生きる現実の中に現れている」ということ。とは言え、この世の国の支配について仰っておられたことではありません。人々はイエス様をこの世の王となられることに願いを掛けていましたが、イエス様はそのようなことは仰っておられなかった。このことは、イエス様が世に人として生きておられた時から一貫しています。もうひとつは、世の命を超えた新しい天地。
弟子たちは、ひとつめの意味の「神の国は私たちの只中にある」という事柄から、「イスラエルの国の建て直し」というこの世の支配を願いながらイエス様に語っているのでしょうが、まだまだイエス様の真意というものを分かっていないようです。イエス様が語られたことは、この世の権威ですとか、支配に関することではなかった。人間というのは、どれほど物分りが悪く、自分の思いを中心にして人の話を、ましてやイエス様の話を聞いていたのかと思います。
しかし、イエス・キリストは、そんなことを頓着されず、否定も訂正もされず、真理の言葉のみを話されるのです。「父が御自身の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリア全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と。
「聖霊の洗礼」「聖霊を受ける」ということは、「力を受ける」ということなのです。神の力によって、弱い人間が新しくされる、強くされる、変えられる。これは使徒言行録のテーマのひとつです。また「聖霊による洗礼」、これから、使徒言行録を読んでいくなかで、考え、読み解いてゆく大きな課題です。
聖霊の洗礼、聖霊を受けて力を受ける、ということを語られたイエス・キリストは、弟子たちの見ているところで、そのままの姿で天に上げられました。雲に覆われて、見えなくなる、そのような姿で、キリストは弟子たちのもとから離れ去り、天に昇られました。
弟子たちは、その姿を驚くでもなく、泣くでもなく、悲しむのでもなく、ただ呆然とそのお姿を、天を見つめ続けていました。天に昇って行かれるキリスト。たくさんの絵画にも描かれていますが、そのお姿はどれほど荘厳な輝かしいお姿だったのでしょうか。弟子たちは、夢見心地だったのではないでしょうか。
信仰の世界には、時に夢見心地に人をさせるほど、人間の現実を離れたような出来事が起こることがあり得ます。神の領域のことですから、人間の有様を超えています。
熱心なキリスト教信仰を持つ人々は、時に祈りのために山に登り静まり、時に断食をして過ごす、そのようなことはあります。イエス様ご自身、時々山に登って祈られました。それは神と深く交わるために大切なことです。しかし、人間は山で断食をするだけでは生きてはいけません。キリスト教の信仰生活はそれだけでは不十分です。そのような時間というのは、特別に祝された時間となりましょうが、人間には世に於いて生きる現実があります。キリスト教信仰は、人間の生きる現実を見逃すことはなく、人間のなまなましいまでの生きる現実と共にあります。
しかしながら、弟子たちは、この時、ひととき非常に深い、宗教的な特別な状態に置かれたのではないでしょうか。復活のキリストにお会いし、人間の思いを超えた神の支配の中に、人間の現実を超えて、とっぷりと浸かったのですから。十字架で血を流し苦しんで死なれたイエス様が、復活され、さまざまなことを教えてくださり、そのままの姿で天に昇って行かれたのですから。この上ない不思議な出来事に遭遇したのですから。
すると、さらに白い服を着たふたりの人=天使が弟子たちの傍に立って言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と。
この時、天使は終末、世の終わりの時に、イエス・キリストが再び来られること、「主の再臨」を予告しました。
この言葉は、現在に至るまで実現しておりませんが、終わりの時に、イエス・キリストが、昇って行かれたのと同じ姿で、地に降りて来られるということは、キリスト教信仰の要、隠された秘儀とも言える、教理です。このことは、聖書の至るところに語られていることであり、覚えておいていただきたいと思います。
その言葉を聞いた弟子たちは、天を見上げるのをやめて、初めて互いの顔を見たのではないでしょうか。そして、ルカによる福音書の終わりによれば、伏し拝み、大喜びをして、希望に満ち溢れて、山から降りるのです。
夢見心地のような、いつまでもそのまま恍惚感に浸っていたいような山の上の出来事から、エルサレム、町に下りて来たのです。キリスト教信仰というのは、山に於いて、奇跡的な出来事だけを追い求めるものではありません。人間の生きる現実に、山を降りた現実に、人間の罪の現実に、ぴったりと張り付いたまま、神の現実が人間の現実に引き起こされてゆくのです。
これから、イエス様が目の前から居なくなられた弟子たちのなまなましい現実が始まります。人間のなまなましい現実に神がどのように働かれるのか、神の支配がどのように現れるのか、初代の使徒たちの働きを読むことによって、私たちも新たな力を受けたいと願っています。