「世とイエス」(2019年7月7日礼拝説教)

詩編69:2~5
ヨハネによる福音書15:18~16:4a

「生き辛さ」ということ、現代の多くの方の抱える社会問題だと感じています。先日、「障がい」や「病」を持って生きる方々と共に歩むことに心血を注いでおられるかつての神学校の先生と話をする機会があり、その先生が「障がいを持つ人たちの生き辛さ」という言葉を使って話してくださり、障がいを持つ方々の「生き辛さ」と共に、私たちの生きる世には絶えず苦しみがあり、「生き辛さ」があるということを思い巡らしました。
東日本大震災はじめ、多くの地震や温暖化の影響で水害などが頻発するこの時代、傷み苦しみの中生きざるを得ない方が多くおられます。またさまざまな分断が人と人との間に起こり、社会にゆとりが失われ、多くの歪みが生じてきていることを肌で感じています。
そして多くの方が低賃金の労働で苦しんでおられるということを日々ニュースで知ります。若い人には若い人の苦労があり、またご高齢の方々に於いては、心身、殊更体に生き辛さを抱えておられます。また、さまざまな差別的な言動がまかり通る社会となっています。更に世界を見渡すと、戦闘、暴力行為も含めた更に多くの困難があり、難民となる方々がおられ、生き辛さを超えた、生きることが困難な事態も多くあることを思います。
 世を生きるということは、なんと大変なことでしょう。どれだけ、世には悲しみがあることでしょうか。神はどこにおられるのでしょうか。

 しかし、私たちは、神によって世に命を与えられ、世を生きています。
旧約聖書に於いては、「世」という言葉は使われていません。旧約聖書に於いては、それは「天と地」という言葉に言い換えられるものです。世とは、神によって造られたものですが、人間の罪によって神から引き離されたところです。
私はこれまで説教の中で、ヨハネによる福音書に於ける「世」というものは良くない意味で使われているということを申し上げてきました。例えば12章31節でイエス様が語られている「世の支配者」とはサタン=悪の親玉を指しているのです。それは、終わりの時、神の裁きの時、「世の支配者であるサタン」が遂に追放されるというイエス様のお言葉です。
しかしながら、ヨハネによる福音書は、「世」という事柄、言葉を用いてさらにさまざま語っています。
「言は世にあった。世は言によって成った」(1:10)「世の光」(8:12)。そして「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3:16,17)
 神の言であられる御子イエス・キリストが世にあり、世はキリストによって成り、イエスは「世の光」であると言うのです。さらに神は「世を愛された」とまで語っているのです。「世の支配者はサタン」と聖書で語られている「世」ではありますが、神は世を、私たちの生きる、「ここ」を、御子を遣わされるほどに愛しておられるのです。

 ヨハネによる福音書は、以前にも申し上げましたが、イエス様の生きられた時代そのものを語りながらも、この福音書が書かれた紀元90年頃のキリスト教会とユダヤ教との軋轢の二重構造が織り成されながら纏められています。
 16章2節に「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」と、イエス様が語っておられますが、最初期のキリスト教会は、ユダヤ教の会堂、神殿を大切にしながら、ユダヤ教の一派と自他共に見ていました。しかし、紀元70年、ユダヤ戦争によってエルサレム神殿がローマによって崩壊し、その後80年のヤムニア会議というユダヤ教の会議に於いて、イエス様を救い主と告白する者がいれば、公式に会堂シナゴーグから追放されることが決められたのです。
 今日の御言葉は、特にそれらの福音書が書かれた時代背景と共に、イエス様を十字架に向かわせた、その時代の、イエス・キリストを信じる者たちを迫害するユダヤ人たちを「世」と呼んで具体的には語っているのです。

「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」。イエス・キリストを信じる者たち、初期の教会はユダヤ人によって憎まれ、迫害をされていました。
しかし、イエス様を信じる者たちがユダヤ人から憎まれ苦しる前に、イエス様が、さまざまな愛の業、力ある業によって、多くの人々を惹きつけることによって、ユダヤ人たちは、自分たちの権力が脅かされることを恐れて、嫉妬をして、イエス様を憎んでいたのです。
その憎むべきイエス様に連なる者であるから、世にユダヤ人たちに、イエス様を信じる者たちは憎まれているということを語られます。世にある人間が憎まれる、苦しめられることの前に、イエス様が先んじて憎まれている。すべての迫害に先んじていてくださる主がおられる。そして憎まれ、苦しむのは、既に世に属していないからだと仰るのです。そして、世に属していたならば、「世はあなたがたを身内として愛したはずである」と語られるのです。

