イザヤ書25:6~10
コリントの信徒への手紙一15:12~25
この一年、私たちの教会は3月にH兄、4月にT姉、8月15日にK児兄を、主の御許に送りました。また1月には求道者であられたYさんが召されました。また、私自身の個人的なことですが、私を牧師として育てて下さった牧師の先輩方や、信仰の先達の方々も多く天に送った一年でもありました。
この一年の巡り、信仰に生きた、私たちの大切な方々と、目と目を合わせて語り合うことが適わなくなったこと、礼拝堂に姿が見られなくなったことが、ふととても寂しくなります。今でもここに立って姿を探しそうになります。でも、私自身の中で、主にある先に召された兄弟姉妹たちが、今も生き生きと生きておられることを感じていることも確かなことです。
私たちは、死を恐れますが、聖書がはっきりと語っていることは、「死は終わりではない」ということです。イエス・キリストは、十字架で死なれましたけれど、復活をされました。イエス・キリストは復活され、その命が、初穂として神に献げられた、はじめての復活の実りとなられました。私たちすべての者も、イエス・キリストの十字架と復活によって、ただ信仰によって、はじめて神に献げられた復活の命=復活の初穂となられたイエス・キリストの復活に連なる、世の死を超えたまことの命の道、復活の命が私たち信じる者たちの上にも拓かれたのです。
今日は、召天者記念礼拝。死をこえた命、死者の復活ということを、考えてみたいと思います。
私は以前、何度か土曜日の夜のカトリックのミサに出席したことがあるのですが、その時、神父さんが説教の中で、余命宣告をされた人のところにお見舞いに行った時、その人はもうにこにこしていた、そして「神父さん、前に死ぬことは、新しい誕生だって言ってたじゃないですか!私はもうすぐ新しく生まれることになることが嬉しくてたまらないのです」と語られたことをお話しされました。確かに神父さんはそのことを語られたそうです。それにしても、神父さんの言葉をそれほどまでに信仰をもって受けとめて、余命宣告をされた時にも、その人が輝いていたことに神父さん自身が驚かれたこと、そして召された後、お連れ合いもにこにこと輝いていらしたということをお話しされました。
そう。確かに私が立ち会わせていただいた世の生涯の終わり=死の時、不思議なまでの平安と主の祝福がそこにあったことを憶えています。先だって、信仰に生きた私の信仰の先達の方が天に召された時、お連れ合いは、死はこんなにも崇高なものなのかと神を賛美したと、私に語ってくださいました。
「死は新しい誕生」、とてもやさしく言えば、きっとそうなのだと思います。イエス・キリストを信じる信仰にあって、この世の死とは、終わりではなく、天の御国に、神の懐に入れられること。だから恐れることはない。世の死とは、イエス・キリストにあって新しい命の扉を開くことに他ならないのだと信じています。
死を超えて天が拓かれました。それは、イエス・キリストの復活について初めて起こったことでした。聖書を読みますと、旧約の昔からあったわけではありませんでした。
旧約聖書に於いて、死とはシェオール=陰府、死者の国と呼ばれるところに降ると考えられていました。シェオールとはすべての死者の住みかと考えられていて、地下の灰色の地で、死んだ人たちは、そこで力も光もなく、神からも人からも切り離されて、影のような生活を営むと考えられていたのです。そして、地上に於いてその人のことを憶えている人が居なくなると、いつしか陰府からも失われてしまうと。
旧約聖書には、そのようにわびしく厳しい死の世界が何箇所も描かれています。例えば詩編6編「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入ればだれもあなたに感謝をささげません。(5)」というように。
しかし、信仰に生きる民は、神が陰府に死者を捨て置くようなお方ではない、そのような信仰の光を徐々に見るようになっていきます。詩編16篇「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」(10,11)のように。
旧約聖書のそれぞれの文書が書き上げられるまで年月は800年ほど掛かっていると考えられており、その間、歴史を通して人々は神との関係を見つめていく中で、徐々に思想の変化が表されています。人々は、死を超えた希望を仰ぎ見るようになり、やがて復活を信じるという信仰を持つ人々―ファリサイ派―も現れてきました。世の苦しみの果てに、陰府に降り、神からも離されて生きて、いつの間にか陰府からも居なくなるような悲しいことを、主なる神は、主を信じる者にされるわけはない、彼らは信じて希望を持っていたのです。
