「あなたがたに平和があるように」(2020年4月19日礼拝式順、説教)

本日より、Zoomによる配信も行います。40分の礼拝になります。

招  詞 イザヤ書 35章10節
賛  美    157 いざ語れ、主の民よ
詩編交読 32編8~11節(38頁)
賛  美 326 地よ、声たかく
祈 祷
聖  書  ハバクク書 2章4節(旧 1465)
            ヨハネによる福音書 20章19~23節(新 210)
説   教
         「 あなたがたに平和があるように」 小林牧師

 コロナウィルスは、私たちの生活を一変させ、世界中の人々が不安の中に、外出がままならないまま家の中で過ごすことを強いられるようになってしまいました。このことが急激に、私たちの生活を脅かすことが身近に感じられるようになったのは、灰の水曜日の礼拝をした受難節が始まった頃だったと記憶しています。その頃から急坂を転げ落ちるように、明日の対応が読めない毎日が始まり、3月1日の聖餐式を急遽取り止め、その日の臨時役員会で、3月は礼拝以外のすべての集会を中止することを決めました。
 しかし、その頃は、イースター礼拝には聖餐式をしたいという楽観的な希望を持っていました。臨時役員会を何度も開き、役員同士、対応についてメールで毎日話し合い、教会の皆様にも出席にはご自身で十分な判断をしていただきたい旨、週報などでお伝えしつつ、出席された方に対しては教会に入堂してからの導線を決め、座席を空ける工夫をして、消毒液なども準備し、換気をし、礼拝によってウィルス感染が起こらないように細心の注意を払ってきたつもりです。そのようにして、礼拝が続けられるものと思っていました。
 しかし、集うことに神経をすり減らすことを感じるようになり、礼拝をささげる喜びよりも重圧のようなものが大きくなり、また何人もの方から、「礼拝を休むことにしたい」というご連絡をいただくようになりました。教会で公の礼拝がささげられていながら、集えないことが、心のご負担になるのではないかとも思えました。
 そして先々週半ばに緊急事態宣言が千葉県にも出され、イースター礼拝は、とにもかくにも今後の対応を考えなければならないこと、また総会準備もありましたので、新旧役員のみに礼拝出席をお願いし、午後定例役員会を開き、今日から緊急事態宣言が出ている5月3日までの3回の礼拝を、このように牧師と役員のおひとりで会堂に来て、ホームページに礼拝式文と説教を日曜の朝、載せるのと同時に、zoomアプリによる礼拝の配信を行うことにしました。
 この2ヶ月近くのことを思い起こしますと、礼拝を何とか守るために、役員の方々と共に、日々変動する情勢に対応するために駆けずり回っていたように思えます。そして、ウィルスという見えない脅威に対して、恐れに取り囲まれ、心が縮こまりそうになる日々を経て、主のご復活、イースターを迎えました。
 そして、今日の御言葉は、主のご復活の日の夕方の出来事です。

 イエス様の十字架の死を、遠くで見ていたであろう弟子たちは、恐れの中にいました。自分たちの師・先生であるイエス様が、ユダヤ人たちに憎まれ捕らえられ、鞭打たれ、十字架に架けられ殺されてしまった――側に居た自分たちも、ユダヤ人たちに見つかったら捕えられ、殺されるに違いない――弟子たちは、自分たちのいる家の戸に鍵をかけて過ごしていました。
 この家は、信徒の誰かの家で、ガリラヤから過越祭のためにエルサレムに来ていたイエス様と弟子たちが、共に集まれる家があったのでしょう。
 19節にあります「戸」という言葉は、複数形で書かれてありまして、たくさんの戸があったのか?もしかしたら、この「戸」というのは、彼らの心の戸口の意味もあるのかもしれません。ここには十字架に向かわれる主を三度否んだペトロもいますし、十字架に向かわれ、死なれた主を見捨てて逃げた弟子ばかりです。マリアから主が復活されたということを聞いても信じられず、復活の主が、「もしや」自分たちの前にも姿を顕されたとしたら、逃げ出したことを憤られ、罰せられるのではないか、主が復活されたと言っても、恐ろしいことが起こるのではないかとびくびくしていたのではないでしょうか。
私たち人間の恐れや不安というものはきりがありません。個人差もあります。周囲のこと、人の噂、それらのことも含めて私たちは恐れます。今、私たちがコロナウィルスのことで恐れていることもそうでしょう。ウィルス自体の問題だけでなく、教会の対応は、世への恐れもふんだんに含むものとなっています。

