「神に導かれる旅」(2020年1月5日礼拝説教)

ホセア書11章1節
マタイによる福音書2章13~23節

 新しい主の年、2020年の最初の主日礼拝を共に献げられますことを感謝いたします
 この年の初め、ひとつの問いかけをさせていただきたいと思います。今、皆様おひとりおひとりの心の真ん中を大きく占めていることは何でしょうか?心に思い煩い離れない大きな物事はありますでしょうか?大切にし、いつまでも握り締めておきたいものはありますでしょうか。それは神を愛することと結びついているでしょうか。人を愛することに結びつく大切なものでしょうか。握り締めることで、それが却って自分自身ひいては身近な人を苦しめていることはありませんでしょうか。
 今日は、イエス様の両親であるヨセフとマリア、そしてヘロデ大王のこと、複雑に絡み合うイエス・キリストのご降誕を巡るいくつかをお話しさせていただきながら、私たちの心の真ん中にあることについて、イエス・キリストを心にお迎えして生きることについて思い巡らせたいと願っています。

 週報にも記しましたが、所謂日本のお正月、新年の祝いというのは、クリスマスの中、イエス・キリストのご降誕の出来事の中にあります。元旦は、イエス様のお誕生から数えて8日目であり、主の初めての宮もうでの日、割礼の日であり、イエスという名の命名の日であること。そして1月6日は、公現日、先週お話しいたしました、東の国の博士たちが、イエス・キリストにお会いし礼拝し、救いがユダヤ人を超えて全世界に向けてのものであることが証しされた日です。
 そして、私たちプロテスタント教会は特に意識をして過ごしてはいないのですが、カトリック教会に於いては、12月28日は、「幼児殉教者」を覚える日とされているそうです。それは、今日お読みした16節からの「ヘロデ王の幼児虐殺」の出来事を、「最初の殉教」と見做し理解しているからなのだそうです。殉教―主の十字架の御苦しみの欠片を担う世の死です。
 この出来事で幼子イエス様の命は救われていますが、多くの子どもたちが、キリストのために殺されている。この出来事を教会は、歴史の中で、大きな傷みをもってその意味を読み解いて覚えて来たということなのでしょう。新約聖書の出来事の中で、キリストの十字架を除いて、最も悲惨な出来事と言われるこの出来事を年の初めに読ませていただくことになり、「年のはじめは晴れがましいことを語り合い、祈願する」というような日本の一般的な風習から外れてしまっていて、少し申し訳なく思います。
 待降節第一主日からマタイによる福音書を読み始めさせていただいており、少しずつ読み進めていきたいと願いつつ選んだ御言葉なのですが、ここを年初めに選びつつ、クリスマスの出来事というのは、神道の語る「年神をお迎えし」「年の幸福を祈願する」というような世の考えとは考え方を異にして、偽りを捨てて、世の闇を、私たちの心の奥底を、殊更にあぶりだすような出来事なのだということを改めて思います。クリスマスの時期は心が辛く、暗くなると仰る方がおられます。それはクリスマスの出来事は、人間の世の闇をあぶり出すからでありましょう。そしてキリストの光は、闇の深いところに光を放ちます。

 神の御子イエス様のご生涯というのは、栄光に輝く神の子が、すべての人の僕となられて、十字架の死を遂げるための、十字架へと向かうご生涯でした。神は人に仕え、人のために命を捨てるために、世に生まれて来られたのです。アドベントクランツ、私たちの教会は紫を使っていますが、赤い蝋燭を用いる教会が多くあります。赤い蝋燭の赤は、イエス・キリストの十字架で流される血を表しています。そのご降誕のはじめから、そのご生涯が十字架の死、すべての人の救いのための贖いとなられることが定められていることを見据えた蝋燭です。
 この世というのは、悪の力が渦巻くところである、それが聖書の語っている世の理解です。世の権力者は私利私欲にまみれ、自己愛に満ち、自分の権力を保持するために手段を選ばないような残虐さがある。その残虐さによって多くの人が命の危険にさらされる、命を失う。このことは歴史の中ではあまりにも多く、また今の世界を見渡しても、そのことがどれほど散見されることでしょうか。そのような暗い悪の力が支配する世に、神が光として来られた、すべての人を救うために。神がすべての人の罪の犠牲として、血を流し死ぬために、神が自ら人となり世に来られたのが、クリスマスの出来事なのです。人間の心をすべて露わにする、そのような出来事です。

