「見よ、義の太陽が昇る」(2019年12月15日礼拝説教)

マラキ書1:2~3 3:19~24
コリントの信徒への手紙一4:1~5

 待降節第三主日、今日灯された蝋燭は紫を明るくしたピンクです。待降節、初代教会の頃から、この時節は断食をして神に心を向け、主をお迎えするに相応しく自分自身を整えて行く時期とされていましたが、3週目のピンクは、断食が和らげられること、そして主が来られることが近いということの喜びを表す色となります。
待降節は、イエス・キリストが世にお生まれになられる、そのことを待ち望むと同時に、終末のキリストの再臨を待ち望みつつ、今の自分を省み、自らを整える時でもあるのです。主がもうすぐ来られる、その希望に心の灯火を輝かせつつ、クリスマスまでの時を過ごしたいと願っています。
 
 本日は、旧約聖書の最後、マラキ書をお読みしました。
 旧約聖書の最後は何が書かれているのか、それは「主の日」、すなわち「終末」「終わりの日」のことが語られています。「主の日」「終末」ということについて、少し複雑なのですが、聖書は実はふたつの意味を含ませて語っています。
その一つ目の意味は、救い主が世に来られる日のこと。救い主が世に来られる日、それは、2019年前、イエス・キリストの誕生として現されました。もうひとつの意味は、新約聖書に強く語られるのですけれど、十字架で死なれたけれど、復活され、天に昇られたイエス・キリストが再び来られる日、キリストの再臨の日、そのことも「終末」として語っているのです。「主の日」という言葉は、ちょっと難しいですが、そのように二重の意味があるのです。
そして2019年前、神が人となられた、イエス・キリストの誕生とご生涯の出来事すべてが「終末に起こる」「終末的」な出来事として語られます。主が来られたのですから「主の日」はひとつの意味で既に到来しているのです。
しかし、イエス・キリストは死んで復活され、今は天におられます。そして、私たちの目には、世は終わっているようには見えません。私たちはキリストが来られてから2000年以上経った今も、世に新しく生まれ、苦しみや悲しみのある世を生きています。
 そして聖書は、そのような、既にイエス・キリスト、主が来られた後、主が再び来られる時に至るまで、私たちが生きる今の時代を、「終わりの時」と呼んでいるのです。この「終わりの時」を、キリストが再び来られる時―もうひとつの意味での「終わりの時」までを、どのように生きるのか、それは今を生きる私たちすべてに問われていることです。

 このマラキ書というのは、3章という短い書物です。この書は紀元前5世紀頃、バビロン捕囚からイスラエルの民が解放されて、エルサレムへの帰還が赦され、バビロン捕囚によって破壊されたエルサレム神殿を再建することが適いましましたが、神の約束された栄光はなかなか来ないと思われる時代を過ごしていました。人々は待ちくたびれて、信仰への熱意が覚め、神に従うよりも、自分の願望を中心に生きた方が得なのではないかという思いが、多くの人たちの誘惑として擡げていた時代でした。その中で、神殿でささげられる祭儀が形だけのものとなってきていることをマラキを通して主なる神が嘆きつつ語り、主への信仰を取り戻させようとしている書物です。

 この書の語り口は、他の預言書とは趣を少々異にしていて、神と民との間の「質問形式」で多くの部分が進んで行きます。
 最初は神の言葉があり、それに対する民、人々の神に対する問いかけから始まります。それは、1章2節の中ごろ「どのように愛を示してくださったのか」=どのように神は私を愛してくださったのか、という問いかけです。
 この神への問いかけは、もしかしたら私たち自身の神への、心の奥底に潜んでいる叫びと似ているということはないでしょうか。神を信じて生きていても、尚起こってくるさまざまな人生の問題に、神はどのように私に愛を示しくださっているのか、愛を示してはくれていないではないか?などと神への疑問のうちに問い掛けることが私たちの中にもあるのではないでしょうか。

 ここで語られる「愛」は旧約聖書の書かれたヘブライ語で「アーハブ」という言葉です。神の自由な選びによる愛を表します。そして1:2の「どのように愛を示してくださったのか」という人々の問いに対し、主なる神は「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と返しておられます。
 ヤコブとエサウというのは、旧約聖書創世記の中に登場する、アブラハムの子であるイサクの息子であるふたりの兄弟のことです。ヤコブが弟でエサウが兄。イスラエルでは、長男の権利が非常に強いのですが、ヤコブは兄エサウの受けるべき祝福を騙し取るのです。兄の祝福を弟が奪い取ることなど、主なる神がお赦しにならなければ実行出来なかったことでしょう。それが為されたということは、主なる神が、祝福を弟のヤコブに授けることを赦した、認めたことになりましょう。主なる神は、兄のエサウではなく、弟のヤコブを愛したのです。
 ヤコブという人は、後に主なる神によってイスラエルという名前に変えられ、イスラエル民族の基となります。これは後の時代へ向けての象徴的な出来事となります。
 アーハブというヘブライ語の愛は、「博愛」ではなく、実に「偏愛」を意味する言葉です。その「偏愛」の意味するところは、例えば夫は妻を、他の人に対するのとは違う愛をもって愛し、妻は夫を他の人に対する愛とは違った愛をもって愛します。お互いに相手を愛して選んで結婚をする、夫婦は一対一の特殊な関係です。そのことを思い描いていただければと思います。
 ヤコブという人は狡猾で、あまり褒められたところの無い人のように思われもしますが、そのようなヤコブを、主なる神は、神ご自身の自由な選びによって、自分の傍らにいる存在として特別に愛されたということでありましょう。
 そして主なる神は、ヤコブの子孫であるイスラエル民族への特別な愛と「選び」ということについて、申命記7章で、「あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」からと語っておられます。

