イザヤ書42;1
マタイによる福音書3章1~17節
マタイによる福音書は、2章までがイエス様の誕生前から誕生、幼少期の出来事が記されてあり、3章から、イエス様の公生涯と呼ばれる宣教のご生涯が始まります。
30歳頃までのイエス様は、大工の働きをしておられました。このことは、マルコによる福音書6章3節で、人々が会堂で教えられるイエス様に驚いて「この人は大工ではないか」と語られていることで分かります。
そしてイエス様はおよそ30歳から3年間、天の国の到来を宣べ伝える働きをされ、33歳で十字架に架けられ死なれたと言われているのですが、その根拠は、ルカによる福音書3章23節に、「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」と語られており、また、ヨハネによる福音書に於いては、イエス様が宣教を始められて3度の過越の祭が語られ、その3度目の過越祭の時に、十字架の出来事が起こっていることにより、宣教のご生涯は3年間であったと理解されています。
そして、今日の御言葉のはじめ「そのころ」とは、「イエス様が宣教のご生涯を始められる30歳の頃」の出来事です。
「そのころ」洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて「悔い改めよ、天の国は近づいた」と叫んだのです。
ヨハネは、「らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」とあるとおり、荒野で厳しい禁欲的な生活をしていた人でした。
何故、ヨハネは荒野で禁欲的に生きていたのか。ヨハネはルカによれば、ユダヤ人の中の特権階級である、祭司の子どもです。裕福な家庭に生まれた子であった筈が何故荒野に出たのか―当時の支配階級の贅沢な生活に対する社会批判的な姿であろうと言われることが多いのですが、以前、イスラエルに行きました時に、面白い話を聞きました。
死海文書と呼ばれる旧約聖書正典の殆どすべてが、1948年以降、イスラエルの死海の北西部にある荒野クムランの洞窟で発見され、そこでは、熱心なユダヤ教徒の男性たちが、荒野で男性だけの共同体を作って暮らしていた痕跡が残されています。クムラン共同体と呼ばれるその共同体は、孤児たちも引き取って一緒に暮らしていたのだそうです。
洗礼者ヨハネという人は、祭司の子どもでありましたけれど、両親共高齢で、子どもを諦めていた夫婦に、神の不思議な御手があり授かった子どもでした。
そしてまだ幼いうちに既に高齢だった両親共亡くなって、孤児になって、この荒れ野の共同体がヨハネを引き取って育てたのではないかと言うのです。推測の域を出ないことではありますが、そのヨハネの生い立ちを巡ることは、有り得ることだと思えました。
そして、ヨハネは荒野の共同体で聖別されて、幼い頃からひたすら神を見上げる祈りと御言葉と清貧の生活によって養われて、時を得て荒野で「荒野で叫ぶ者の声」となったのではないか、そして最後の預言者として、自分自身に与えられた役割を謙遜に自覚し、「主の道を備え、その道筋をまっすぐに」するために、救い主に先立つ道を整える役割に徹したのではないか、そのように想像しています。
そして、ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と叫んで以来、ヨルダン川で、エルサレムとユダヤ全土から集まってきた人々に洗礼を授けていたのです。
「洗礼」ということ、イエス・キリストを信じる信仰に入る時、私たちは罪を悔い改め、イエス・キリストこそが救い主であるという信仰を告白して洗礼を受けます。
洗礼について、マタイによる福音書28:19で、復活のキリストが「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてを守るように教えなさい」と語られていることが、私たちが洗礼を受ける一番の根拠となりますが、私たちの教会で授ける洗礼は、イエス様の言葉のとおり「父と子と聖霊の名」による洗礼です。ヨハネの授けていた洗礼というのは、まだ子なるキリストも、聖霊なる神も現されていない「時」で、ヨハネが語ったことは、「悔い改めよ」と、人々に罪の悔い改めを迫るものでした。
洗礼という行為について、それ自体、ヨハネが始めたヨハネ独自のものではありません。それ以前にも儀式的なきよめの行為として、ユダヤ人の間で行われてきたものです。ひとつには沐浴のようなもので、現代でも、超正統派と呼ばれる熱心なユダヤ教徒は、安息日や祭りの日の前に、水に身体を浸すという古い習慣を守っているそうです。
そのような「清め」としての洗礼は、さらに一つの生き方から、もう一つ別の生き方への立ち返りを記念するために、すなわちユダヤ教への入信儀礼として行われていたそうです。ローマ帝国の中に住んでいた当時のユダヤ人たちの周りには、多くの別の民族がおりました。その人々の中で、ユダヤ人たちの信じる神こそがまことの神だ、私もそれを信じて新しく生きて行きたい、ユダヤ人の仲間になりたいと願った時に、洗礼を受けて、アブラハムの子孫であるユダヤ人の仲間に加えられていたのです。