 宝物を携えた占星術の学者たちが帰って行った後、主の天使がヨセフの夢に再び現れて申しました。「起きて、子どもとその母親を連れてエジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と。そしてヨセフはマリアとイエス様を連れて、エジプトへ逃げました。

 ヘロデ大王は、占星術の学者たちを「ひそかに呼び寄せて」星の現れた時期を確かめ、学者たちに「ユダヤ人の王」と呼ばれる子どものことをよく調べて、見つかったら知らせてくれ」と頼んでいましたが、学者たちは「ヘロデのところに帰るな」と夢で告げられたために、また何よりも学者たちは、心からイエス様を伏し拝み、そこに救いが現されたことを信じたがために、ヘロデとの約束を守らずに「別の道を通って」帰って行ってしまいました。
 ヘロデは、学者たちが戻ってくることを今か今かと待ち構えていたに違いありませんが、遂に学者たちは自分との約束を破り、自分に「ユダヤ人の王」と思われる子どもの居場所や様子を告げないまま自分の国に帰ってしまったことを知り、怒りに怒りました。そして、ベツレヘムとその周辺一帯に居た二歳以下の男の子を、誰彼構わず一人残らず殺させたのです。

 ヘロデ大王と呼ばれるこの人は、嫉妬深く残虐であることでその名をとどろかすほどの人でした。ヘロデ大王はユダヤ人ではなく、ユダヤ人と敵対するエドム人でした。しかしローマに狡猾に取り入っていくことによって、ローマの元老院の公式議会で「ヘロデはユダヤの王である」と宣言されることを得て、ユダヤの王とされたのです。ユダヤ人の中から血筋によって、また信仰による崇敬をもって選ばれた王ではありませんでした。そしてユダヤ人たちからは、エドムの血を引くものとして、信頼を得ることは適わず、その点でも多くのコンプレックスや怒りをヘロデは絶えず持っておりました。
 エルサレムの第二神殿をソロモンの時代のものに匹敵するほど立派なものに増築したり、さまざまな建造物を造ることにも心血を注いだ優れた面もありましたが、元来の性質にプラスされたコンプレックスから来る嫉妬心と残虐さというものは比類ないほどで、自分の地位を脅かす者であれば、家族を、さらに最愛の妻まで殺してしまうような王だったのです。
 そして、自分の知らないところで「ユダヤ人の王」が生まれたということを聞かされ、自分の権威を脅かす、「ユダヤ人の王」となる可能性のある2歳以下のベツレヘム周辺の男の子を虐殺を命じたのです。
 ヘロデにとって、世の権力欲という欲望と残虐を味わい尽くした先にあるものは、恐れと不安でしかなかったのです。自己を愛する中で神を忘れて、世の権力を握り締めた果ては、孤独で不安、誰が自分を追い落とし、また命を狙っているのか、恐怖と猜疑心の塊になっていました。心の真ん中に握り締めている果てしない権力への願望は、ヘロデ自身を苦しめるものになっていました。それらのものをもし、ヘロデが心の真ん中から外して、人を信頼して明け渡したならば、自分自身もまた周囲の人々も平安であったはずなのに。
 新年礼拝で、旧約聖書の「コヘレトの言葉」をお読みしましたが、世のことは「すべて空しい」とコヘレトが語ることは真理であり、人間が自分の欲望を満足させるために生きて行っても、行き着く先は「空しさ」と孤独でしかなく、自らを低くされる神の愛は見えないものなのでありましょう。
それに、人間の命はあっという間に取り去られるような短いものです。ヘロデは権力にしがみつき、狂ったように人を、そして子どもたちまでも虐殺を続けましたが、イエス様の誕生から程なく死んでしまうのです。世でどれほどのものを手に入れても、命がとられるときにはあっけなくとられるものです。世のものはどこまで求めても「空しい」ものでしかないのでしょうか。
 しかしヘロデが自分の中にある限りない欲望を捨てたならば、真ん中にある強靭な自尊心や欲望を捨てて、もし神に心の真ん中を素直に明け渡したならば、事態は全く変わったに違いなく、また、欲望の果てにある「空」「空しさ」は無かったに違いありません。

