招詞 ヨハネの黙示録 11章15節
賛美 8(124) 心の底より
詩編交読 35編1~10節(40頁)
賛美 460 やさしき道しるべの(124)
祈祷
聖書 ダニエル書9章20~23節(旧1396)
マタイによる福音書 5章6節 (新 6)
説教 「 義に飢え乾く人々は幸い 」 小林牧師
祈祷
賛美 509 光の子になるため
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 29 天のみ民も
祝祷
ダニエル書9:20~23
マタイによる福音書5:6
イエス様の語られた8つの「幸い」の4つ目、「義に飢え渇いている人々は幸いである。その人たちは満たされる」、この御言葉について考えながら、私は神学校の卒業論文で、旧約聖書のヘブライ語の「人間」を表す言葉、また単に「人間」だけでなく、「人間」存在を基点として多様な意味で語られる、ヘブライ語の中でも非常に大きな意味を持っていると言われる「ネフェシュ」という言葉について、その言葉が旧約聖書で使われている756回のすべてのセンテンスを抜き出して、どのような意味で使われているのか、その用語法の研究をしたことを思い出しました。
読み物としては全く面白味のないものですが、最後に旧約聖書が描く人間について、あとがきのエッセイの形で総括をしてみました。その概略は「ネフェシュという言葉の語源は、「喉」。喉は渇く。ネフェシュはいつも渇き、飢えていている。それ自体で(外からものを入れることなしに)生きることが出来ない。ネフェシュはさまざまなものを欲し、憧れ強く、夢を見、恋をする。・・・ひとことで言い表せば、「儚く弱い人間」(生き物)。・・・そのように弱いからこそ、神と結ばれている。渇きを癒すのは神。ネフェシュは神を求め、神なしには生きられない。神はそのようなネフェシュを愛しておられる」と、さまざまな用語法から導き出されたことを解釈してエッセイを記しました。そして、私たちがそのような旧約聖書のヘブライ語の語るネフェシュであり、いつも「飢え渇いている存在なんだ」ということを思いました。そして、イエス様は、ここで飢え渇くべきは「義」である、そのように語られるのです。
それにしても「義」という言葉。聖書の中に多く出てくる言葉ですが、なかなか理解の難しい言葉だと思います。「社会正義」の「義」のように私は信徒の時代、長く思い込んでいました。
この言葉は神と人との結ばれた関係を表す言葉で、使徒パウロは「神と和解させられた」という言葉に言い換えてもいる言葉です。罪によって主なる神と分断をされた人間が、キリストの血によって罪赦され、神と和解させていただいた=義とされた、そのように使われる言葉です。
しかしながら、聖書に於いて、「罪」という言葉が、神に背を向けた人間の姿を表すことが第一の意味でありながら、神に背いた人間の引き起こすさまざまな世に於ける罪の問題を指し示しているように、「義」という言葉も、神と人との和解させられた義(正)しい関係を表しながら、神と人との和解させられた関係に於いて引き起こされること―それは人間の「罪」が引き起こすことに反して、神の愛に基づいて引き起こされる、世に於ける正しいこと、偉大なもの、真の正義、真の善のような意味としても、拡大解釈されて使われてもいます。
その意味で、このイエス様の言葉の「義」とは、「神との関係に於いて飢え渇いている人は幸い」―ネフェシュ=人が神との関係に飢え渇き求め続ける、そうするならば幸いという意味とも言えましょうし、神の愛によって引き起こされるべき、偉大なるもの、真の正義、真の善に飢え渇き求める者は幸い、その人たちは満たされる」そのような言葉であるとも言えましょう。
今日、お読みした旧約朗読に於けるダニエル書(この書は「黙示文学」という特殊な文学の手法を用いている書であり、紀元前2世紀のマカバイ戦争の時代の迫害を、バビロン捕囚期の出来事として描かれている書物なのですが)のダニエルは、バビロン捕囚の時、奇しくもバビロニアの王ネブカドネツァルに仕えることになった、主なる神に誠実を尽くす青年です。義人ダニエルとも言われる人で、夢を見、幻を見、語る預言者でした。バビロニアの支配から、ペルシャ支配に至る激動の時代、ダニエルは不思議な預言を語るのですが、異教の王に仕えつつも、心は主なる神をひたすら求め、主にのみ希望を置く人でした。
お読みした御言葉は、ダニエルが、先祖の神への背きの罪を悔い、また主なる神に対するひるむことの無い信仰を持ち続けて、荒廃してしまったエルサレムのために、主の憐れみを熱心に乞う祈りをささげている時、天使ガブリエルがやって来て、神の言葉をダニエルに告げた箇所です。
