創世記12:7~8
使徒言行録3:11~26
先週は、金ヨセフ先生に使徒言行録3章10節までお話をいただきました。感謝して、今日はその続きです。
毎日、エルサレム神殿の「美しい門」と呼ばれるところに人に運んで貰って、神殿に入って来る人たちに施しを乞うていた、生まれながら足の不自由な男の人が、ペトロとヨハネが神殿に入ろうとするのを見て、ふたりに施しを乞いました。ペトロとヨハネが、この足の不自由な人をじっと見つめたものですから、この人は、「何かもらえる」と思って、期待をして二人を見つめ返しました。
生まれながらに歩けない。そのことで、この人はどれだけ人生の苦汁を舐めてきたことでしょうか。
現代社会でも、体に障がいを持つ方々の苦しみは、障がいそのものと共に、町を行けば人が奇異な目で見る、またその体のままでは、自活して生きることが出来る社会の構造となっていない、ということの苦しみがあると聞いておりますが、この時代のユダヤ人に於いては、更に律法によれば病は罪と結び付けられておりました。そして自分自身に対しては、非常に低い自己評価というのでしょうか、悲しい時にも悲しいとすら声を上げることも出来ない、もしかしたら自分など愛されることなどないと思い込んでしまう、そのような孤独と悲しみが染み付いた、これまでの人生―40歳であったと語られています―だったのではないでしょうか。
この人がこの時、ペトロたちに期待したことは、小さなコインでした。それ以上のものを貰えることなど想像もしていない。とにかく今日を生きるためのものを求めていました。自分の心の渇き、生きる悲しみ、それらに慰めや回復が与えられることなど、微塵も希望することすら忘れ果てて、その日、生きるための小さなコインを、ペトロとヨハネにも求めたのです。
しかし、この時、ペトロはこの人の思いを超えたことを申しました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」と。するとこの人は、踊り上がって立ちあがったのです。この人の求めていたことを超えた、体の癒しが起こり、「これは神が為してくださったことなのだ!」と神を賛美しながら、二人と一緒に神殿の境内に入っていったのです。
人々は、踊りながら神を賛美している人が、いつも「美しい門」の前に座って施しを乞うていた、生まれながら足が不自由だった人だということに気づき、驚いて、一斉に集まって来ました。そして人々は、この人がペトロとヨハネに喜びながらつきまとっている姿を見て、「このふたりが自分たちの力や信心でこの足の不自由だった人を立ち上がらせたのか」と驚きの目を、ふたりに向けたのです。
そこに集まって来たのは、イエス様を「十字架に架けろ」と叫んだユダヤ人たちでした。 ペトロは、イエス様を十字架に架けることに大きな声で加担したユダヤ人たちに対し、恐れず語り始めました。
この時、まずペトロが語ったことは、生まれつき足の不自由だった男の人が立ち上がった奇跡は、ペトロ自身の力や信心によるものではないということでした。「信心」とは、信仰に於ける良い行いという意味の言葉で、聖書ギリシア語では、信仰とは区別して使われている言葉です。ユダヤ教では、「施し」は、施しをする人の徳を高める行為であるとされており、信仰による施しをはじめとした慈善的とも言える良き振る舞いや行いは、自分に誉れとして帰って来る、そのような理解でした。
信仰の基準が無くとも、人は、大きなこと、また良いと思われる行いなどを為すと、とかくそれを自分の誉れにしたいと願うものです。「私が」と、物事の中心を自分を主語として語ることを無意識にしてしまいます。しかし、イエス・キリストに出会ったならば、救いの経験をしたならば、イエス様と共にあるならば、「私」に纏わることの主語は、「私」から「イエス様」「主」に変わります。「私が仕事で成功した」ではなく、「主が私にこの仕事を成し遂げる力を与えてくださった。主の御名は誉むべきかな」と心から感謝と賛美を献げる者とさせていただくことでしょう。
ペトロは、イエス様のお傍に居た時は、意気込む言葉は語っていましたが、いざとなるとイエス様を見捨てて、裏切って逃げてしまった。そのような自分の弱さ、罪を嫌と言う程知っていた筈です。
しかし、この時、主の十字架と復活、昇天を経て、聖霊を受け、「自分」を打ち砕かれていた。「打ち砕かれる」というのは、キリスト教用語だと思うのですが、「打ち砕かれ、悔いる心を神よあなたはあなどられません」(詩51:19b)という詩編の言葉がありますが、持って生まれた頑固な罪深い自分というもの、自分の誉れなど、キリストの十字架の前にはこなごなに砕かれることを申します。自分に死ぬとも言いましょうか。自分は罪人であることを認め、自分に砕かれたところから、その砕かれた裂け目のようなところから、新しくイエス・キリストの命が輝き出でる。主の十字架と共に罪に死に、主の復活と共に新しく生かされる、「打ち砕かれる」とは、そのような意味の言葉です。
キリスト教信仰というのは、自分にとことん砕かれたところから新しく始まる命です。イエス・キリストは十字架に架かり死なれたけれど、復活された。その命に与るためには、人は罪に死ぬ=砕かれるのです。