 イエス・キリストの誕生と同時に殺されてしまった命。母の慟哭。イエス様は人間の悲しみ、残酷さのすべてを通って世に来られたお方であられ、そこを通って来られたからこそ、悲惨な悲しみや理不尽な苦労、悲しみを、ご自身の血を以って、命を捨ててまで救おうとされたのではないでしょうか。人間の罪によって引き起こされる悲惨、世のそこはかとない悲しみの中に、神はご自分の身を低く低くされて働いておられることを、この悲惨と言える御言葉は告げているのではないでしょうか。
そして福音書の著者のマタイは、このことをエレミヤ書の預言の成就であったということを告げるのです。神が嘆き悲しまれる人間の罪の世の姿です。

 そして、エジプトに避難していたヨセフに主の天使が三度夢に現れて「起きて、子どもとその母親をつれ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった」とヘロデ大王の死と、イスラエルへの帰還を告げるました。
 ヘロデ大王の死後、ユダヤの領地は三分割をされ、イエス様のお生まれになられたベツレヘムのあるユダヤ地方は、父ヘロデ大王同様に残虐であることで知られていたアルケラオが領主となっていたことをヨセフは聞き、イスラエル、ユダヤ地方に戻ることを恐れました。しかし、ヨセフの恐れの中で四度目の天使の夢への介入があり、シリア州、ガリラヤ地方のナザレという町に住んだと言うのです。
ルカによる福音書によれば、ナザレはもともとヨセフとマリアが住んでいた町でした。マタイが何故、はじめにアルケラオが統治するベツレヘムのあるユダヤ地方に行 くことをヨセフが恐れ、更に敢えて「ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」と、もともと住んでいた町に戻ったと語っていないのか。これは私の想像ですが、ナザレに戻ることは、マリアの身にまだ危険があったからではないでしょうか。そして、ヨセフは生まれ故郷のベツレヘムに、自分たちの新しい生活を築くことをヨセフ自身の思いとして思い描いていたのではないでしょうか。
 マリアがヨセフと結婚をしないうちに聖霊によってイエス様を身籠り、お腹が大きくなっていくことを後ろ指を指す人々が居たに違いなく、それまで過ごしていたナザレに戻ることは、イエス様の出生についてあれこれ面倒な噂が立つことが明白だったのではないでしょうか。マリアは姦淫の罪を犯したのだと言う人も居たことでしょう。そのような噂はひとつ間違えれば命の危険にさらされることがある。そのような場所に身を置きたくは無い、別の町に住んで暮らしたいというのが、ヨセフの考えであり願いだったのではないでしょうか。
 しかし夢で天使に告げられたことにより、ヨセフは自分の恐れ、思い煩いを捨てて、家族をナザレに連れて帰ることを決断いたしました。それはヨセフが、聖霊によって愛する婚約者マリアが自分の身に覚えの無い子を身籠ったことを知ったことから始まる激しい苦脳を通して、自分を神に明け渡し、苦労しながらも神の御心に従う道を選んで行くことで道が拓けて行くことを、イエス様の出生からはじまるすべての出来事を通して信じたからでありましょう。ヨセフは自分の心の中心にある恐れやマリアに対する愛の執着も、すべて神に明け渡して自分自身を神に委ねる人であったのです。

