「神が人となられた日」(2019年12月24日クリスマスイブ礼拝)

 神の御子、救い主、イエス様の誕生の夜を迎えました。
 暗闇の中に灯される蝋燭の灯火は、私たちひとりひとりのさまざまな心の重荷、世の問題の只中に、イエス・キリストが到来され、光を灯されたことを表しています。そして、ここにある一本の白い蝋燭は、キリストの蝋燭。世にイエス・キリストがまことの光として到来された、その灯火です。

神というお方―皆様は、「神」と言うと、まずどういうことをイメージされますでしょうか。
聖書は、「神は愛です」(ヨハネの手紙一4:16)と神のご性質を語ります。神は、何よりも「愛」であられ、聖書の語る愛の内容は、忍耐強く、情け深く、ねたまず、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばず、真実を喜び、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える、そのような性質として語られています。
日本人に於いては、その風土から、「神」と言うと、森羅万象すべてに神が宿っているようにイメージされる方が多いのではないかと思います。また、それらは自分の願望を叶えてくれるもので、また自分だけを特別に守ってくれるもので、山も、山にある大きな木も、石や木で作った像、果てはブレスレットになる小さな石ころまで、「神」として拠り所とされる方も多いのではないかと思います。そして、それらの「神」とおぼしきものは自分の願望を叶えてくれるものだと期待するのと同時に、歯向かったり、大切にしないと「祟りがある」と考えて、気持ちの持ち方で、あっという間に得体の知れない恐ろしいものに変わったりします。聖書はこれらのものを「偶像」と呼んでいます。
しかし、聖書が告げることは、月も星も、天体も、すべて神によって造られたものであり、また木や石で作った像や作り物は、ただ人間が刻んだ「もの」であり、何の力もないということ。そして世にあるすべての物は、万物の創造者であられるただおひとりの神によって造られたものであるということです。
 キリスト教会はそのことを信じています。そして、すべてをお造りになられたただおひとりの神様が、人となって、世に来られた―それがクリスマスの出来事であるのです。

 すべての物をお造りになられたただおひとりの神が人となられた―何と不思議なことでしょうか。
 その理由は、この分厚い聖書、それも旧約聖書と言われる、イエス・キリストがお生まれになる前の時代に1000年近い年月を掛けて書かれた書物をじっくりと読むと分かってきます。
 それは愛であられる神が、人間をご自身の喜びとして、神と向き合って生きる者として造られたのに、はじめの人アダムとエバが神からのただひとつの「これはしてはいけない」と言われていたことを、悪魔を象徴する蛇の誘惑によってやすやすと破ってしまったことから始まりました。この神の言葉に背いたことによって、人間には愛という性質の神様に背く、「罪」という性質が生まれ、すべての人は、神に背いて、愛に背いて、暗い罪という闇の性質を持つ者として生まれることになったのです。
 そのような人間の罪という性質から、神の造られたこの世界の中にあって、人間は自分本位となり、自分の利益や快楽をひたすら求め、権力のある人々はその権力を誇りその上に胡坐をかき、その他の多くの人々を見下し、人と人との間に階級や格差が広がり、富む人は富み、労働者は苦しい労働を強いられることになり、貧しい人はひたすら貧しくされる、そのような社会が作られていくことになって行ったのです。
 そして、人々は、手に取りやすい「偶像」―はじめにお話しをした人間の手で造ったものですとか、さまざまな森羅万象を拝むようになり、創造者であられるおひとりの神様から、どんどん離れて行くことになったのです。

 神はそのような人間のことを悲しまれました。何とか、人間に神に立ち帰って欲しいと、旧約聖書に於いて、神はさまざま働かれましたが、人間の側は神の愛に立ち帰ることは出来ず、その言葉と心と行いによって神に背き続けました。
そんな人間に対して神は激しいまでに憤られることすらありましたが、神の人間に対する愛は悲しみや怒りにも増して激しく強く、何とか、罪の中で苦しむ人間を救いたいと願われました。偶像は自分によくしなければ恐ろしい報復を加えるように思えますが、まことの神は、忍耐の源であられ、人間の罪を悲しみ怒りながらも、人間が御自分に立ち帰るのを忍耐強く待ち、ご自分で働かれ、導かれる神であられるのです。
そして、神が最後の決断としてなされたことは、ご自分が人間となり、人間に神御自身がすべての人間に分かる言葉で語られ、また神というお方がどのようなお方であられるのか、そのあり方、ご性質を、自らの存在そのもので明らかに伝え、すべての人が神の愛のもとにあること、すべての人を、神は救いに導きたいと願っておられることを伝え、さらに、まことの救いの道を、すべての人に顕すためでした。