この時のペトロもヨハネも、「自分」などというものを誇る虚しさに打ち砕かれていたに違いありません。そして、イエス・キリストが、イエス・キリストと共にある新しい命が、打ち砕かれた彼らの裂け目から輝き出で始めていたのです。そこには新しい、自分であって自分でない、力が沸き起こってきておりました。
そしてペトロは、ユダヤ人たちに向かって、説教を大胆に語り始めたのです。
ユダヤ人たちの父祖アブラハム、イサク、ヤコブの神、ペトロ、ヨハネも含むユダヤ人の先祖の神がその栄光を与えられたイエス様を、あなたがたが、ローマに引き渡し、ピラトがイエス様を釈放しようと決めていたのに、そのことをピラトの前で拒み、人殺しの男バラバを赦すように要求し、「あなたがたが」命の導き手、イエス様を殺してしまったのだということを恐れず語ります。
あなたがたユダヤ人たちは主なる神が「栄光をお与えになっていた」イエスというお方を認めず、拒み殺してしまった。しかし、神はこのお方イエス様を、死者の中から復活させられた。私たちはそのことの証人だと語り、そして言いました。
「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全に癒したのです」と。
イエスの名ということ、以前もお話しいたしました。名が置かれるということは、そのお方がそこに実際居なくとも、そのお方の権威が置かれているということです。ですから、例えば私たちが「イエス様のお名前を通してこの祈りをお献げします」と祈る時、その祈りには、イエス様の権威が置かれる祈りとなります。また、使徒言行録に於いて、「イエスの名」と語られる時、それは聖霊とほぼ同じ内容のこととして語られています。
生まれながら足の不自由だった男の人は、ペトロの「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という、イエスの名による命令によって、聖霊が働かれ癒されました。「イエスの名」=聖霊とも言い換えられる、がこの足の不自由だった人を強くしたと言うのです。そしてさらに「それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」と。
ここでひとつあれ?と思うことがあります。この時ペトロは、この人が癒されたのは、「その名を信じる信仰」の故であり、「イエスによる信仰が癒した」と語りました。しかし、この足の不自由な人が、癒された時求めていたことは、一個のコインでしかなかったのではなかったでしょうか。
神学辞典で改めて「信仰」ということを調べてみたのですが、旧約に於ける信仰というのは「神の真実を基として、これに信頼し、神を恐れ、そのことばに従うことを意味している」とありました。また、新約聖書に於ける信仰とは「イエス・キリストにおいてなされた、神の恵みの働きを受け入れ、それに服従し、その上に自己の立場を置くことである。キリストの恵みの事実は、十字架と復活に要約される。そこに示されている恵みを、有り難くいただいて、神の意思を自分の内にならせることが信仰である。信仰は信仰者の決意をもってはじまる。その背後には聖霊の働きがある」と記されてありました。これらは、私たちが通常「信仰」と語っている意味と同じでありましょう。
しかしこの人の場合、そのどちらにも当てはまらないように思えてしまいます。
そのヒントは、恐らく3章の3~5節の中に、4回語られている「見る」という言葉にあるのではないでしょうか。
その4回とも違う言葉が書かれているということを以前お話しいたしました。ただ互いに見たこと、その見るという意味がどんどん深まり、4節後半の「わたしを見なさい」は、ペトロが私が何者であるか、見分けなさい、見抜きなさい、本質を掴みなさい、と言っており、その言葉に応えて5節では、この人はペトロたちに「堅く注意を向けた」のです。しかし、この時も「何か貰えると思って」注意を向けていた。イエス・キリストに対する信仰ではありませんでした。この人が、イエス様の名前を、またイエス様がどのようなお方であるのか、十字架に架けられた方だということを知っていたかどうかも明らかではありません。ただ、コインのようなもの、「何か貰えると思って」、ペトロの呼びかけに応えていたに過ぎません。
しかし「見なさい」「見つめていた」という、目と目で見つめあった時、「信仰」に纏わる出来事が起こっていたのではないでしょうか。
それは、この生まれながらに足の不自由な男の人の、その生きることの悲しみへの、主イエスの憐れみが、聖霊によって注ぎ出したのではないでしょうか。
イエス様は、病を持つ人に出会った時、その人の病の苦しみ、そして病を持つことによる差別や命の尊厳を損なわれた人生の傷みを即座に見抜かれ、その悲しみや傷みにイエス様ご自身が共感され、それが憐れみとなり、イエス様ご自身から溢れ出し、病の癒しや解放が起こりました。
主なる神は憐れみ深いお方であられ、人間の罪を憐れまれ、また特別に病を持ち、悲しみや傷みのある人々を殊更に心に留められるお方であるのです。