死を超えた希望を持つファリサイ派の人々とは、例えばヨハネによる福音書3章にはニコデモというファリサイ派の人が、イエス様のところに密かにやって来て、神の国について尋ねる場面があり、またイエス様が十字架に架けられた後、イエス様の遺体を引き取り墓に納めたのは、アリマタヤのヨセフという神の国を信じるファリサイ派の議員でした。復活を信じる信仰は「神の国」とも新約の時代には呼ばれるようになり、ファリサイ派の人々は、神の国の到来、そして神の国をもたらす救い主の到来を待ち望んでいたのです。
イエス様が、神が人となられたお方が世に来られたのは、そのようにユダヤ人ファリサイ派の人たちが復活の命に希望を置いていた時代でした。
彼らにとって神の国は信仰に於ける希望ではありましたが、しかし陰府は陰府として、打ち破られない死の国として、変わらず存在するものでもありました。だからこそ、陰府を超えた「命の道」(詩編16編)が現されること、また、今日お読みした旧約朗読イザヤ書25:9の御言葉、「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる」日が来ることを、待ち望んでいたのです。
そして神が人となられたお方、イエス様が世に来られ、このお方は、罪が無いのに、こともあろうに神の国を待ち望んでいるファリサイ派の人々はじめ、ユダヤ人の権力者たちの手によって十字架の死へと向かわされたのです。
ユダヤ人ファリサイ派の人々は、待ち望んでいた救い主が目の前にあらわれたのに、そのお方を救い主とは認めず、イエス様がご自身を「主なる神とひとつである」ということを語られたことで、神を冒涜した罪人、また人々を引き付け扇動した罪人として、また自分たちの権威を脅かす存在として憎み、イエス様を十字架に向かわせ、殺したのです。人間の深い罪が、イエス様を十字架に架けたのです。
イエス様は、死者の国、シェオール=陰府に降られました。人々のすべてがそうであったように。しかし、イエス様は神であられますから、人間の死者の国に留まられるようなお方ではありませんでした。ユダヤ人ファリサイ派の人々が待ち望んでいた、「死を永久に滅ぼしてくださる」お方、それがイエス様であられました。
そして、神の御子が死者の国に降られた=入られたことによって「死を滅ぼす」道が拓かれたのです。そのことが起こったのは、神が人となられ、私たちたちと同じ体を持つ者とされたから。人間の弱さ、悲しさ、死というものを体験されたからこそ、起こったことでした。―しかし、この時点で人間の死が永久に滅ぼされたわけではありません―神であるイエス様は、陰府を打ち破られ、復活されました。キリストは、眠りについた人の中から初めて復活をされたお方であり、復活の初穂となられました。
初穂というのは、最初の実り、神に献げられるべき収穫の実りであり、後に続く収穫の実りに先立つものです。初穂なるキリストが復活をされたのだから、イエス・キリストを信じて、自らの罪を悔い改め、主の十字架と共に罪を滅ぼされた者たち、そしてその死は、陰府に捨て置かれるのではない。初穂であられるキリストと共に復活の命に与ることが出来るのです。
イエス様は3日目に復活されました。墓は空になっており、イエス様は復活の新しい体で、弟子たちの前にその姿を現されました。
その様子は、お読みしたコリントの信徒への手紙一15章の、お読みしなかった前半部分に記されています。3節からお読みします。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」
コリントの教会の人々は、イエス・キリストが復活をされたことを伝え聞き、それを信じていました。しかし、キリストは復活されたけれど、でも死者の復活などあるわけは無い、そのように言っている人々が居たのです。そのような人々に向かって、パウロは死者の復活ということを、ここで語るのです。
そして14節で「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とまで語りさらに17節で「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお罪の中にあることになります」とまで語ります。
「復活」ということ。皆様は、信仰によって「私たち」も復活をするということを心から信じておられますか?パウロはここで、復活を信じない信仰は、無駄であり、むなしいとまで語っています。死者の復活、このことは、キリスト教信仰の中核であるのです。しかし、非現実的なことに思えますし、聖書が語ることはちょっとぎょっとする事柄かもしれません。
新約聖書は、「復活」ということを明確に語るのですが、しかし、それは人間の死後にすぐに起こることとは実は語られていません。
