創世記15:2~6
使徒言行録4:23~31
今日は世界聖餐日、世界宣教の日です。
「世界聖餐日」は1940年、世界が戦争へと傾斜していく中で北米キリスト教教会連盟によって「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で主の聖餐式をまもり、国境、人種の差別を越えて、すべてのイエス・キリストを信じる人々がキリストの恵みにおいて一つであるとの自覚を新たにする日」として提唱され、日本の教会に於いても、戦後の深い爪痕が残る中、世界中の教会が聖餐をとおしてキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求め、また互いが抱える課題を担いあう決意を新たにする日として始められ続けられています。
また、日本基督教団では世界中に住む日本人に対して、日本語で礼拝が出来る教会をという意図も含めて、各地に宣教師を派遣しています。その働きのためにも祈る日とされています。
世界中に数知れず立てられ、2000年に亘って広がり続けて、信仰によって、イエス・キリストの体と血とに与る聖餐に結ばれて世界にあるイエス・キリストの教会です。そして今日の御言葉は、イエス様の十字架と復活、昇天、ペンテコステの出来事を経た教会がまだエルサレムで一つしかなかった最初期の時代―とはいえ、この時点で1万人ほどの信徒がいるのですが―の教会のはじまりのひとつの出来事が語られています。
さて皆さんは「海」というと、まず何を連想されますでしょうか。
この近辺では九十九里浜、太平洋に面した海。私は瀬戸内海に面した街で生まれ育ちましたので、海というとなだらかで、そこかしこに小さな島が点在している、そういう穏やかなものだと思って育ちました。日本海に旅行に行った時、海は広い、と思いましたが、それでも海はなだらかでした。でも、千葉に来まして、初めて九十九里の海を見た時、その波の高さに驚き、初めて「海は恐い」と思いました。そして、2011年の東日本大震災の津波のことを思い巡らしながら、浜辺で波を見つめていたことを思い出します。
今日の使徒言行録の御言葉は、初代教会の人々が心をひとつにして神に向かって祈った言葉です。この祈りの始まりの言葉は、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られたお方です」という信仰の告白から始められています。私たちも「天と地をお造りになられた神」と呼び祈ることがありますが、ここには加えて「海」という言葉も加えられて祈られていることは、独特です。
「海」、東日本大震災に於ける津波は多くの人、そして街々を覆いつくし、多くの命を奪い、街を破壊しました。現代社会の科学の進歩をもってしても、自然の力、海の力や水の強力なエネルギーを前に、私たちは恐れと不安を抱くものです。殊更に古代世界に於いて、海というのはなおのこと恐れられており、海は神々と呼ばれる悪しき諸霊に支配されたものとして考えられ、嵐は諸霊の怒りによるものだと信じられており、海は混沌と恐れの象徴でした。
「天と地と海と」と敢えて祈った人々。イエス・キリストを信じる最初期の彼らは大いなる恐れと混沌の中に居たことが分かります。イエス・キリストの十字架と復活と昇天、そしてペンテコステの出来事を経て、神の救いの恵みを確かにしていた筈の弟子たちですが、神への信仰と共に、騒ぎ立つ海の中にいるような恐れの中に居たのです。そして恐れと共に神への信頼への疑いも生じそうになることを感じながら、心を奮い立たせて皆でひとつになって祈ったのではないでしょうか。
今日の御言葉は、使徒言行録3章から始まりました、生まれつき足の不自由な人が、神殿の「美しい門」と呼ばれるところで物乞いをしておりましたところ、ペトロとヨ ハネに出会い、ペトロの「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」という言葉、「イエスの名」によって足の不自由な人を立ち上がらせた、その出来事から続く、最後の場面です。
足の不自由だった人が立ち上がり、踊りながらペトロたちについて来ていることに驚いた人々は、神殿のソロモンの回廊と呼ばれるところに一斉に集まって来まして、そこでペトロは、イエス様の復活、死者の復活の説教をいたしました。
そのことにいらだった神殿守衛長、サドカイ派の人々は、ペトロとヨハネを捕らえて一晩牢に入れ、翌朝、ユダヤ教の最高法院サンヘドリンに於いて、ふたりを尋問したのです。しかし、ペトロとヨハネが、サンヘドリンで大胆に「神が死者の中から復活させられたイエス・キリストの名、この名のほかに救われるべき名は人間には与えられていない」ということを更に語り、足を癒していただいた人が傍に立っているのを見て、ひとことも言い返せず、ふたりに「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように脅しておこう」と、ふたりを「イエスの名を使って話すな」と脅し、釈放いたしました。
このことは、生まれたばかりのイエス・キリストの十字架と復活を信じる共同体がユダヤ人たち権力者から加えられた最初の大きな圧力であり、この後激しくなる、キリスト教徒への迫害の布石となる出来事でした。