イエス様の宣教のはじめ、ナザレの会堂でイザヤ書の巻き物を取って開かれ読まれたルカの御言葉は、主なる神が御子イエス様を世に遣わされたその意味が、象徴的に表されています。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために。主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるのである」(ルカ4:18)
神の御子が世に来られたのは、世にあって病や貧困、自分には価値などないとまで思えて諦めてしまうほどにさまざまな困難を負っている人たちにまず、福音=よき知らせ、解放と回復の知らせを告げるためでありました。神の憐れみは世の悲しみ傷みのあるところに、特別にまで、何処よりも先に注がれるのです。それは、人間の側の思い、意志的な「信仰」に先立つ、神の御計画であり神の恵みです。
主なる神は、イスラエルの民を、数も少なく、あまりにも貧弱であったが故に、心引かれ、選び、ご自分の民とされたことは、旧約聖書の申命記7章に記されています。私たちの主なる神はそのようなお方です。私たちが貧しく、病を持ち、さまざまな困難を持つ時、神の憐れみと慈しみと愛は、天来の恵みとして、私たちの意志を超えて注がれているのです。
今はイエス・キリストは天にとどまっておられ、その愛は、イエスの名を信じる信仰を持つ人を用いて、聖霊によって注がれるようになりました。ペトロとヨハネは、自分自身の誉れを持つ者としてではなく、神の器、神の道具として、その信仰を、神によって用いられ始めていました。この生まれながらに足の不自由な男の人を「見た」時、イエス・キリストがこの人を見たのと同様に、聖霊を通してペトロとヨハネは、イエス様の憐れみを自分のものとしたのでしょう。神の憐れみは、意思的な信仰に先立ち、病を持つその人と共にありました。その人の言葉に出来ない悲しみ、うめきに触れられました。主は人の悲しみや傷みを、お見過ごしになることなど出来ないのです。
もし、体に苦しみや傷みがある時、さまざまな困難で魂に傷みを持つ時、主の愛と憐れみ、主の眼差しは、その時、私たちに注がれている、神の愛は共にあるのだということを、殊更に覚えていただきたいと願っています。
ペトロとヨハネの信仰と、生まれながら足の不自由な男の人の人生の悲しみ、そこに先立つ恵みとして置かれている主の憐れみ、その両方が、見つめ合った時、起こったこと。ペトロはそれを、ここで「イエスによる信仰」と語っているのです。
また続けてペトロは、あなたがたイエス様を十字架の死へと向かわせたのは、指導者たち―ユダヤ人の大祭司カヤファはじめとする指導者たち―と同様に無知であったからだと語ります。
この「無知」ということは、「無教養」とか「無教育」という意味ではありません。ユダヤ人たちは、「教育」という点に於いては、律法を学び、聖書を暗記し、知識としては知っていた筈ですが、神の思いに無知であったということ、悟らなければならない神の思いに対して、無知であったということです。
そしてこの「無知」ということを通しても、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを実現なさったのだということをペトロは語ります。神は人の目にマイナスと思えることも、すべての事を通して、ご自身の御心を現されるお方なのです。
しかし「無知であったから」―悟らなければならない神の思いを知り得る信仰がなかった、その弱さ、そこにも主の憐れみは注がれます。
イエス様は十字架の上で、ご自身を十字架に向かわせた人々のために、父なる神に祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と祈られたのですから。「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」とペトロは語るのです。
イエス・キリストが世に来られ、十字架に架けられ、死なれ、復活され、天に昇られ、聖霊降臨の出来事が顕された。使徒言行録、使徒の時代は「主のもとから慰めの時が訪れ」た時です。
ペトロは、この説教を通して、ユダヤ人たちに、イエス様こそが旧約聖書を通して現された、その語りかけに耳を傾けるべきお方であることを語り、イエス様を十字架に架けたユダヤ人たちを、神の憐れみと祝福、イエスによる信仰に招いています。
4章では、この日に信じた人は男だけで5000人であったと語られています。
イエス様の憐れみと招きは、まず病と困難を持つ人たちから始まり、イエス様を死に追いやったユダヤ人にまで及びます。
そして、今、私たちも主の憐れみによって主のもとに招かれ、イエスによる信仰、イエスの名のもとにある信仰によって、各々が人格として重んじられ、神の祝福のうちに愛された者として生きることを主は望んでおられます。キリストの前に打ち砕かれ、主と共に新しい命の道を歩むことを待っておられます。主は、求める者にご自身を現される、それは信仰の奥義でありますが、その前に、神の憐みがあることを、今日は覚えたいと思います。
今は主の慰めの時。主イエス・キリストの憐れみが、すべての人に、世にあって病やさまざまな困難の中にある方々の上に、鮮やかに現されることを祈ります。