 クリスマスの出来事、イエス様の出生に纏わる出来事は、本当に複雑です。その複雑さの中で、人間の闇と人生の複雑さと悲しみがあらゆる形で浮き彫りにされて行きます。
 しかし、そこに、救いが現されたのです。私たちの世に抱える苦脳、悲しみ、どうしてよいのか分からない日々の問題。ヨセフとマリアの若い夫婦は、イエス様の誕生と共に、世の苦脳を負い、命の危険にさらされながら旅をすることになりましたが、そこに幼子イエスさまがおられました。幼子イエスはそこに両親と共におられ、神の働き、機能である天使がその只中に働き、すべては神によって守られ、若い夫婦の苦労の中に御心が現され、彼らには奇跡的に生きる道が神によって示されました。

 そして、私たちのうちにも、今、イエス・キリストは来ておられるのです。そして、私たちが私たちの心の真ん中を大胆にキリストに明け渡すことを待っておられます。
 私たちにはヘロデ大王が持っていたような世的な繁栄に対する過度な欲望は恐らく無いと思いますが、しかしそれぞれに、心の真ん中に、神に明け渡すことが出来ないまま、頑ななまで持ち続けているものがあるのではないでしょうか。過去から現在に至るまでもち続けているもの。しかし実は今は手放さなければならないもの。手放さなければならないものを頑なに持ち続けようとするために、人は無理をし、却って苦しみ、苦脳の中で神を忘れ、また他人に対しても、負担を掛けたり悩ませたりすることがあります。
 権力の頂点を極めたヘロデの孤独と残虐とは比べ物にならない私たちであるに違いない私たちでありましょうが、ヘロデですら、権力を手放す勇気をもし持てたならば、自分自身もまた周囲も平安で、すべてが変わったことでしょう。人は、頑なに自分のかつてから持っている誇りのようなものを保つことを望み続けるのではなく、ある時、自分の真ん中にあるものを大胆に捨てねばならないことがあるのではないでしょうか。

 しかし、私たちが決意して捨てたところに、イエス・キリストはおられます。キリストが、私たちの頑ななまで心の真ん中に持ち続けているものをキリストに明け渡したならば、そこにイエス・キリストは大胆に入って来られ、すべてを新しくされ、私たちの年齢、経験、今持てる能力に沿って、新しい生きるべき道を示してくださいます。
 若いヨセフとマリアは、神の子の両親となるという、さまざまな複雑な問題に途方に暮れることもあったに違いないのですが、苦しみながらも、自分自身を神に明け渡し、神に示される道をひとつひとつ歩むことによって、すべては安全に拓かれて行きました。

 私たちはもっともっと神に自分自身を明け渡して良いのです。心の中に頑なな何かしこりのようなものがあるならば、それが知らず知らずのうちに、私たちの心の重荷、闇となり、苦しむものであるならば、それが神の愛に基づかず、他者を愛することに基づかず、自己愛に基づくものであるならば尚更、一度それを取り除けることが必要なのではないでしょうか。
 そして、そこに、心の真ん中の頑なであった場所に、イエス・キリストを、私たちの罪を赦し、私たちの救いとなってくださり、復活という新しい命をくださるお方に明け渡すことを祈り求めたならば、主はそこに大胆に来てくださいます。そして、私たちの内側から、新しく生きるべき道を必ず示してくださいます。そして、他者との関係を含めて、すべてを平和に導かれるに違いありません。
 主を心の王座にお迎えし、主と共に、この年も歩んで参りましょう。主は、マリアとヨセフの歩みに介入されたように、私たちの人生にも、もっともっと大胆に介入されたいと願っておられます。主に私たち自身の心の真ん中を明け渡し、私たちのうちに大胆に主をお迎えしましょう。