イザヤ書46:3~4
コリントの信徒への手紙一1~9
今日から、パウロの書きましたコリントの信徒への手紙一を、月に1,2度の割合で読み進んで行きたいと思います。
パウロという人は、新約聖書の中、ローマの信徒への手紙からフィレモンへの手紙までの13通の手紙を書いている、キリスト教信仰にとって無くてはならない働きをした人でした。しかし、イエス様の12弟子のうちのひとりではありませんでした。生まれた年代はイエス様とほぼ同じくらいと言われていますが、イエス様が世を生きておられた間、イエス様と弟子たちを迫害をした側の熱心なユダヤ人ファリサイ派のひとりであり、それも迫害者として最も恐れられていた人のひとりでした。
そのパウロが、キリストに従う者たちを脅迫し、殺そうと意気込んでダマスコという街へ向かっている道すがら、突然、天からの光がパウロの周りを照らし、「なぜ私を迫害するのか」というキリストの声を聞くのです。その後、彼は3日間目が見えなくなり、3日後に目からうろこのようなものが落ちて、再び目が見えるようになり、同時に、イエス・キリストを信じる人に変えられ、この後、命を掛けて、十字架のキリストを宣べ伝える生涯を送りました。この手紙はそのような人が書いた手紙です。
パウロというその人そのものが、イエス・キリストを信じる信仰とはどのようなものであるかを語っているのではないでしょうか。パウロは自分自身のことを「罪人の中で最たる者です」(一テモテ1:15)と語っていますが、罪ある者が赦されて新しくされる、また、世で低くされている者が高くされる。神の憐れみと恵みが罪人と、貧しさや病の故に苦しむ人たちにこそ、まず豊かに示されるのです。
今年は日本のプロテスタント伝道160年の年ですが、日本に於いては、来日した宣教師たちが、学校教育や社会福祉に非常に力を入れ、キリスト教が知識階級にまず浸透していった歴史がありますため、その印象が長い間強くあり、キリスト者は行いに清く正しい人であるはず、そうであるべき、そのように思われ勝ちなのですが、キリスト教信仰、教会というところは、もともと世にあって品行方正で、非の打ちどころのないような人が、道徳的な正しさを求めて集っているところではありません。「クリスチャンのくせに」と、そんな罵りを受けたことのある方も、もしかしたらおられるかもしれませんが、教会というのは、ただ神の恵みと憐れみによって、召されて、主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた罪人たちの群です。
私たちがここに集められているのは、私たちが優れていたり、正しいからではなく、ただ、神の恵みによるのです。弱かったり、罪多い者であったりしますが、ただ神に愛されて神の恵みと憐みによって招かれたのです。
今日お読みした2節に、この手紙の受け取り人について、「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリストによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と記されています。この手紙は、「コリントの教会」にある「召されて聖なる者とされた人々」が具体的な宛先となりますが、「聖なる者とされた人々」ということの意味は、一節にありますように神の御心によって召され」て、続けて9節後半「あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた」人たちということです。神の恵みによって召されて、キリストとの交わりに招き入れられた者は、コリントの教会の人たちに限らず、すべて聖なる者であるのです。
さらに申しますと、この聖なる者というのは、倫理道徳に於いて聖なる者、清く正しい者という意味ではありません。神に属する者という意味です。神の恵みによって召されて、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストとの交わりの中に入れられた者たちのことを申します。世にあっては御言葉と祈りに絶えず励まされつつ、イエス・キリストの教会に連なり生きる。そして、更に「終わりの時=終末」に於いても神の主権、神の領域に入れられる者と言う意味です。
聖書は、終末ということを語ります。「終末」というと、何やら恐ろしいと思えてしまいますが、「終末」とは、神の完全な救いがあらわされる時です。世にはさまざまな苦しみや悲しみがありますが、やがて悲しむ者、苦しむ者、すべての涙が拭われる救いの時がやって来る、まことの神の支配が来る。聖書が語る救いとは究極的にはそこを見据えています。
ふた月ほど前、使徒言行録1章、復活されたキリストが、弟子たちの見ている前で、天に上げられて、雲に隠れて見えなくなった。その時、傍に居た白い服を着た二人の天使が「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」と語ったことを共に読みました。その「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」というその「時」が終わりの時、終末なのです。そして、「終末」とは、救い主であられるイエス・キリストが「来られる時」、救いの完成が到来することを意味します。