「世の身内」とは何でしょうか。
 今日の御言葉には、「憎む」ということが多く語られています。「憎む」という気持ちに私たちは取り込まれてしまうことがあるでしょうか。全くないと言う人がおられたとしたら、それは「罪が無い」人でありましょう。しかし、「罪が無い」のは、イエス様しかおられない、というのが聖書が語っていることです。「憎む」という感情が分からない、という方がおられたならば、もしかしたら、自分のこと、自分の罪に気づいていないだけ、かも知れません。

 人間は生きているとさまざまな不条理に出くわすことがありますし、悔しい、悲しいという思いに駆られることが、誰しもあることでしょう。そして、その悔しい、悲しいという心が「憎しみ」に変わっていくことがあります。心の中が憎しみでいっぱいになり、そのことに心は囚われてしまう。そしてどうにかして、憎しみの相手を陥れたい、そのような感情に引き摺られることもあるのではないでしょうか。そのような人間関係のもつれから引き起こされる事件は枚挙に暇がありませんし、歴史を知るにつけても、人間の「憎しみ」という感情が多くの悲劇を生んで来ていることを知ります。何より、イエス様は、ユダヤ人たちの憎しみによって十字架へと向かわれることになったのですから。
 先に、ヨハネによる福音書では「世の支配者はサタンである」と語られていることを申し上げました。「世に属する」ならば、サタン=悪しき者の支配の中で、その力に翻弄されて生きて行くことになるのでしょう。「憎しみ」とは、世の領域にあるものです。
悔しさ、悲しさ、それをバネにして前を向いて現実を突き破って行く人がおられますが、その人は、「世の身内」であることにとどまっている人ではない。世をつきぬけた何かを見つめている人、既に「世の身内」ではないのではないでしょうか。世の身内とは「憎しみ」にとどまり続け、自己を正当化することに躍起になり、絶えず悪意に満たされている人の状態を言うのではないでしょうか。

また世にあるものとは、ひとつに世の権力と富。イエス様は宣教の初め、サタンの誘惑にあわれ、サタンは空腹のイエス様に向かって、「私にひれ伏して拝むならば、世の繁栄のすべてを与えよう」と誘惑をしましたが、イエス様は「退けサタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と仰り、サタンを退けられました。
 世の権力、繁栄は「世」のものなのです。
いえ、神から与えられる権威もあります。神が特別に世を憐れまれるが故に、神の御計画のもと、神の器として人を人の上に立てるということがありましょう。
また「富を築く力をあなたに与えられたのは主である」(申命記8:18)という御言葉があります。神は、世に於いて必要な富を与えられることがある。それは主に従いゆく私たちを、主が世に於いて「幸福にする」ため表されることがあるのです。神に与えられたものであるならば、神の恵みとして感謝してそれを受け、さらに「与える」、栄光を神にお返しするということに心と行いが突き動かされていくことでしょう。そのようにして神と共に、世を生きることは、神の祝福のあらわれです。世の富にどっぷり浸かっていることとは区別されるべきことです。

 しかし、神を知らず、また神を退け、世の繁栄、富こそが評価され得る価値観であると考えて、それに胡坐をかいているだけならば、自分よりも栄えていると思われる人を妬み憎み続ける。そして絶えず悪口のようなことを言い合ったりするようにもなりましょう。世にはありがちなことですが、それは世に属することです。そして世の欲望に翻弄されて、自分を脅かす存在を憎み、憎しみの増幅するままに生きている―その時、世は喜び、自分の身内として愛するのです。

 ユダヤ人たちは、旧約の選ばれた民。律法を与えられ、愛された民でした。父なる神のもとにあると自分たちで思っている人たちでした。
しかし、その主が遣わされた御子が世に来られ、ご自身を主なる神とひとつであることを語られ、多くの不思議な業、愛の業を行なわれましたが、信じなかった。それだけでなく、イエス様を憎み、殺すことを絶えず企み、遂にはイエス様を十字架に架けて、殺してしまいました。愛され、選ばれたユダヤ人たちは、いつしか神から与えられた律法を神ではなく自分たちを誇る材料とするようになり、いつしか「世に属する」「世に身内として愛される」者と成り果て、イエス様を憎み続け、十字架ヘと向かわせたのです。そしてイエス様を憎むということは、それは彼らが信じていると思っている父なる神をも憎むことでありました。