そのような流れの中で、洗礼者ヨハネの洗礼は独特でした。ユダヤ人たちが、エルサレムとユダヤ全土からヨハネのもとにやって来て、罪を告白して、ヨハネから洗礼を受けていたのですから。「悔い改めよ、天の国は近づいた」という洗礼者ヨハネの叫びに応答して、単なる清めとは違う、それまでのユダヤ人たちには必要のないはずであった、ユダヤ人に対する洗礼を授けていたのですから。
そのようなヨハネの洗礼というのは、単なる儀礼ではなく、信仰の覚醒を促すものでした。
「悔い改めよ」、あなたがたは、神の民だと自分で思っているかもしれないけれど、本当にそのままで天の国に受け入れられると思っているのか、悔い改めよ、天の国=まことの王なる神の支配の時は近づいているのだから。生まれながら神の民だなどと言ってはいられない。むしろ神の民であるが故に自らを省み、罪を犯す者であることに気づき、それを改めなければならないということを、鋭くヨハネはユダヤ人たちに語っていたのです。
父と子と聖霊の名によって洗礼を受けて、今を生かされている私たちにも問われるべき問いかけのようにも思えます。
続々と人々が来る中に、ユダヤ人のファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢おりました。ユダヤ教の熱心な特権階級の人々です。後にイエス様を絶えず監視し、イエス様を陥れ、殺すことを目論む人々の仲間です。
プライドの高いファリサイ派、サドカイ派の人々がヨハネのところで洗礼を受けようとやって来るのですから、それはヨハネから洗礼を受けるということが、非常に大きな時代のうねり、波に拡大をしており、その波は、ユダヤ教の中心にいる人々まで影響を及ぼさざるを得ないほどのものになっていたということなのでしょう。
しかし、ヨハネは、洗礼を受けるために来ながらも、ファリサイ派、サドカイ派の人々の中にある、どこまでも形式的で偽善的なものを見抜き、厳しい言葉を語るのです。
「蝮の子らよ」と。蝮とは蛇の一種。創世記3章で、はじめの人アダムとエバをそそのかし、人を罪へと導いた蛇=悪魔にたとえて語るのです。そして、「悔い改めにふさわしい実を結べ」、更に「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな。行っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と。
アブラハムは、ユダヤ人にとっては、父祖、血肉としての先祖でありますけれど、イエス・キリストにある新しい神の民であるキリスト教徒にとっては信仰の父と呼ばれる人です。ユダヤ人であるあなたがたは、自分こそがそ選ばれた神の民であるとあなたがたは誇っているのだろうけれど、アブラハムの子とは、まことに打ち砕かれた信仰によるのだ。ユダヤ人という民族を超えて、神はアブラハムの子を、神の民をお造りになることが出来るのだ、形ではない、血筋ではない、新しい神の民の到来の時代を厳しい、終末的な裁きの言葉、悔い改めない者たちに対する神の厳しい裁きをヨハネは語るのです。さらに言うのです。「良い実を結ばない木はみな、切り倒され、火に投げ込まれる」と。
またさらに「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちも無い。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。
「わたしの後から来る方」とは、紛れもなくイエス様です。ヨハネは水で洗礼を授けているけれど、その方は聖霊と火で洗礼をお授けになる―非常に激しい、裁きを語っているように聞こえる言葉です。
ヨハネは「天の国は近づいた」と叫んで、罪の悔い改めのしるしの洗礼の業を施すことを始めました。天の国が近づくこと、それは罪の世の支配、世の誤り、世の傲慢、人間の自分本位な思いを打ち砕く、新しい神の支配、正しく裁きをなさる方が来られる時を告げています。
そしてまことの神の支配が来る時、罪の世に生きる、罪ある人間にとって、それは恐ろしい裁きの時になることを、ヨハネは語っているのです。何故、裁きなのか、それは神は罪が無いお方であり、罪ある人間とは共にあることが出来ないからです。
そしてイエス・キリストは、聖霊、神の霊と火によって、洗礼を授け、「手に箕を以って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻が消えることのない火で焼き払われる」と、すべての人はイエス・キリストを通して裁きの座に着き、世のことに心を奪われ続ける、天の国に相応しくない、良き実を結ばない者は焼き払われると、厳しい言葉を告げるのです。
「聖霊と火」これはどういうことでしょうか。世の罪を背負って生まれて来たすべての私たち人間です。確かに、イエス・キリストの十字架と復活の後に現されたペンテコステの出来事は、聖霊が火、炎のような舌として現れた出来事でした。
私たち人間を、聖霊と火で洗礼を施される―それは、罪ある人間は本来、火によって罪を焼き払われなければ、天の国に入れられないという、厳しさがあることを預言している言葉なのではないでしょうか。最後の預言者と呼ばれる洗礼者ヨハネの言葉は、激しい歯に衣着せぬ言葉で、この先、イエス様と対立をしていく、世の特権階級であるファリサイ派、サドカイ派の人々に対して、まことの悔い改めを迫るのです。
