受難日礼拝 プログラム、説教(2020年4月10日)

前奏       
招詞  ヨエル書2:12~13a
        主は言われる。
「今こそ、心からわたしに立ち帰れ 断食して、泣き悲しんで。
衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。
●讃美歌  297 「栄えの主イエスの」1,2,3節
●詩編交読  詩編22篇2節〜16節
祈祷

聖書(十字架の7言) 
1)ルカ23:33−34
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。                           (1本目消灯)

讃美歌304「茨の冠を主にかぶせて」1節

茨の冠を 主にかぶせて、
 「ユダヤ人の王」と 主をあざける
  彼らはその時 知らなかった、
  その傷がわたしを いやすことを

2)ルカ23:39−43
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 (2本目消灯)

讃美歌112「イエスよみくにに」

  イェスよ、みくにに おいでになるときに
  イェスよ、わたしを 思い出してください      

3)ヨハネ19:25−27
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。              (3本目消灯)

讃美歌35「主よ、あわれみたまえ」

主よ、あわれみたまえ、主よ、あわれみたまえ
キリストよ、あわれみたまえ、キリストよ、あわれみたまえ
主よ、あわれみたまえ、主よ、あわれみたまえ

4)マタイ27:45−46
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。               (4本目消灯)

讃美歌54-136「血しおしたたる」1,2節

1 血しおしたたる 主のみかしら 2 主のくるしみは わがためなり
 とげにさされし 主のみかしら     われは死ぬべき つみびとなり
   なやみとはじに やつれし主を     かかるわが身に かわりましし
   われはかしこみ きみとあおぐ     主のみこころは いとかしこし

5)ヨハネ19:28
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。                (5本目消灯)

讃美歌313「愛するイェス」1、4節

 1 愛するイェス、何をされて      4 羊飼いは 羊のために
   こんなさばき うけられたのか。    その命 あえて捨てる
   どんな罪を  おかされたのか。    正しい主が しもべのために
   愛する主は。              罪を担う。

6)ヨハネ19:29−30
そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。    (6本目消灯)
讃美歌301  「深い傷と流れる血に」 3節

3 わたしたちを 罪と死より
 救うために 主は来られた
 十字架の主こそ とこしえの命

7)ルカ23:44−49
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

讃美歌   298 「ああ主は誰がため 」 1,2、4節
  
 1 ああ主は誰がため 世にくだりて   2 わがため 十字架に 悩みたもう
   かくまでなやみを うけたまえる。    こよなきみ恵み はかりがたし
  
4 十字架のみもとに こころせまり
涙にむせびて ただひれ伏す。

説教   「 流された血 」 小林 久実 牧師

 イエス様は、午前9時に十字架に架けられ、午後3時に息を引き取られました。
 今日は、主の受難日。主の御苦しみの時を覚えて午後2時より、礼拝を献げています。礼拝堂で共に献げることは適いませんが、この時間、それぞれの場で、主の死を思い、過ごしたいと願っています。
 
 主の十字架の上での七つの言葉を、今お読みしました。それらの中、イエス様のお言葉だけをもう一度読んでみます。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」「見なさい。あなたの母です」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」「渇く」「成し遂げられた」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」
 イエス様は、ご自身を十字架に架けた人々に対しては赦しの言葉を告げられ、共に十字架に架けられている罪を悔い改めた罪人に対しては、励ましと救いの言葉を掛けられ、父なる神に対しては、御苦しみの中、その苦脳をあからさまに語られ、血が流れ落ち、体から水分が失われてゆく中、「渇く」と肉体の朽ち果てる苦しみを言葉にされ、死を迎えるその時、「成し遂げられた」「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、ご自身の使命がその死によって「成し遂げられた」ことを言われ、ご自身の霊を父の御手に委ねられ、息を引き取られました。
 すべてのものをお造りになられた神は人となって低き世に降られ、そのご生涯を貧しく病を持つ人々と共に生きられ、そのご生涯の終わりは、罪が無いお方であられたにも拘らず、人々の嫉妬、集団心理、そこから生じる暴力という、何時の世も人間の間にはある罪によって無実の罪を着せられ、ローマ帝国の十字架へと追いやられ、手足に重い釘を打たれ、血を流し6時間。3時に息を引き取られたのです。

 私たちすべての人間が死に定められているのと同様に、いえ、あまりにも惨い死を、イエス様は迎えられ、「成し遂げられた」と言われました。
 そして更に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と口にされたこと、これは私たちの定められている「死」ということに対する希望でもあるのではないでしょうか。
 私たちは死を恐れますが、死ということは、失われることではなく、「父なる神の御手にゆだねる」ことであるのです。
 そして、死=「父の御手にゆだねる」ということは、「成し遂げられた」と言うイエス様のもうひとつ最期の言葉と、関連しています。イエス様が十字架の死を「成し遂げられ」なければ、「父の御手にゆだねる」という死を、私たちは迎えることが出来なかったからです。