世にあってキリストとの交わりに招き入れられている者は、その時、天にとどまっておられた、降りて来られるキリストと合間見える、キリストとの交わりに招き入れられながらも既に死んだ者たちは、復活をする。―このことは、この手紙を読み進んで行きますと、詳しく語られています―神と共にある永遠の救い、永遠の命のうちに、完全に入れられるということが、起こる時です。イエス・キリストに召されて聖なる者とされるということは、そのような神と共にある永遠の命に入れられていることを約束されている者ということを意味しているのです。
この手紙の「コリント」というのは、都市の名前です。現在のギリシャ共和国にある湾岸都市で、東西、南北の交通の要衝として、古代から非常に栄えた港町でした。そこにはユダヤ人もおり、更にギリシア人、フェニキア人ほか多様な民族が住んでいたようです。哲学者や知識人も多く住んでおり、またコリントで行われる大競技会は、オリンピックに次ぐ盛大なものであったとも言われています。アクロポリスの丘にはギリシアの女神アフロディテの大神殿が立っており、丘のふもとにも別の神殿があり、神殿娼婦が多くいる町で、性的な乱れが氾濫していることで有名な町で、「コリントのように生活する」という言葉は、堕落と放蕩の中に生きることを意味していました。そのような街にあるイエス・キリストの教会です。
パウロは三回の伝道旅行をしたことが知られていますが、パウロが初めてこの町にやって来たのは、第二回目の伝道旅行の時でした。パウロがコリントにやってきた時の様子は、使徒言行録18章に記されています。パウロはコリントで1年半を過ごし、パウロ自らが、教会を造り上げたのです。パウロが去った後、アポロという人がコリントの教会にやって来て伝道をしました。
パウロはコリントを去った後、一旦エルサレムとアンティオキアに戻り、その後第三伝道旅行に出かけ、エフェソに3年間滞在をしました。このコリントの信徒への手紙一というのは、この第三伝道旅行のエフェソ滞在時に書かれたものだと言われています。
コリントの教会には初代の教会の多くがそうであったように、ユダヤ人と多くの異邦人がその群に加わっていました。権力のある者、身分の高い者は多くはなく、むしろ社会的には弱い立場にある人々が多く、また奴隷の立場の人もいたようです。
しかしすべての人は、神の恵みによってキリスト・イエスのもとに集められた人々でした。しかし、パウロが教会を造り、去った後、コリントの教会はさまざまな問題が起こっていました。その問題のある教会に対し、パウロはこの手紙を書き送っているのです。
神の恵みによって集められ、聖なる者とされた人たちの群でありますけれど、招かれながらも、世にあるさまざまな問題、罪の問題、また神から受けた賜物を間違った使い方をする人々がいたり、教会の中の分裂、分派の問題がありました。
しかし、この手紙のはじまりは、コリントの教会への祝福の言葉で満ちています。
4節からお読みいたします。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けていることについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉や知識に於いて、すべての点で豊かにされています。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つかけるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストが現れるのを待ち望んでいます」と。
「あらゆる言葉や知識に於いて、豊かにされている」また「あなた方の賜物に何一つ欠けるところがない」と語っていますが、実は、読み進んで行きますと、パウロはコリントの教会の人々が、「知識を誇っている」ことを叱り、聖霊の賜物の故に教会の中に混乱を来たしていることが大きな問題として語られていたりもします。
しかし、パウロはこの手紙のはじめで、社交辞令や皮肉のようにこの言葉を語っている訳ではありません。パウロが去った後のコリントの教会の現状は、パウロが伝え聞く限りに於いては失望しても致し方ない状況であったけれど、しかし、パウロは神の御心によって召された者たちとその群に対し、主イエス・キリストに於いて、ただ打ちひしがれて意気消沈したり、ただ怒ったりするのではなく、確信と希望があります。
それは、「神は真実な方」であるということです。神は信頼し得る真実なお方。神はご自身が召して、招き入れられた人々、イエス・キリストの名を呼ぶ人々、そして召された人たちが集まる群・教会を「最後までしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日―これはすなわち、先にお話しした、終末、終わりの日、イエス・キリストが天から再び世に来られる日―まで、しっかり支えて下さるという確信があるのです。神は最後まで召した者たちに責任をとって導いてくださるという確信です。