 この「貧弱であった」から選んだという神の言葉、これらのことも、私たち人間が他者を「愛する」ことに似ていないでしょうか。
 私たちは、ひとりの人を愛する時、「この人は立派だから」という理由で心の底から愛するでしょうか?もちろん「立派であったほしい」そうあって欲しいと望むことはありましょうし、「立派である」ということは憧れにもなりましょうが、人の心が本当に動かされるのは、寧ろその人の弱さや悲しみに触れた時、なのではないかと私には思えたりします。寧ろ弱さや悲しみを知ることが、相手の人格の根底にあるものに触れることになり、「立派だから」愛するということとは、別の意味の、人格的な、良い面も弱い面も、欠点と言えることも、喜びの時も、苦しみの時も、分かち合えるような愛の関係に結ばれて行くのではないかと思えます。それには葛藤があり、長い年月が掛かることでもありましょう。
こう言ってしまいますと、主なる神と私たち人間の関係というのは、夫婦に求められる関係と非常に近いものに思えます。そして聖書は、神と私たちひとりひとりの関係を、夫婦の関係に譬えて語っていることは確かなことなのです。夫は主なる神であり、妻は私たち人間です。
現代社会で求められる夫婦の関係と少し違うと思えることは、聖書の語る夫婦の関係、また神と人との関係は、人格的な交わりであることに違いはありませんが、対等な関係とは少し違うということです。聖書では古代社会のあり方を踏襲しつつ、男に主権があり、女は従属的な関係と描かれています。それと同様に、神と人との関係は人格的に結ばれつつも、主権は神にあり、人間は神の被造物であるという意味で、従属的な存在です。そして主権を持つ側は、従属的な関係の者に対する責任があり、徹底的に愛し抜くことを求められています。
主なる神は、イスラエルの民を、そして私たちを、夫が妻を愛するような人格的な関係、葛藤があり、「尚」「にも拘らず」、愛し合う関係の中に置いていてくださっています。そして、夫婦の関係にとって何よりも大切なことは、互いに対して「忠実である」ということではないでしょうか。背を向けて、互いに向き合う「忠実」さが失われたならば、その関係は壊れます。人格と人格のぶつかり合う関係というのは、選びの中で、互いに忠実であり続けることが求められる厳しさがあります。

 夫婦の愛のように結ばれた、主なる神とイスラエルの民の関係ですが、イスラエルの民は、神に背き続けました。ホセア書では、イスラエルの民を、「姦淫の妻」と譬えて語り、妻の不貞に苦しむ夫を主なる神として語っています。
神はいつもはじめの愛に対して忠実であられたのに、人間は神を裏切り続け、神に対して忠実ではなく、神を悲しませ続けたのです。この神に忠実ではなく、神に背を向け、神に背き続ける性質というものは、はじめの人、アダムとエバが、神のただひとつの命令、「園の中央の木からの実を取って食べてはいけない」というただひとつのことに、蛇の誘惑にそそのかされて背いてしまったことから始まる人間の罪=原罪によるものでした。
そしてすべての人間は世に生を受けて、神の愛よりも、世の目に見えるところ、手に取れることに目を奪われ続けながら生きていきました。それらは聖書の忌み嫌う「偶像」と結びついて行きます。
 聖書は偶像に心を魅かれて生きることを厳しく禁じますが、偶像とは何かと言いますと、石や木で彫った像がまず上げられます。それらは人間が手で造ったものにすぎませんが、人間はそれらに自分の心、欲望を投影します。この像があれば、所謂「ご利益」があり、「私」はこれに縋れば、他の人はたとえ災いを受けても、自分だけは世を安泰に都合よく生きていける―そのような人間の思い描きやすい、人間のこの世に於ける欲望の投影されているものが聖書の語る偶像です。聖書が語る、ただおひとりのまことの神と人間の関係は、永遠に至る、弱さも悲しさも受けいれ合う人格的な交わりですのに、偶像と人間との関わりは利害関係であり、世のさまざまなことに強欲になり、自分の利益だけを求める、悪を行うことの基となるものです。
 イスラエルの民も、そのような安易に欲望を叶えてくれそうに見える偶像に絶えず心引かれ、自己中心的になり、まことの神、主に背き続け、主なる神との愛の交わり、愛の関係を、自ら破壊をしていきました。
 そして、神を悲しませ続け、神との関係が失われる中、バビロン捕囚によって国は滅び、神殿は破壊され、多くの人が悲惨な死を遂げることになりました。主の憐れみによって、ひとりの人、ペルシャ王キュロスという人が起こされ、エルサレムに戻ることが赦され、人々は主なる神に立ち帰って神殿を再建しましたが、人々の苦しみは晴れることはなく、主の約束された救い主の到来は訪れず、人々は待ちくたびれてしまっていたのです。
そして、主に対して疑問を問いかけ続けているのです。「どのように愛を示してくださったのか」と。

