Zoomによる配信を行っています。40分の礼拝です。
招詞 ヨハネによる福音書 11章25節
賛美 18 「 心を高くあげよ! 」(124)
詩編交読 33編1~11節(38頁)
賛美 153 幸いな人 一同
祈祷
聖 書 出エジプト記 19章1~3a節(旧124)
マタイによる福音書 5章1~12節(新6)
説教 「 幸 い 」 小林牧師
出エジプト記19:1~3a
マタイによる福音書5:1~12
「悔い改めよ。天の国は近づいた」これがイエス様の宣教のはじまりの言葉でした。
この言葉をもってイエス様は、ガリラヤで伝道の公生涯を始められ、まずペトロはじめとする4人の漁師をご自身の弟子とされ、その後ガリラヤ中を回って、ユダヤ教の諸会堂で教えられ、神の国を宣べ伝えられ、多くの人々の病や患いを癒されました。そのようにして、イエス様の評判は周辺の地域すべてに広がっていったのです。人々は、いろいろな病気や苦しみに悩む人、悪霊に取りつかれた人、てんかんの人、中風の人など、あらゆる病気の人をイエス様のもとに連れて来て、イエス様はそれらの人々をすべて癒されました。病人が立ち上がり、解放される、それらのことをめくるめく目の当たりにした人々は、このお方こそが救い主、自分たちの苦しみに救いと解放の時が訪れたと、驚きと喜びに満たされたことでしょう。
しかしながら人々はイエス様の宣教のはじめの言葉をどれだけ理解をしていたのか、目の前に繰り広げられた、奇跡に心を奪われたままで、イエス様の御言葉の真理にまで目が開かれてはいなかったことでしょう。
奇跡は人々の心を引きつけます。イエス様のなされた奇跡は、神が世にあって苦しむ人々、病気の人々を憐れんでおられ、人々が解放されることを望んでおられるという神の愛の表れであり、神の前に立つ人間の本来の姿を表したものしたが、人々にとっては、その心をイエス様に心を引き付けさせる出来事でありました。世にあって人々は奇跡=しるしを望む者であるということでしょう。この人間の性質は、聖書の中でたくさんの問題を引き起こす事柄でもあります。
奇跡は天の国の到来の始まりでありそれ自体が信仰の目的ではありません。しかしそのことを通して、人々はイエス様に引き付けられ、更に広い地域から、エルサレムを含むユダヤの地、そしてヨルダン川の向こう側からも、大勢の群集が来て、イエス様に従って来たのです。そして、イエス様は、人々に天の国について教え始められます。
人は、教えられなければならないのです。マタイによる福音書は、イエス様の奇跡の業と、イエス様の教え、それらが交互に語られるという特徴があります。
イエス様は、従ってきた群衆―病を負って、生活の貧しさや、虐げられることの多いまま、生きることの苦労の多い中、それまで生きて来ていた人々、イエス様によって癒された人々を見て、ガリラヤ湖のほとりの山に登られました。
この時、なぜ「山」だったのでしょうか。旧約朗読で出エジプト記19章をお読みしましたが、神がモーセに律法を与えられたのは、シナイ山という山でした。イエス様は、ここで、モーセの律法に代わる、新しい律法を、人々に宣言されるのです。モーセの律法を超えた、新しい神の掟、神の戒め、神の言葉、それがこの山上の説教でした。
イエス様は腰を下ろされ、弟子たちが近くへ寄ってくると、そこで口を開かれました。
「口を開かれた」と敢えて、書かれてあるのですから、その時のイエス様のお姿が、この時共にいた弟子たちにとってどれほど印象深いものであったか、そして語られた言葉が心に響いたのかということだと思われます。
口を開かれた第一声、神の新しい掟のはじまりの言葉は「幸いだ」という言葉でした。新約聖書の原語であるギリシア語では、最初の言葉がマカリオイ=幸いだ、から始まっているのです。
「幸い」、私たちは「幸い」と言う時、まず何を心に思い浮かべますでしょうか。
今、コロナウィルスの問題で、これまでの当たり前と思っていた日常、人と会って一緒に食事をし、語り合うこと、運動すること、旅行、図書館に行ったり、美術館や博物館に行ったり、コンサートや演劇を鑑賞しに劇場に行ったり、映画館で映画を楽しんだり、スポーツ観戦をしたり、買い物を楽しんだり、そして何より教会に集い、共に神を礼拝すること、教会での主にある交わり・・・それらが失われてしまっている中、これまで当たり前であったことがどれほど「幸い」なことだったのだと改めて思わされています。
しかし、それら当たり前だと思っていた日常の中にあっては、私たちはもっともっと貪欲だったことを思い起こします。経済的な繁栄、この世での成功、名声。そのようなものを持てる人は一握りとはいえ、そのようなことこそが世に於ける最上と夢見て憧れたり、それらのことを持てたならば「幸せ」だと思ったり、贅沢や世の豊かさを羨み、それらこそが「幸せ」だと思う気持ちが強かったのではないでしょうか。
