「悲しみは喜びに変わる」(2019年9月22日礼拝説教)

サムエル記上2:7~8
ヨハネによる福音書16:16~24

 聖書の大きなメッセージは、この世の価値の逆転です。
 旧約朗読、サムエル記上2章をお読みいたしましたが、これは子どもが与えられないために苦しみの中に居たハンナという女性が、神に深い熱心な願い求める祈りを献げた末に子を産み、その子を神に献げた時に歌った、信仰の喜びの歌です。「主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めてくださる。弱い者を塵の中から立ち上がらせ貧しい者を芥の中から引き上げ~」と、主なる神が悩みと苦しみの中に居たハンナの悩み苦しみを神は顧みられ、苦しみを喜びに変えてくださったという高らかな喜びの歌なのです。
 さらに、神をひたすら慕い求め、神に願い求める人に神は必ず応えてくださる、聖書はこのことを強く語っているのです。

 お読みしたヨハネによる福音書の御言葉は、13章から続く、十字架を前にした最後の晩餐の席でのイエス様の告別説教の終盤部分です。
「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を語られ、イエス様は弟子たちの足を洗い、互いに仕え合う愛を教えてくださいました。さらに「わたしは道であり、真理であり、命である」「弁護者なる聖霊が遣わされ、この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」などなど、イエス様は弟子たちに対し、多くの大切な教えを聞かせられました。
 そして、仰るのです。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」と。
 弟子たちは、イエス様の言葉を理解いたしません。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる」「父のもとに行くとか言っておられるのは何のことだろう。何を話しているのか分からない」とこそこそ話している様子です。
弟子たちは三年間、イエス様のお傍に居て多くの教えを受けてきました。しかし、イエス様の言葉の真意を全く分かっていないのです。もし分かっていたならば、イエス様をこの後裏切って、イエス様を見捨てて去って行くことなどしなかったことでしょう。
しかし、物分りが悪く、少し情けないような弟子たちを「この上なく愛し抜かれ」イエス様は、それでも弟子たちに語り続けられます。ひとときの別れの時が近づいている。イエス様の弟子たちに対する熱情と思いは激しいほどのものに感じられます。愛することは、諦めないこと、イエス様の弟子たちに対する熱心さから、そんな言葉が思い浮かぶほどです。

「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子どもを産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子どもが生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのためにもはやその苦痛を思い出さない」
 イエス様の言葉を理解していない弟子たちですが、イエス様との別れはあと数時間後に迫っています。イエス様は、この後、捕らえられ、裁判にかけられ、死刑判決を受けて、数時間のうちに十字架に架けられ死んでしまわれるのです。その時、弟子たちが泣いて悲嘆に暮れる。そのことをイエス様は知っておられます。その時のために、イエス様は語り続けられるのです。
 
イエス様の十字架は、世の支配者たちにとっては、勝利と思えることです。嫉妬をし、憎み、何とか殺そうと策略を練っていたイエス様が、苦しみ死なれたのですから。
 また「世」とヨハネによる福音書が語る時、世とはサタン=「悪の支配」を表しますので、神のひとり子イエス様が世の支配者たちの思いのままに、十字架の上で苦しみ死なれることは、サタンにとって、サタンの神に対する勝利と思えた出来事でした。世に生まれ、世に生きた、人となられた神が、サタンの支配する死の世界、陰府に降るのですから。 しかし、イエス様は言われます。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。