 主なる神は私たちの目には見えませんし、信じたからと言って、偶像に人間が求めるような安易に与えてくれそうな所謂「ご利益」のような人間の欲望を満たすものを簡単に思うように与えてくださらない―それは人格的な交わりの中で、私たちを、はじめがあり終わりがある世の命を超えた、神共にある、まことの救いに導くために、私たち人間が罪の悔い改めに導かれ、神に造られた人間が、神の与え給うまことの命への「気づき」に導くために、親が子を鍛えるように、神が導いておられるからであり、悔い改めへの「気づき」こそが神の御手のうちに生きることの第一歩なのですが―しかしその人間をお造りになられた神の愛に、人間は気づくことがなかなか出来ず、神の愛を信じきれず、世のことに翻弄されながら生きている。神は私を愛してくださっていないから、願うものを与えてはくださらず、苦労や悲しみを与えているのではないかと疑う。―それは現在の私たちに於いても、陥りやすい不信と言えるものではないでしょうか。

 マラキ書にはさまざまな問いかけと答えが語られていますが、3章では突如として、人間の問いかけから急にかけ離れたように、主の日、救い主が現れる日が来ることが告げられます。
 それは神の秘められた計画の日。
 その日は、炉のように燃える日であると語るのです。
 その日に、主の名を畏れ敬う者たちには、義の太陽―救い主を現す言葉であり、神の義、神の正しさが輝き出る―が昇る、その翼には癒す力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て飛び回る、と。救い主が来られる日、神に従う人たちは、それまで牛舎に閉じ込められた子牛のようだったけれど、閉じ込められていたところから躍り出て喜び飛び回ると。
 聖書の語る、主の日、終末というのは、神の裁き、義しき神のまことの公正と正義が顕される日であり、その日にこそが、世で苦労をしながら「どのように愛を示してくださったのか」と神に問い続けるイスラエル、そして私たち人間への、神の愛の表れ、神の回答であると語れているのです。

 そして、イエス・キリストが世に来られました。神が人となられたのです。
3節の「大いなる主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」という預言の言葉は既に成就しました。イエス様は、洗礼者ヨハネを「来るべきエリヤである」とマタイによる福音書11章で語っておられます。エリヤは、イエス・キリストに先立って、主の道を整える人、主に背きながら生きる人間を、悔い改めに導くために神に遣わされた人でした。
 そして遂に主なる神は、天高くから人間を見つめたり、人間の背きを悲しんだりすることに留まられるのではなく、神自らが人間のもとに来られたのです。それは、神が、イスラエルを、そしてご自身が造られた人間のすべてを、ひとりひとりを、夫が妻を愛するように偏り愛するほどに愛される故でした。命を掛けて、妻である人間を罪の縄目、滅びの罠から救い出すためでした。
 人間は神に背いたままでは、自分の願望や欲望を成し遂げることだけに固執をし、偶像により頼みながら生きていることに於いては、まことに終わりの日、恐ろしい炉のように燃える日に、神から完全に引き離され、滅びてしまう。人間は罪あるままでは人間自らが重い裁きを、罰を受けねばならなくなる。
イエス・キリストは、そのように定められている人間の神への背きの罪を悲しみ、憐れまれ、その人間の受けるべき苦しみを、主イエスご自身が、十字架という死を、罪ある人間に代わって経験されることに於いて、イエス・キリストを主と信じて、自らの罪を認め、罪を悔い改め、神に立ち帰るすべての人の贖いとなられたのです。イエス・キリストが世に来られ、私たちの贖いとなって死なれた、そのことを信じることに於いて、人は命の根源に於いて救われる道が拓かれたのです。

 今は主の救いの十字架が世に既に立てられている時であるけれど、まだ終わりの時は完成されていない。そのために世には、さまざまな苦労は残っている世に生かされる私たちですけれど、神はあなたを愛しておられるのです。命を捨てるほどに。そして、私たちのすべてが、罪を悔い改め、神に立ち帰って世にあって神と共に生きることを、主は待っておられます。
「どのように愛を示してくださったのか」
 その問いに対する主なる神の答えは、「命を捨てるほどに愛している」であるのです。

 この愛に生かされる者として、この終わりの時を生きる私たちひとりひとり、主イエスの御前に忠実な者でありたいと願います。
 神の愛を受けた者として神を愛し、神の教えに忠実でありたいと願います。そうして神との関係を築いていく中で、主の祝福は私たちに満ち溢れることでしょう。
 この世を主と共に歩むならば、「その日」、主が来られる日、義の太陽の昇る日は、私たちにとって、躍り出て飛び回るような喜びの日となるに違いありません。
 主はもうすぐ来られます。