釈放されたふたりは、仲間のところに戻りまして、サンヘドリンに於いて、祭司長たち、長老たちの言ったことを、残らず話しました。これを聞いた人々は、心を一つにして、神に向かって声をあげて祈りました。その始まりの言葉が、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」でした。
そして渦巻く海の中にあるような恐れの中、彼らは旧約聖書詩編2編を思い出すのです。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王はこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」と。
詩編2編は、イエス様の時代から遡ること1000年程前のダビデ王の時代に、ダビデによって書かれたと言われている詩です。
詩編には、「モーセの歌」と言われている詩もあり、またダビデが作ったと言われる詩編も多いのですが、長い年月の中、作られ、人々に受け継がれ、礼拝の中で歌われ、紀元前160年頃、いろいろな時代の歌を集めて、現在の150編という形に纏められたのだと言われています。
そしてイエス様の十字架と復活を経た弟子たちの群は、詩編を含めたユダヤ人たちと同じ旧約聖書を持ちながらも、それまでのユダヤ人の読み方を、イエス・キリストという窓を通して、新しく読み直して理解をするようになりはじめていたのです。
使徒言行録2:30では概に「ダビデは預言者だったので」と語られていましたが、詩編のダビデの詩を、聖霊によってダビデを通して語られた神の言葉として理解し、そして今日の御言葉「指導者たちは団結して主とそのメシアに逆らう」ということを、イエス様の十字架の時、異邦人であるローマ総督ポンティオ・ピラトのもと、異邦人とイスラエルの民が一緒になって、イエス様を十字架に架けた。だから、イエス・キリストを信じる群にこの時、与えられ始められている苦難は、既に預言されていた苦難なのだ、この苦難も神のご計画の中にあるのだ、この恐れも神の御手と御心の中にあるのだと、彼らは吠え猛る海の中にあるような恐れを持ち、恐らくは神に信頼し切る心が持てないような疑いのせめぎ合いを持ちながら、ひとつになり、心を奮い立たせて祈ったのです。
信仰ということ、恐れも疑いも微塵も持たない信仰というのは理想と思いますが、信仰を持ったならば、すべての物事がとんとん拍子にうまく運ぶ、そのことだけに期待をするのは、信仰に対する誤解ではないでかと思います。信仰を持っても、ひととき荒波の中に呑み込まれるような、人生の暗闇に閉じ込められたような状態や気持ちになることはありましょう。そして、そのような形で神が私たちに御心を現し、時に私たちを鍛えられることがあります。この時、イエス・キリストを信じる人たちは、そのような恐れと疑い、試練の中に居ました。
しかし、イエス・キリストを信じた者には、既に「救いに入れられている」「神はあなたを今支えておられる」という事実があります。いえ、その救いの約束が、恐れや疑いに先立って私たちには確かに「ある」、与えられているのです。しかし、人間は弱い。信仰に生きるということは、救いの約束を見上げながら、世の荒波を、時に恐れ、神の救いが手に取れない、目に見えないもどかしさに疑い、迷いながらも、「にもかかわらず」主の約束の言葉を信じ、神の御手に縋ることを決断していく、選んでいく生き様なのではないでしょうか。
信仰の父と言われるアブラハムですら、神の言葉に何のせめぎ合いもなく、疑いも持たずただ従った人ではありませんでした。
アブラハムは、75歳で召命を受けて、行き先も分からず神の命じられるままに歩み始めました。それは、主なる神が「わたしはあなたを大いなる国民にし・・・地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12:2~3)と、子が与えられていなかったアブラハムに子孫が与えられることが約束されたからです。しかし、どれだけ年月が経たか分かりませんが、アブラハムには子どもが与えられない。アブラハムは神と自分との関わりの中で、絶えず「子孫が与えられる」という約束の言葉が実現しそうにないことに対し、神に疑い、苦しんでいたのではないでしょうか。
そして、お読みした15章では、子どもの誕生について、遂に神に疑いと不満を爆発させています。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのは、ダマスコのエリエゼルです」と。
それに対する神の答えは、何度も繰り返し語られていることとほぼ同じこと。「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と、神はアブラハムが期待をしたような目新しい確かなことは答えてはくださいません。神の約束の言葉は「変わらない」のです。しかし、主なる神は外にアブラハムを連れ出し、星を見せ「数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われ、アブラハムはその時「信じ」ました。人間には不可能と思える神の約束の言葉に対して疑いを長年持ち続けていたアブラハムですが、その時、神の約束が先だってあることを、神の約束を実現させるお方だということをアブラハムは信じたのです。神はその時、その信仰を「彼の義と認められ」ました。そして、やがて神の約束は実現することになります。