かつての戦後の経済成長は、1970年、大阪万博の頃だったでしょうか、「大きいことは良い事だ」というCMがテレビで流れ、「大きいこと」「強いことは良いことだ」そのようなことを私たちに植えつけて、その発想から今もなかなか抜け出せないように思います。
しかし、キリストの出会った私たちは、世のものだけでは満たされないものがあることに気づかされ、世にありながら目に見えない「真理」があることに心を動かされて、神を礼拝する生活を始めました。しかし人間は、世にある限り、この世の繁栄への欲望というものに、どうしても心を奪われ勝ちなものであることを、自戒を込めて思うものです。
イエス様の目の前にいる群衆は、貧しい人々でした。イエス様に出会って癒された人々もこの中に多く居たことでしょう。
イエス様を見つめる彼らの目は輝いていたのではないでしょうか。自分たちを癒し、解放して下さるお方が目の前に居る。期待に胸を膨らませる人々に、イエス様は新しい神の掟、9つの「幸い」を、心からの祝福の言葉としてはじめに語り、教え始められるのです。
しかしそれは、私たちが何気ない日常の幸せをイメージすることとも違う、思いがけないものでした。ここに書かれてある9つの幸いは、この世の価値観ではありません。「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」が「幸い」だ、とイエス様は仰るのです。そしてこの言葉は、苦しいことを幸せだと思い込ませるような、無理にでも言って聞かせるような言葉ではない、心から祝福をイエス様は述べておられるということを覚えたいと思うのです。
私なりに、イエス様の語られる9つの「幸い」の真反対はどうなるかと考えてみました。「幸いだ。心が満たされている人は(心の貧しい人々)」「幸いだ。世のことで喜んでいる人は(悲しむ人々)」「幸いだ。いつも強い態度で事を荒立てながら人々に接する人は(柔和な人々)」「幸いだ。神との関係など無視して生きる人は(義に飢え渇く)」「幸いだ。自分中心で、他の人のことについては考え無い人は(憐み深い)」「幸いだ。悪意に満ちている人は(心の清い人々。悪意は人を混乱させ、心の清い人は声を小さくしてしまいます。強いことが幸いと思ってしまう世の中です)」「幸いだ。戦いを起こす人は=権力者(平和を実現する人々)」「幸いだ。神を見出さず、神との関係のある人々を嘲笑う人は(義のために迫害される人々)」・・・何となく、今のこの国の中にある状態のように思えてしまいます。
理不尽であっても力や声の大きい人、声高に言った者の勝ちという風潮、強い言葉、悪意のある言葉が大手をもってまかり通り、政治家が嘘を言っても、どこまでも強弁すればまかり通るような世の中です。
イエス様の語られることと正反対のことが、世に於いて「強い人」の価値観であり、またそれは世に於ける富―経済的な繁栄―に結びついて行き、それらが世に言う「幸い」と言われるものにすら結びついて行く世の中、力と経済中心の世界を私たちは生きてきています。
しかし、今、私たちの生きる世の中は、新型コロナウィルスによって一変させられました。すべての人が、今この世のこれまでの価値観では生きられなくなって来ていることを肌で感じているのです。そして今こそ、これまで世の繁栄、強さ、そして経済を中心とした価値観ではない、見えない神の支配に心を向けて、御言葉に、イエスさまの言葉にこそ聴かなければならない。そのことを強く思っています。
そして、今週からしばらく、イエス様が与えてくださった、新しい掟―山上の説教の中の、「幸い」について少しずつ読んで参ります。
私たちが立ち帰らなければならないこと、神は世をどのような目で見つめておられるのか―罪ある人間を憐れまれ、救いたいがために、世に私たちと同じ体をもって降られた主イエス。私たちのために命を捨てられる神、世の悲しみも、世の辛さも、苦脳も、人となられてすべて味わい尽くされ、知り尽くされた神の眼に、人間にとっての「幸い」とは何であるのか。私たちは心を開いて行きたいと願います。
私たちにすべての道を教えてくださる主イエスに信頼をして、主の指し示される「幸い」を生きる者とさせていただきたいと願っています。
この週も、主と共に、主の示される「幸い」を、それぞれの場所で生きることが適いますように。
祈祷
賛美 494 ガリラヤの風
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 24 たたえよ、主の民
祝祷