「そのとき」、イエスさまが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところに来られました。
ガリラヤ―のどかな、花の咲き乱れる肥沃な湖岸の田舎の村々です。差し迫った厳しさをファリサイ派、サドカイ派の人々に語っているヨハネのもとに、30歳のイエス様が、ヨハネから洗礼を受けるために、来られたのです。
世の厳しさを語る中に突如現れたイエス様。それは、まさに、平和の君であり、まことの光が、天の国が現れたのを告げる、そのような出来事に思えたのではないでしょうか。
ヨハネはそのお方がどなたであるかを理解しました。そして「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか」と、イエス様がヨハネから洗礼を受けられることを思いとどまらせようといたします。ヨハネの謙遜が表れています。しかし、イエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と言われ、ヨハネから水の洗礼を受けられたのです。
イエス様は、神であられますが、まことに肉として、私たちと同じ体をもって世に来られたお方でした。高き天より、低い地に、神が降って来られたのです。それは人間の痛みも、悲しみも、すべてを御自分のものとして経験されるために、人間をまことに知るために、罪ある人間のもとに、神が降って来られたのです。そして、これから始まる宣教のご生涯というのは、愛という神のご性質そのものに、悲しむ人と共に腸がちぎれるほどに悲しまれ、病を持つ人を解放され、人々を満たす、そのような貧しい人々と共ある歩みでした。
それと共に、ファリサイ派、サドカイ派の人々、形式的な信仰にとどまり、世にあって自分を高め、誇り、自分を人を裁く座に置く人々とは、厳しい論争をされ、また人々の無理解を経験され、人間としての孤独も味わわれるご生涯でした。
そして、罪の無い、神の御子が、不当な裁判によって十字架に架けられ、すべての人の罪の身代わりとなって死なれた。人間の受けるべき罪に対する報酬である裁きを、神の御子がその身に負われ死なれた。そのすべての人の犠牲となる宣教の3年間のはじまりの時、イエス様は、すべて罪ある者と同様に、ヨハネからの罪の悔い改めの洗礼を受けられたのです。
それは、罪の無い神が、悔い改めて罪を赦していただかなければならない私たち罪人のところまで降りて来られ、罪を代わって引き受けられることになることを意味しているのであると同時に、私たちが教会が受ける洗礼―ヨハネの洗礼を継ぐ―を、主が先だって受けてくださり、それは主の権威のもとに私たちにも受け継がれていることを指し示しているのでありましょう。
さらに「聖霊と火によって洗礼を授けられる」ということ、これは、イエス・キリストが私たちすべての人の罪を引き受けられることと関係している言葉なのではないかと私は思うのです。
天の国が来る時、すべての者が受けるべき裁きの火から、罪を悔い改める私たちをイエス・キリストが私たちの贖いとなってくださり守ってくださり、神の霊=聖霊によって、天の国=神の支配へ、導いてくださる。イエス・キリストの十字架の贖いは、まことの悔い改めをする者たちを、神共にある命へと、導かれる、そのような意味を含んでいる言葉なのではないか。この厳しい言葉は信じる者たち、悔い改める者たちは、裁きの日にキリストの贖いによって救われるという意味を含んでいるのだと、私は理解いたします。
その時、天がイエス様に向かって開き、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になられました。聖霊が平和、和解の象徴である鳩のように。
悔い改めのヨハネの洗礼は、イエス様を通してこの時、水によってなされる洗礼でありながら、同時に聖霊による洗礼となった、そのことを意味しているのでありましょう。
ここにある多くの方々は、「父と子と聖霊の名」によって洗礼を既に授けられており、またそのことを見据えておられる方々もおられます。今、教会の授ける洗礼は、罪の悔い改めを表す水を通っての洗礼であり、尚且つ、キリストの十字架の贖いによって、裁きの時の火から救われ、聖霊によって天の支配、神の国へと導きいれられることを意味する洗礼です。
悔い改め、信じ、赦され、キリストの十字架の贖いによってまもられ救われる。そのことを意味する、父、子、聖霊の名によって為される「聖霊と火」による洗礼、天の国、神の支配の中に入れられることを証しする洗礼です。
この洗礼を受けた、また受けようとする私たち、ヨハネがここで語る言葉の厳しさを味わいつつ、今一度、自らを省みたいと思います。私たちには気づいている罪、また気づいていない罪があることでしょう。イエス様は、私たちの贖いとなってくださいましたが、信仰は成長が必要なものです。
贖われたことに縋り、そこに留まり続けるのではなく、自らを今一度省み、自らの罪を神に問い、まことの悔い改めをもって、イエス・キリストの洗礼に連なる者に相応しい実を結ぶ者となることを、今一度、新たに願い求めたいと思います。
主は、私たちを限りなく愛しておられ、洗礼を受けて救われた私たちが、神であられるのに天より地に下って来られた神の御子イエス・キリストに相応しく、自らを深く省み、よき実を結ぶ者となることを願い待っておられます。