 増幅される不安とおそれの中、主を失った弟子たちは、戸の閉められた家で、息を潜めて過ごしていました。
 そんな弟子たちの真ん中に、「戸」をすり抜けて、鍵などまったく無関係に、復活されたキリストは立たれました。そして、「あなたがたに平和があるように」と告げられます。
 日本語で「あなたがたに平和があるように」と言いますと、とても仰々しくかしこまった血の通わない言葉のように感じられますが、主が言われた言葉は、おそらくは、ヘブライ語の「シャローム」。イスラエルでは、今でもどこに行っても挨拶は「シャローム」、こんな感じで、挨拶が交わされていました。

 それにしても弟子たちの恐れとはうらはらに、主の語りかけは、何と単純で明るいことでしょうか?シャローム、明るい、まったく明るい、復活の主のお姿です。そこには、ためらいも、怒りも何もない。恐れと不安で一杯の固く閉ざされた弟子たちの心の真ん中に主は顕れ、「シャローム」と平和と祝福を告げられるのです。そして、十字架で釘打たれた手と刺されたわき腹をお見せになり、おそらく微笑まれたのではないでしょうか。主が弟子たちの間に戻ってこられ、弟子たちの心の戸の鍵は即座に取り去られ、恐れは取り去られ、弟子たちは主を見て喜びに包まれたのです。

 十字架で死なれた主、すべての人の罪を十字架に於いて滅ぼされ、死を超えて復活された主は、イエス様を否定し、逃げてしまった弟子たちを、その弱さも赦されました。
 いえ、主はご自身の心で弟子たちを赦されたというよりも、その罪は主の十字架によって既に取り去られていたのです。
私たちにとっては罪を赦すということは、「受けた損害を我慢し、刑罰を手控える」という、人間の感情的な面での赦しを思い浮かべますが、聖書において「罪を赦す」というのは、「罪を取り去る」ことを意味いたします。と申しますのも、「赦す」と訳されている旧約聖書ヘブライ語のもともとの意味は「持ち上げて取り去る」ということを意味する言葉であるからです。
 主は「私はあなた方を赦そう」と人間の苦渋に満ちた温情のようなものをしめされたのではありません。主の十字架は、弟子たちの罪を、持ち上げて、取り去られたのです。罪は罪として、取り去られ、最早無きものとされたのです。それは、イエス様が命を掛けて拓かれた神から人間への赦しの御業でありました。

 イエスさまは重ねて言われました。「あなたがたに平和があるように(シャローム)。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」そして、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」と。
 旧約聖書創世記の2:7によりますと、主なる神が人間を土の塵から作られたのち、人間の鼻に命の息を吹き入れられ、人は生きる者となったとあります。ここでは、復活された主が、復活のからだの主が、弟子に息を吹きかけておられます。
 復活の主、すべて罪あるものの罪を背負い十字架に於いて罪を罪として処断され取り去られた主。陰府に下り、復活された主、赦しと解放、復活の命を与えられる主が、新しい息を弟子たちに吹きかけられたのです。それは主が天に昇られた後に、父なる神と御子なるキリストから与えられる約束の聖霊を意味いたします。復活の主の息をいただいて、私たちは神からの力、まことの平和をいただくことが出来ます。
 私たちは、信仰によって神の霊=聖霊を受けて、何時であってもどんな状況にあっても、新しく神の力をいただくことが出来るのです。苦難や悲しみの中であれば尚のこと。「力は弱さの中で十分に発揮される」(二コリント12:9)、これは、復活されたイエス・キリストが、病苦の中にあるパウロに直接語られた言葉です。

 さらに主は言われます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」
 今、心の中に赦せないと思ってしまう人が思い浮かびますか?赦せないと思うことは、私たちの心の大きな重荷でもありましょう。また、そこにこそ、私たちの罪が潜んでいるかも知れません。自らを省み、イエス様に、まずその心を明け渡しましょう。主に明け渡したならば、主は必ず取り成してくださいます。怒りをいつまでも抱え込むのではなく、イエス様が、ご自身を裏切り逃げた弟子たちをあっけらかんと赦されたように、赦す心が、必ず聖霊によって与えられます。私たちの心に平和を与えてくださいます。
 
 私たちは、今、世にあってコロナウィルスという疫病への恐れ、また自分が感染源になるのではないか、教会が感染源となったら取り返しのつかないことになる・・・など多くの恐れの中にあります。教会の礼拝に共に集えなくなる、伝道が出来なくなる・・・しかし、今こそ、復活のイエス・キリストが、私たちの群の真ん中に、またおひとりおひとりの心の真ん中に、すべての恐れの戸口を超えて、立ってくださっていることに信頼したいと思います。主はこの苦難の中、私たちを導き、語ってくださっておられます。「あなたがたに平和があるように」と。

祈  祷       
賛   美 436 十字架の血に
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉   献
主の祈り
報 告  
頌  栄  29 天のみ民も
祝   祷