パウロが伝え聞くコリントの教会の状況は、人間の目には失望しそうな現状でした。それでもパウロは弱気にはなっておらず、召されたひとりひとりは「召されて聖なる者とされた人々」であるのだから、「真実な方」であられる神が、召された人々と教会を、しっかり支えて、主イエス・キリストの日、終わりの時に「非のうちどころのない者」にしてくださる、パウロはこのことを信じている、希望を持っているのです。
「非のうちどころのない者にしてくださる」ということは、その言葉の中には「鍛える」という意味が含まれておりましょう。7節では「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」と語っていますが、召されて集められたひとりひとり、私たちには、それぞれ違う神からの「賜物」を与えられています。「賜物」と言うのですから、自分の力では到底得ることが出来ないような神からの恵みの贈り物。この手紙で「賜物」とパウロが語る時、12章では「霊的な賜物」ということが語られており、それは聖霊の賜物を具体的には指しておりますが、ここでは「霊的」という言葉はありませんので、聖霊の賜物と共に、人間ひとりひとりの個性、秀でた才能のようなものも含めて、神の賜物とここでは呼んでいると思われます。
ひとりひとりにそれぞれに与えられた神からの賜物を集めて、それぞれが賜物を用いて、生かしあって、キリストの体である教会は造り上げられて行きます。
しかしながら、召されて主イエス・キリストとの交わりに入れられても、人間はすぐに変わるものではありません。パウロは劇的なキリストとの出会いによって180度生きる方向を変えて、キリストを信じる者とされましたが、命を掛けてイエス・キリストの十字架を宣べ伝えましたが、数知れぬ困難がありました。またそのパウロでさえ、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ロマ7:15)のように、自分のうちにある罪の問題に苦しみ続けていました。
私たち多くの者は、キリストを信じる信仰、キリストとの交わりに入れらた者も同様でありましょう。「非のうちどころのないもの」とされるには、時間が必要でありましょうし、その時間の中には、さまざまな試みや困難と思えることもあるに違いありません。
しかし、パウロは、何が起ころうともひるみませんでした。キリストに召され、聖なる者とされた人を、また教会を、神は決して手放すことなどなさらないことを信じているからです。捉えて、しっかり支えて、主が再び来られる日に至るまで、励まし、鍛え、非のうちどころのないものとするまで導いてくださることをパウロは信じています。パウロは申しました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(ロマ8:35)
地上の教会は、世にあるイエス・キリストの体です。主イエス・キリストの現れる時、主が再び来られる時、世の教会は使命を終えます。すべては完全な救いに入れられるからです。その時まで、イエス・キリストが現れる日を待ち望みつつ、世の教会は「非のうちどころのない者」と成ることを見据えつつ、希望を高く掲げて歩みを続けています。その中にある私たちひとりひとりも同様です。
コリントの教会がそうであったように、さまざまな人間的な思惑の行き違い、誘惑などによって時に誤って道から逸れることもあるかもしれません。いろいろな試練、試みと思えることも起こってくるかもしれません。
しかし、「神は真実な方」です。召されて聖なる者とされたひとりひとりを、また召された者たちがひとりひとり集められて造り上げられた主の教会を、どのような時も、主はしっかり支えて導いてくださいます。このことを覚えたいと思います。
パウロはこの手紙の中で、教会の問題のひとつひとつに答えていきます。しかし、その牧会の中でも、感情の行き違いなどがあり、パウロ自身も苦しんでいたことがコリントの第二の手紙では語られてもいます。
しかし、すべてを主はご存知で、愛して、万事を益として導いておられます。イエス・キリストの交わりに入れられた者は、目の前にある困難に打ちひしがれて、悲観して、埋没するものではありません。それは「真実なお方」である主キリストがおられるからです。
私たちも信仰によって神の子とされて、すでにキリストとの交わりに入れられています。 イエス・キリストにあってすべての困難と思えることは私たちが乗り越えていくべき試練です。主イエス・キリストに、非のうちどころのないものとしていただくため、乗り越えるべきことであり、主はすべてを為す力を与えてくださいます。
信仰生活に於いて目の前の現実が、困難に思える、そのようなことがもしあったならば、「神は真実な方」であることに心を向けたいと思います。主は、私を私たちを、教会を愛し、導いておられ、すべてのことを通して完成へと導かれます。そして必ず、イエス・キリストからの恵みと平和に、召されて聖なる者とされた私たちを満たしてくださいます。また、私たち一人一人も同様です。どんな時にも、希望を掲げて、主イエス・キリストを見上げつつ歩みたいと願います。