 神が人となられた時代、イエス様のお生まれになったパレスチナの地方は、ローマ帝国の支配下にありました。ローマ皇帝が神のように君臨しており、富む人は富み、いつもどんちゃん騒ぎで汚い話ですが、たくさんの飲食物を食べてお腹いっぱいになっては吐き戻し、また食べる、そんなことをする人々が多かったのです。その反面、貧しい労働者たちがおりました。奴隷制度もあり、人格を与えられずに生きる人々も多くいました。労働者たちは、重税に苦しみ、食べ物も少なく、子どもが生まれてもその不衛生さと貧しさのために出生死亡率は非常に高いものでした。
 イエス様の両親となった、マリアとヨセフは、貧しい労働者階級の人々で、ヨセフは大工でした。
 母マリアは、ヨセフと婚約をしている時、聖霊によってお腹に神、神の子イエス様を身籠りました。イエス様の出生に纏わることは、複雑です。この罪の世の複雑さをすべてその身に帯びて生まれて来られた如くに複雑です。
 自分の子ではないことを誰よりも知っている、イエス様の父となるヨセフの心の葛藤は、知るに余りありますが、ヨセフはマリアが聖霊によって神の子を身籠ったことを信じて、マリアと結婚をいたします。ヨセフはおそらく、信仰深く、また本当に愛する娘マリアを信じていたのでしょう。
 
 そんな中、税金を一人残らず取りあげるためのローマ帝国の政策として、住民登録をすることが命じられ、ヨセフはマリアを連れて、ガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムへ旅をいたします。そしてベツレヘムの馬小屋で、神が人になられたお方、イエス様を産んだのです。それは、宿屋には彼らの泊まる場所はなかったからという理由でした。
 神が人になられたお方、イエス様がお生まれになった時、居場所が無かったのです。罪の世は、神をお迎えすることが出来ないような場所になっていました。
暗く、不衛生な馬小屋で、イエス様は産声を上げ、馬の餌箱である飼い葉桶に布にくるんで寝かせられました。神が人となられたお方は、居場所の無さ、貧しさ、寒さ、不衛生なこと、それら生きる困難な只中にお生まれになられました。

 神が人になられた日、その日は星の美しい夜でした。
 その夜、神が人になられたお方、イエス様の誕生が真っ先に知らされたのは、貧しく、夜通し羊の世話をする羊飼いたちでした。
 羊飼いというと、牧歌的なイメージを私たちは持ってしまいますが、過酷な仕事です。夜には羊を狙う獰猛な動物たちから羊を守らなければならないのです。そして、ユダヤ人の中に於いては、律法を守れない罪人と見做され、蔑まれていた人々でした。
どうして律法が守れないかと言えば、羊の番を毎日毎晩せねばならず、ユダヤ教の律法で定められている安息日という「休まなければならない日」をも、休むことが出来なかったからです。
 何と理不尽なことでしょうか。羊の命を眠る時間も惜しんで守る仕事をする人たちが、「罪人」と呼ばれる理不尽な社会であるとは。貧しく一生懸命、命を削りながら働きながらも、人々から罪人と呼ばれる羊飼いたちに、人となられた神が救い主誕生の知らせは、真っ先に、星の美しい夜に、伝えられたのです。
あなたがたの苦労を私は知っている、あなたがたを私は愛している、わたしはあなたがたを世の苦しみから救い出すと、言わんばかりに。

 神は、人間の罪の世を憐れまれ、罪の世にあって、蔑まれ、貧しく、しかし懸命に働く人々にその誕生のお姿を顕されました。
 イエスという名前は、「神は救い」という意味の名前です。
 イエス様は、救い主。暗い世、罪の世にあって、苦しみ喘ぎつつも、懸命に生きる人々を神は憐れまれ、その人々に神の愛をまず示されました。
 すべての造り主であられるただおひとりの神は、情け深く、人間の苦しみを見過ごすことなどお出来にはならなかったのです。
 そして、人々から理不尽に蔑まれながらも、懸命に命がけで働き生きる人々に、まず神の救いが現されたこと、救い主の誕生は告げ知らせられたのです。
 
 この神の愛は、今、私たちに現されました。
 不安、苦しみ、悲しみ、それらの中にある私たちに神の愛はまず現されました。そして、すべての人が、まことの神に立ち帰ることを、忍耐強く待っておられます。このお方を、イエス・キリストの救いをすべての人が信じて、救いに入れられることを祈っています。

 私たちの住むこの房総の地域は、この年、水害による大きな被害を受け、この寒さの中、今尚ブルーシートの張られた家にお住まいの方々が多くおられます。
 神の愛が、今、その方々の上に現されますように。世の苦難の中にいる人々に、神の愛が現されますように、この日、強く祈りたいと思います。