反対に「世に属していない」とはどういうことか。それは、先週お話をさせていただいた15章の前半、イエス・キリストというぶどうの木に繋がる枝は、世から既に分かたれており、世にありながら、イエス・キリストと共に、聖霊を与えられて生きていることでありましょう。
世にあって見た目には何ら世に属する者と変わりありませんが、もし、憎しみに近い感情に囚われることがあっても、キリストにつながっているならば、聖書の御言葉が心のうちに刻まれており、御言葉によって、また弁護者なる聖霊によって自分の罪に気づかされることでしょう。憎しみの心に囚われるのではなく、寧ろ、自分自身に心を向け、人を裁き続けるのではなく、自分を省みる、人を憎む自分を憎み悲しむ。そしてイエス・キリストの十字架の御前に罪を悔い改める―それは時に涙にむせぶほどのこともありましょう―そのようにキリストに結ばれてある人は、「世に属していない」のです。世に属していない者は、自分の罪を知ります。そして、聖書の御言葉は、そのような自分に何を語っているのか、御言葉に聴きつつ、自分を整えて行くことでしょう。

 しかし、世はイエス様を憎んでおりますので、イエス様と同様にイエス・キリストというぶどうの木につながる枝であるそのような「世に属していない」者を憎みます。
エレミヤ書12章に「なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺くものは皆、安穏に過ごしているのですか」という預言者エレミヤの叫びがあり、詩編37編、73編にも、同様な意味の叫びが歌われていますが、「世に属する者」は、「世に身内として愛され」、栄えることがある。
私たちの生きる世というのは、まことにやっかいな、罪深い世です。世の支配者に属する者、権力や金銭こそが最上の価値であると見做し、自分よりそれらの価値を持っていると思える人を憎み、憎悪に渦巻きながら、自らを省みることなく、飽くなき欲望に心をいらだたせて生き続ける人たちは、それなりに世の栄えを得ているように見えることがある。けれども、神に従う者たちは、迫害を受ける。苦しみを受けると言うのです。世に、世の支配者に逆らうイエス・キリストと共にある者だからです。

 それであっても、主なる神は、そのような罪の世でありますが、世を愛しておられます。ひとり子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得させるために、イエス・キリストを世に送られました。
この罪の世、悪の力が支配する世にあって、「世に属する」者として「世の身内」として世に愛されることで、世の栄えの中に生きることを得ず、さまざまな困難、生き辛さを抱えながら生きる多くの人々、その人たちのすべてを救うために、イエス様は世に来られ、世にあるすべての憎しみ、悪意、人々の罪、痛み、悲しみ、苦しみをその身に受けて、十字架で死なれました。
 今、私たちが生きるこの時代のこの世は、イエス・キリストの救いの十字架が既に立てられた世です。そこは、世にあって世にない、逃れの場です。旧約の時代、「逃れの町」という、故意にではなく罪を犯してしまった人が、そこに逃げ込んだら、生き延びることが出来ると定められた町がありました。また、罪を犯した者は、祭壇の角を掴むと罪に定められないとも言われていました。
 しかし、今この世の困難を生きる私たちに備えられているのは、神の御子イエス様ご自身が、命を掛けて立ててくださった救いの十字架です。イエス・キリストは、困難の中、さまざまな生きづらさの中、苦闘しながら生きる私たちと共におられます。イエス様は、私たちの受ける苦難のすべてに先立っておられ、すべてを知って下さいます。神の憐みは、信仰に先立ってあり、信仰へと導かれます。
そして人が罪に気づき、悔い改めたならば、喜んでご自身を、聖霊によって証しされます。主なる神は、キリストは、この世を愛し、この世の只中に救いとして立っておられるのです。ここに「私がいる」と、すべての人を招いておられます。

 十字架の御許に私たちの重荷のすべてを降ろした時、悲しみも何もかもそこに降ろした時、世にあって世に無い、新しい力が、心に希望が、新しい生きる道が、道がないと思えるところに道が、必ず開かれます。弁護者なる聖霊が、私たちにすべてを教えてくださり、知恵と覚り、さらに世にはない喜びをも与えてくださることでしょう。そして、世の繁栄を超えた真理とは何かを教えてくださることでしょう。
 
 イエス・キリストを信じる信仰、それはこの世の価値の逆転なのです。信仰によって、低くされている者は高くされ、貧しくされている者は高められる。悲しむ者は喜びに満たされるのです。これはイエス様の語っておられることですから、真実です。
神は何処におられるのか。神は、今、ここ、私たちが苦労する、生きづらさを抱えて生きる、今ここにおられます。神は世を愛され、御子を降されました。そしてすべての人の救いのために、すべての苦しみを知り、憎しみも悲しみも、痛みもすべてをその身に帯びて十字架の上で死なれました。しかし、復活されたのです。
すべての人が、立てられている救いの主の十字架に気づき、十字架を見上げ、十字架の許に、すべての重荷を降ろし、主とともにある新しい命を得ることが適いますように。神の愛がすべての人の上に、明らかにあらわされますように。