 女性は、子をお腹に宿し、お腹に命を育みながら月日を過ごし、生まれるその「時」を大切に待って過ごします。そしてその子を産む「時」は、その女性にとっての「時」です。大切に育んで来た命を産む頂点、クライマックスの「時」。しかし、その通らねばならないクライマックスの時は痛みと苦しみを伴います。母親にとっての「時」は「苦しみの時」です。このことは、アダムとエバが罪を犯し、楽園を追放される時に、女性に与えられた苦しみでした。
この女性の出産を譬えとして語られる「苦しみ」とは、弟子たちがイエス様との別れ、十字架を目の当たりにした時の苦しみであり、尚且つ、イエス様ご自身の十字架に於ける苦しみでありましょう。
しかし、その苦しみは、我が子が産まれた時に終わります。子が産まれた時、その子を抱いた時、女性の「時」の苦しみは、喜びに変わります。喜びが勝り、苦痛を思い出すことはありません。新しい命によって、「苦しみの時」は去り、喜びに包まれます。
 このイエス様の女性の出産のに譬えられるお言葉の意味は、イエス様は十字架に於ける御苦しみであり、同時に、弟子たちのイエス様を失う苦しみに譬えられているのでありましょう。しかし、イエス様は死を打ち破り、復活されます。サタンの勝利はほんのひととき。三日間です。イエス様は三日目に復活をされます。サタンの支配する死を打ち破り、新しい命、新しい身体をもって復活をされ、弟子たちの前に姿を現されるのです。
 その時の喜びの様は、ヨハネによる福音書21章に生き生きと語られています。主の復活の喜びは、奪い去られることのない喜びです。主はさらに40日に亘って、すべてのことについて深く深く教えられ、天に昇って行かれます。そして、さらに10日後、イエス様がヨハネ14章で語られていた、弁護者なる聖霊が降されるのです。
聖霊が降されることを、イエス様は14:18で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」と語られ、さらに16:7で「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」と言われました。
 その言葉が、十字架という死の苦しみ、そして弟子たちの悲しみを通して、実現されます。聖霊は、十字架に架かり死なれ、死を打ち破り復活をされ、天に昇られたイエス様と父なる神のもとから、世に、そして私たちに送られるイエス様ご自身であられるからです。
イエス様を信じる者には、イエス様の霊であられる聖霊が降され、共に居て下さり、神が共にある喜びに満たしてくださるのです。
十字架の苦しみは復活の命に変えられ、弟子たちの悲しみ、罪の苦悩は、絶えず聖霊なる神=神共にある喜びに変えられるのです。

 牧師として働かせていただいておりますと、どなたもが、生きる歩みの中でご苦労をされ、さまざまなことを乗り越えてきておられることを知らされます。また今の自分は信仰者として相応しくないのではないか、と苦しんでおられる方に出会うことがあります。置かれている困難な状況に於いて教会生活が困難になる中で、苦悩をされ、罪の意識にさいなまれておられたり、また「こんなことをしてしまった」「言ってしまった」と自分の罪に気づくなど、深い悩みに苦しんでおられる方々に出会います。
 神は、私たちの苦悩の現実をどのように見ておられるのでしょうか。
 神は私たちの心がいつも神と共にあり、神の光の中を光に向かって歩むことを望んでおられます。それが苦労の多い世にある人間にとっての幸いな道であるからです。しかし、やむを得ない状況の中で世のことで精一杯になり、心が沈み、神が見えなくなり、信仰生活を続けることが難しいと思えることも出てくることがありましょう。
 しかし、神は、私たちが神から離れてしまった、神はと思えた時でも、イエス様を求め、信じた私たちをお見捨てになることなどありません。イエス様を信じて与えられた聖霊は、私たちを決して「みなしご」にはしておかれず、共に居て、絶えず静かに包み、守っていてくださいます。そして、私たちが共におられるお方に気づき、慌しい世の現実からひととき離れて、まず沈黙の中で神に心を向けて、神を求めることを静かに待っておられます。ひととき世のわずらいから逃れ、沈まった時、その沈黙の中に神はおられることに気づくことでしょう。

 そもそも、神は、私たちが正しかったから、私たちを愛してくださったのではないのです。イエス様の弟子たちは、不甲斐なく、弱く、どこまでもイエス様の言葉の真意を自分のものと出来ず、ルカによる福音書によれば、最後の晩餐の席でまで、「自分たちのうちで誰が一番偉いか」などと言い合っている者たちでしたが、イエス様はそのような弟子たちを、罪人であるが故に愛して愛し抜かれたのです。そのしるしが、ヨハネ福音書13章のイエス様ご自身が「弟子の足を洗う」という行為でした。イエス様は、今も私たちの弱さを憐れまれ、私たちのために仕えていて下さいます。時に、沈黙の中に、静かなまなざしをもって。
もともと、ユダヤ人、イスラエルの民が、神にはじめに選ばれたのは、他のどの民よりも数が多かったからはなく、どの民よりも貧弱であったからだと申命記7章で語られています。それと同様に、弟子たちが正しかったから、弟子たちは愛された訳ではありません。弱く、頼りなく、神に背を向け、自分勝手な道をゆく者たちです。しかしそれぞれの個性を持ち、それぞれの生まれ育った環境や人間関係を持ち、生きる辛さを味わいながら生きるひとりひとりのそのままを、イエス様を愛されて、招かれ、ご自身の弟子とされました。
 さらに同様に、私たちひとりひとりも、さまざまな弱さを抱えているが故に、神に憐れまれ、神に愛され、イエス様のもとに招かれています。そして神の愛は、憐れみは、私たちから離れることはありません。
 パウロは申しました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。~高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8)と。