 十字架で死なれたイエス様は陰府という死の国へと降られます。そこはすべての死者が降るところと考えられていました。陰府は暗い死者の国。死は人間の罪に対する報いであり、呪いでありました。主イエスは、そこに降られたのです。

 何故、神が人となられたお方が、神御自身が、十字架の上で苦しみ死なれ、死者の国、陰府へと降らなければならなかったのでしょうか。何故、主は苦しまれ、6時間にも亘って血を流し、体は干からびて死なれねばならなかったのでしょうか。
 旧約聖書のレビ記17章に次のような御言葉があります。
「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」(11)
「命は血の中にある」―不思議な言葉です。実際、人間の体内の血の20%が失われたら、人間は死ぬのだそうです。そして、「わたし=主なる神が、血を、あなたたち=私たちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである」と。
 贖いとは、「代価を払って買い取る」という意味の言葉です。私たち人間の命を、神ご自身が代価を払って買い取る。そして、買い取られなければ、贖われなければならない。
 このレビ記の御言葉は、人間には罪があり、その罪は代価を払って買い取らなければ、無くなることはないのだということが前提としてあります。
 罪は神と人間の関係に決定的な亀裂を引き起こしている問題であり、生まれながらに罪ある人間は神と共にあることは出来ず、死という滅びへと向かわされている――これは聖書が語る人間観です。

「死」「滅び」ということが、神の目から見て、どれほど悲惨なことなのか―それは私たち人間が考える以上のことなのではないでしょうか。このレビ記17章では、主なる神は、罪によって神から引き離され、滅びに至る人間を悲しまれ、憐れまれ、「血を与えた」と語られているのです。代価を支払って、命を買い取ることが出来るように、血が与えられたと。「命には命をもって償う」(レビ24:18)という御言葉がありますが、これは聖書の語る大原則なのです。
 それ以来、イスラエルでは人間の命の贖いとして、動物の犠牲が献げられるようになりました。ひとつの罪に、一頭の牛や羊、そして鳩など。数限りない動物が贖いとして献げられました。動物にも「命が中にある血」があるから。人間の罪の身代わりとしての代価として殺された―命が数限りなく献げられて行ったのです。
 
 しかし主なる神は、ある時、語られました。「わたしはお前たちの祭を憎み、退ける。祭の献げ物の香りも喜ばない」(アモス5:21)と。
 そして、御自ら人となられ、世に降られ、その生涯の終わり、十字架に架かけられ、神自らが「命が中にある血」を流し、すべての人間の罪を買い取るための代価となられ、死なれたのです。
 すべての人は、神のひとり子イエス・キリストの流された血によって、このお方を信じる信仰によって、イエス・キリストの血を代価として支払われて、滅びではなく、神と共にあるまことの命へと入れられる道が拓かれた―このことが主の十字架の死によって「成し遂げられた」のです。

 神が人となられたこと、その意味は、神が、世を生きる神の被造物である生き物=人としての体を持ち、血を持つ者とされて、その血をすべての人の代価として献げるため、であったのです。
 そしてイエス様は「成し遂げられた」と語られ、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と言われ、息を引き取られました。
 神が人となられたお方の血、そのはかり知れない高価な血が、すべての人の罪の代価として支払われる道が拓かれました。すべての人は、このお方を信じる信仰によって、罪赦され救われ、滅びではなく、神共にある永遠の命への道が拓かれたのです。
 主イエス・キリストの十字架の苦しみは、私の、私たちのためでありました。
 
 このことを、今日、私たちは心に刻みたいと願います。
 日曜の朝、イエス・キリストは復活をされます。イエス様の死は死では終わらず、死と滅びの国である、陰府を打ち破り復活されるのです。主の流された血によって、陰府は打ち破られ、滅びではなく、命の道が拓かれることになります。
 私たちの命は、イエス・キリストを信じる信仰を通して、復活の主と共にある命です。このことを覚え今、大きな苦難の中に私たちは置かれていますが、すべての神の被造物が救われることは、神の願いです。今の苦難も必ず回復され、歓喜の叫びを上げる時が来る。その日を、希望を持って待ち望みたいと願います。
(7本目消灯)

沈黙     
祈祷
●讃美歌  306 「あなたもそこにいたのか」 1,2,3節
●奉献
●主の祈り
●頌栄   27
●祝祷
後奏                            (着席)           
                                        
*お差し支えのない方は、●のところではお立ちください。
*式文に歌詞を記した賛美歌について、司式者は歌うことを告げませんので、奏楽者の前奏に導かれて、座ったまま賛美してください。