キリストは十字架の後、3日目に陰府を打ち破り新しい体で復活をされ、その後、天に昇られました。その時天使たちが、「キリストは昇って行かれたままの姿でまたおいでになる」と弟子たちに告げたことが使徒言行録一章で語られていますが、私たち人間に於いては、キリストが天におられる間は、死んだ後、私たちもすぐ復活するということではないようなのです。とは言え、聖書は順序だてて、死後のことを語ってはおらず、明確なことは分からないというのが正直なところではありますが。
聖書のあらゆるところから読み取れることは、キリストに結ばれて、人は世の命に死んで陰府に下るのではなく―キリストにあって陰府は打ち破られたのですから―キリストのおられる天に昇ることが語られていると思います。
仏教では、輪廻転生と言って、生まれ変わり、何度も修行を重ねて、いつの時か、生きている時の行いを認められて極楽浄土、涅槃に行き着くと語るようですが、聖書の語る信仰には、輪廻転生、生まれ変わりはありません。行いによる修行もありません。イエス・キリストを信じて人は救われて、天に昇るのです。イエス・キリストを信じること、これはただひとつの救いに至る道です。
ヨハネの黙示録によれば、天は父なる神と御子キリストを中心とした、輝かしい神の国。そこで、特に世で苦しんだ人々、殉教者、召された人々は、神を賛美礼拝をしている、そのような世界です。今、私たちの愛する、キリストにあって先に召された方々は、そこに居られます。そして、今日の礼拝、召天者記念礼拝は、天の礼拝と、この礼拝が繋がっていることを憶えて礼拝を献げています。
しかし、そこですべてが完結している訳ではないのです。さらに先があります。
パウロは語ります。「死がひとりの人によって来たのだから、死者の復活もひとりの人によって来るのです」(22節)。死がひとりの人によって来たというのは、最初の人アダムの罪によって、アダムに続く人間のすべてに罪が入り込み、罪の代価としての死が、人間に定められたということです。しかし、神の御子イエス・キリストが来られ、死、陰府を打ち破り復活された。キリストによって、すべての人が生かされるようになる、復活するのだとパウロは語るのです。
それは、キリストが再び来られる日。キリストの再臨と呼ばれる、世の終わりの日。使徒言行録1章には、天に昇られたキリストが、そのままの姿で再びおいでになると、天使によってその時のことが語られていますが、その時、既に天に召された人も、地上に生きている人も、キリストに属する人たちは、新しい体をもって復活すると言うのです。
今日お読みした御言葉よりも、詳しく同じパウロが書いてある御言葉がテサロニケの信徒への手紙一4章に語られています。お読みします。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」。
これが聖書が語る終わりの日に起こることであり、私たちの復活、死者の復活が起こる時の出来事です。
その時、キリストは世のすべての支配、権威、勢力を滅ぼし、世のすべてを父なる神に引き渡され、最後に死が滅ぼされると言うのです。世とは聖書に於いて、悪の力に支配されている世です。神は悪のすべてを最後に打ち破られるのです。
さらにお読みしませんでしたが、その先に、ヨハネの黙示録によれば、復活の体をもって私たちが入れられる、苦しみも労苦も死もない、新しい新天新地があらわされる。聖書の救い、世の死を超えた救いは、そこに至っていくのです。
聖書が語ることは、壮大すぎて、私たちの世の常識や思いを遥かに超えており、なかなかそのまま信じられないかもしれません。
しかし、これらは聖書が語っている、私たちの信仰です。私たちはこれらの御言葉を心でよく吟味しつつ、希望をもってすべてを信じるべきです。
パウロは、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人=既に召された人も滅んでしまったわけです」と語っています。
キリストが復活されたこと、それを信じることすら難しいと思われる私たちかも知れません。さらに死者の復活ということまで、とてもとてもと思われるかも知れない。パウロがつくったコリントの教会の人々ですら、信じられなかったのですから。
しかし、死者の復活を信じなければ、私たちの愛する先に召された方々が、今天におられることすら信じないことになりましょう。
死者の復活、これは聖書が確かに語っている信仰の究極的な救いの姿です。
主なる神が、イエス・キリストが、その命を賭けて拓いてくださった愛であり、命の恵みです。
今、天におられる兄弟姉妹も、そして、今世にある私たちも、やがてキリストと共に復活する。世の死は終わりではない。永遠の命に至る、ひとつの扉を開くことなのです。
その扉を開いて行くために、私たちは世において、御言葉によって日々自分自身を吟味し、神を礼拝し賛美しつつ、神と共に日々を信仰と希望をそして愛をもって生き抜くものでありたいと願っています。