ここで天使は「あなたは愛されている者なのだ」と告げていますが、この「愛されている者」という言葉は原語に於いて「憧れを持つ者」という意味が強い言葉でもあります。二重の意味があると言いましょうか。ダニエルは神に「愛されている」者でした。それと同時に、ダニエル自身が「憧れを持つ者」、苦難の時代にあって、主なる神にそして主が与えてくださる真の正義、真の善に対する「憧れを持つ人」だったのです。
この「憧れを持つ人」ということは、信仰者の心のありかたを示す言葉と言えると思います。目の前にある苦難にひるむことなく、不安に希望を押しつぶすことなく、主を見据え、主に希望と信頼と憧れを持つ心です。
ダニエルは絶えず「義」、神とのただしい関係を持ち続けることに誠実を尽くし、また神が表してくださる真の正義、真の善に対する飢え渇きを持ち、それが与えられることを待ち続けていたのです。そのようなダニエルを、主なる神は信頼し、愛しておられることが告げられているのです。人間の神への憧れと、神から人間への愛は、愛の応答の関係、そのようにも言えましょう。
このダニエルの姿勢、神に対する「憧れを持つ者」であるということ、これはイエス様の仰る「義に飢え渇く」ということなのです。目の前の状況に押しつぶされることなく、神は必ず善きもので満たしてくださることを信じて、世にあって神からの善きものが表されることに憧れを持ち続け、真の正義を、真の善を求め続ける心、これを「義に飢え渇く」とイエス様は仰っているのです。
イエス様の誕生の物語に登場する人々にも、そのような姿が見られることを覚えます。イエス様の父となったヨセフと母マリア。イエス様の誕生に纏わる出来事は、思いがけないほどの苦難の連続でしたが、ふたりは主に希望を置き、主の言葉に従い続け、イエス様を世に産み出させ、育みました。
またイエス様が神殿にささげられた時出会った、主の救いを、救い主の誕生を待ち望み続けていた人々、主への憧れを忍耐して持ち続ける、義に飢え渇くシメオンとアンナがいたことがルカによる福音書では語られています。
イエス様の誕生は、忍耐強い、義に飢え渇く、素朴な人々の祈りの中に起こった出来事であったことを私たちは忘れてはならないと思います。彼らは、イエス様の誕生によって、すべての飢え渇きも忍耐も満たされることになりました。
そして、現在、私たちは、「義に飢え渇」かなければならない、そのような状況にあるのではないでしょうか。
新型コロナウィルスのことで、私たちの生活は変化を余儀なくされています。さまざまな情報に翻弄されて、右往左往している私たちがおります。政治は腐敗しており、経済も動かなくなり、倒産を余儀なくされる企業が後を絶たず、生きることに苦しむ方々が増えています。世界が混乱の渦の中にあります。この先、どのようになって行くのか、先の見えない中におります。
この混乱と制約の中で、「義」というものを、この世にありながら、神と私たちの和解せられた関係と、和解せられたところから始まる神の支配があることを、私たちにはその確かな約束があることを、私たちは日々翻弄される現実の中で忘れてはいないでしょうか。希望を失っていないでしょうか。義に飢え渇くことすら忘れ、世の支配の中で意気消沈していないでしょうか。悲しみに打ち沈んでいないでしょうか。
世にあっては先が見え難いこの状況の中で、それでも心を主に向けて、神の支配が、神のご計画が、この状況の中にあって必ず為し遂げられていくということに希望を持ち、神への飢え渇きを抱きつつ、ダニエルが主に真摯にとりなしの祈りをささげ続けたように、私たちひとりひとりも神に愛されている者、神への憧れを持つ者として、主に信頼して強く祈りをささげる者、また土気あすみが丘教会が、祈りをささげる者の群でありたいと願います。
そして、「義に飢え渇き」つつ、神の義が世に顕されるために、小さなことであっても、私たちの為せることを勇気をもってひとつひとつ実行する者でありたいと願います。
「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」
私たちをまことに満たして下さるのは、主なる神おひとりです。主に対する飢え渇きは決して渇くことがありません。イエス様は言われました。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスはご自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」(ヨハネ7:38、39a)
次週はペンテコステ。聖霊降臨日、教会の誕生を祝う礼拝でもあります。主に飢え渇き、ひたすら真の正義、真の善があらわされることを願い祈り、聖霊が下される日を待ち望みたいと思います。私たちがこの状況の中にあっても主への憧れ、飢え渇きを持ち祈り続けることに対し主が報いてくださり、主に愛されている者への祝福を大きく与えてくださいますように。