 私たちが世の苦脳の中で喘いでいる時は、神が私と共に居て下さることすら見えなくなることもありましょう。しかし、私たちは主に愛されている者たちです。苦しみや悲しみの中にあり、またその「時」を経た者を、神は必ず顧みられ、苦しみや悲しみに代えた喜びに満たして下さる時が必ずやって来ます。私たちの世の苦しみは、いつもイエス様の十字架に重ね合わせられるものです。
 そしていつも、またその時、苦しみの時を超えて新しい命の「時」が来るまで、イエス様の霊であられる聖霊は、絶えず共にいて下さり、神ご自身のもとにある喜びを、私たちにも与え、励まし続けてくださいます。
 聖霊が、神が共にいます喜びは、世のこと、置かれている状況に関わりなく与えられる、天来の不思議な喜びなのです。心が不思議な愛に満たされ、「私は大丈夫だ」と思い、この日も前を向いて、神の光の中を歩もうという希望を与えてくださり、新しい命の「時」へと導いて下さいます。
私自身によくある経験なのですが、心苦しく悩みの中で眠り、朝目覚めた時、心が不思議な喜び、わくわくするような希望でいっぱいの朝を迎えるのです。「何か良いことがあったかな」とそんな中昨日のことを思い出すと、目に見える現実はとても困難だったことに思い至ってとてもがっかりしてしまうのです。でも、この不思議な喜びは、イエス様が十字架に架かって下さり、苦しみを受けられたことによって、人間に与えられるようになった聖霊なる神が、私と共にいて、「今は苦しいけれど、大丈夫。未来に希望がある」と力づけて下さっているしるしなのだと思っています。
 そのような中で、神への信頼が深まっていき、私自身、生きるすべての現実に、神が共に居て下さり、必ず御心を顕してくださり、必要を満たして下さり、御心のある限り、生かし続けてくださり、やがては御心によって神の祝福の中にすっぽりと入れられる日が来ることを信じています。

 さらにイエス様は言われました。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」
使徒言行録を礼拝で時々読みはじめておりまして、その時、「イエスの名」について何度かお話をさせていただきました。
 聖書に於いて、その「名」は、その存在そのものの権威を表します。イエス様は今天におられますが、この世には、イエス様の「名の権威」が置かれているのです。使徒言行録を読みますと、「イエスの名」によって願い祈る時、聖霊の力強い働きが起されています。
 イエス様は「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言われました。
 絶えず共におられ、しかし沈黙しておられると思えてしまう、私たちの肉眼では見えない聖霊なる神。私たちがイエス様の名によって、願う時、聖霊なる神が働かれ、祈りは聞かれ御心にそって与えられる。そして喜びで満たされると、イエス様ご自身が言われました。

 私たちはこのイエス様ご自身の言葉を、疑わず、信仰をもって受け留め、それを行う者となりたいと思います。
 私たちは願うことすら躊躇してはいないでしょうか。共におられる聖霊なる神の働きを私たちの祈りが動かすということに、期待をしていない、私たちは祈ってすぐに神の働きを目の当たりに出来ないことに落胆し、祈ること、イエス様の名によって祈ることすら、世の慌しさの中で世の脇に追いやることのある者たちだと思います。
 すべての業には「時」がある。これはコヘレトの言葉3章の御言葉ですが、願ったことが神の御心として私たちに現されるまで、何も動かないと思えてしまう世の現実の中に、聖霊なる神が共にいてくださり、励まし続けていてくださることに確かな希望をまず持つ者とさせていただきたいと思います。
そしてここで、イエス様は「願いなさい」と命令をしておられるのです。私たちに。
 そうすれば、喜びに満たされる。世の苦脳の中にあったとしても、不思議な喜びに満たされる。そして、更に、神は必ずその願いを聞いていてくださり、御心に留めてくださり、必ず、願ったことに対して、神の御心を表してくださいます。それは、私たちの願ったとおりではないかもしれない。私たちの願ったとおりにすべてが運ぶならば、それはつまらないことです。願ったところに、私たちの願いを超えた、神の私たちへの御心が表されます。私たちに与えられる神の御心は、私たちの願いを超えて大きいのです。そして、私たちは神共にある喜びに満たされるのです。

最 後に、旧約聖書申命記8章の言葉をお読みし、私たちに与えられる苦脳、悲しみに対する神の御心に聞きたいと思います。
「主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖の味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」