サンヘドリンからの脅しを受け、海の中にあるような恐れに一気に包まれた、初代の教会の人々でした。復活の主に出会い、教えを受け、天に昇られることの証人となり、ペンテコステの聖霊を受け、新しく希望を持って、歩み始めていました。
「イエス・キリストは死を打ち破り復活された」
この出来事、それは人々にとって信仰の言葉となり、弟子たちをはじめとする人々を、新しい神の救いの約束に生かす言葉でした。さらに約束された聖霊を与えられ、弟子たちには、イエス様がなさったような、神からの権能、癒しの業、悪霊を追い出す力などが与えられていました。
「にもかかわらず」、人々は、吼え猛る海にあるような恐れと疑いの中にありました。私たちが時に、信仰を持って生きながらも、恐れと不安、疑いにさいなまれる時のように。
その恐れと疑いの中から、しかし、彼らは恐れや疑いを振り捨てるように、ひとつになって祈ったのです。祈り、神に縋り助けを求めたのです。それは、信仰告白の祈りであり、神に対し、現在の状況を突き破ることを願い求める祈りでした。「思い切って大胆に御言葉を語ることが出来るように。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と。
すると一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出したのです。
それは、旧約の時代、シナイ山でモーセに神の言葉が臨み、律法が与えられようとしている時、山全体が煙に包まれ、山全体が激しく震えたという記述がありますが、おそらくはそれと同様の出来事が起こったのでしょう。そして、この時、一同は神の言葉を恐らくは聖霊による新しい言葉で語り出したのです。ペンテコステの出来事の再来とも言える出来事です。
その出来事が起こった時、「場所が揺れ動いた」というのは、モーセに与えられた律法を超えた、契約の更新というのでしょうか、新しい契約、新しい約束がイエス・キリストを信じる群に、はっきりと現されたことを、表しているのでありましょう。
大海の力に覆われるような恐れと疑いを持ちながらも、人々は恐れも疑いも、神への信仰に変えて、ひとつになって祈ったことで、彼らは新しい力を得ました。
弟子をはじめとする人々は、恐れと疑いの中で、多くの苦難にさらされながらも、ただ神に寄り頼み祈ることを選び、イエス・キリストを信じる群は、この後、より力強く、皆が神に献身をして、一つになって生きるようになっていきます。
イエス・キリストが私たちのすべての罪の贖いとなってくださったこと、そしてイエス・キリストの復活と、復活の命に自分たちも信仰によって与らせていただいていること、さらには終わりの時の完全な救いが現される約束に、恐れと疑いが起こるような時、「にも関わらず」、人々は、神の救いの約束を信じて歩み続け、苦難に負けず、苦しみのあるところに約束されている確かな希望を見つめながら、イエス・キリストを信じる群は、教会は、世界に広がって行ったのです。
信仰に生きながらも、恐れと疑いにさいなまれるような出来事に出会うことが、イエス・キリストを信じる私たちにもあります。生きる日々、また生かされている社会の混沌とした闇、私たち自身の生活や、対人関係の中でも、イエス・キリストを信じて生きているにも関わらず、問題が多く起こったりすることに、人生が混沌とした海の中に沈んでいるように思えて、恐れ、途方に暮れてしまうことがある。そして、恐れと神への疑いに心がいっぱいになってしまう。そして、そんな自分は信仰者としてイエス・キリストにふさわしくないのではないかとまで考えてしまう。
しかし、「天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方」と、敢えて「海」と天の父なる神に叫び祈った初期の教会の人々も、自分たちの中に「海」、混沌と恐れ、そしてそれらから生まれる神への疑いがあることを認めていたのです。そこから祈りによって立ち上がって行ったのです。
聖書が語る信仰は、私たちが恐れや疑いを持つことを許容する信仰なのではないでしょうか。
しかしその中にあっても、神に向かって声を上げて、誰でもなく、神に向かって祈りを献げる時、私たちは、神から新しい力、信仰を証しする力をも与えられます。私たちの人生には、混沌とした「海」がありますが、「海」を否定して無理やり無くそうとする必要はないのではない。それがあることを認めて、それすら、神のものであることに委ねて、神に期待し、神に向かって声を上げて祈るのです。
イエス・キリストを信じる信仰に立つ者に与えられる救いの約束は、目に見える現実「海」がたとえあろうとも、確かに私たちを包んでいます。私たちには確かな約束と希望があります。恐れず、歩みましょう。
今日はこれからイエス・キリストの救いの恵みを確かなものとするために、イエス・キリストの定めてくださった聖餐に与ります。今日、世界中の教会で、地球が自転をしているこの日の間中、絶えずどこかで聖餐式が執り行われています。
さまざまな苦難を乗り越えた世界の教会の働きが、ますます豊かにされ、また与るおひとりおひとりが救いの約束にしっかりと立ち、混沌と恐れ、疑いを超えて、イエス・キリストにある希望に生きることが叶いますように。