「律法学者にまさる義とは」(2020年7月19日礼拝説教)

申命記7:6~8
マタイによる福音書5:17~20

旧約聖書の民、イスラエルの人々は、信仰に於いて過去は自分達の目の前にあり、未来は自分達の後ろにあると考えたそうです。過去の何を見つめるのか、それは奴隷であったイスラエルを、神が葦の海を分けて通らせるという出エジプトの出来事によって神の民とされた民族の救いの過去です。過去と、その時与えられた律法を見つめながら、あたかもボートを漕ぐように、未来を背にして過去を見つめながら生きる―それが旧約聖書の信仰の特色のひとつのあり方でした。
 それに対して、神の御子イエス・キリストが来られた後の世、新約の時代を生きる私たちにとっては、未来は前方にあります。未来とは、イエス・キリストに救われた者としての私たちのすぐ先の救いと共に、今日の御言葉の中、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで」、そして更に先の新しい天と地、そこまでの未来を見据えて生きる信仰です。
パウロはフィリピの信徒への手紙3章で申しました。「なすべきことはただ一つ。後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召してお与えになる賞を目指してひたすら走ることです」。
私たちの信仰は、イエス・キリストの十字架の愛によって恵みによって救われた者として、世は不完全であるけれど将来、完全に与えられる救いへの希望があることをしっかりと前に見据えて、希望に生きる信仰なのです。

 この時、イエス様のお傍にいた人々は、ユダヤ教の庶民階級に属するファリサイ派、また当時の社会の底辺に居た、病や悪霊に取りつかれることで苦しみ抜いた人々で、イエス様に出会い初めて癒され、解放を味わった、そのような苦しい人生を歩んで来た貧しい人々であったことでしょう。
 彼らは律法を守れていたでしょうか?生きることに精一杯で、律法を完全に守ることなど出来ない環境に居る人々だったのではないでしょうか。そして律法が守れないがために、また病を持っていたが故に「罪人」と見做され、捨てられていたような人々だったのではないでしょうか。
 その人々に向かって、イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するために来たのである」と語られました。彼らは、この言葉に少々落胆したのではないでしょうか。イエス様は更に「これらの最も小さな掟の一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」と言われたのですから。

律法は主なる神がイスラエルの民に与えた掟です。
 モーセ五書と呼ばれる、旧約聖書のはじめの5つの書の中にさまざまな語られ方をしているのですが、ある数え方によれば律法は613あり、その中で一年の数と同じ365個の「~してはならない」という禁止条項の律法があり、また人間の体の骨の数に当たると言われる248個の「~しなさい」という教えがあると言います。この骨の数というのは、年代によっても、個体差もあるようですが。律法というものは、人間を形作るもの、また人間存在のすべての日々の暮らしを律法が貫かれているということを表している数なのでしょう。

 神の愛によって与えられた律法でしたが、イスラエルの民の歴史は、神の律法に背き続ける歴史でした。民は手近な偶像に心を寄せ、主なる神を裏切り続け、神の律法を本当に守れる人など、誰一人居なかったのです。
 そのような歴史の中、ファリサイ派の人々というのは、神に立ち帰ろうとした熱心な人々でした。イエス様を十字架に向かわせたことから、「悪い人たち」と考えられ勝ちですが、ユダヤ教の中に於いて、信仰の戦いを闘い抜いて律法に立ち返った人たちでした。ファリサイというのは、「分離する」という意味の言葉で、神のために世から分離された人々、そのような意味があります。
 しかし、と言いましょうか、そのような中でと申しましょうか、イエス様の時代のユダヤ教は、律法学者たちが知恵を絞って作ったモーセの律法に加えての、細かい解釈と規定、「口伝律法」と言われる細則があり、人々は律法そのものよりも、それら「細則」に縛られて暮らしておりました。
例えば、「安息日(土曜日)を心に留め、これを聖別せよ。・・・いかなる仕事もしてはならない」とモーセの律法で定められていますが、律法で語られている「仕事」とは何を指すのか、何歩までなら歩いて良いのか、何も仕事をしてはならないと言っても火事など緊急の場合どうするかなど、その理解と方法について、律法学者による解釈がなされ、内容が厳密に決められ、それが律法の行いとされていたのです。
 律法学者、ファリサイ派の人々というのは、天の国、永遠の命を求める人々でしたが、彼らにとっては、口伝律法の細則を日々実行していることが、義とされて=神の御前にただしい者とされて、天の国、永遠の命を得るためには、人の手によって律法に加えられた「決まりを守る」ことがその道と信じられていたのです。
しかし、口伝律法とは人間の手によるものであり、神の律法は人の手でいびつに歪められてしまい、元々神がイスラエルを愛してご自分の民とするために、人間の尊厳を守り生きるために与えられたものであったのに、いつしか人間の手で人間を縛るものになっていました。ユダヤ人社会はいびつな監視社会のようになっていました。イエス様の弟子たちが、安息日に麦の穂を積んで食べていたのをとがめられたように。
 
 しかしながら、イエス様はご自身を「律法を完成するために来られた」と言われました。それであるならば、私たちキリスト教徒にとって律法は大切な必要なものであり、旧約聖書を私たちは知らなければ、神の救いの全容を知ることなど出来ません。聖書を理解することは出来ません。

 それでは律法の完成とは何でしょうか。イエス様は、「律法の中で、どの掟が最も重要ですか」と律法の専門家に問われた時、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われました。
またパウロはローマの信徒への手紙13章で、「人を愛する者は、律法を全うしている」また「愛は律法を全うするものです」と語っています。イエス様が、律法を用いて語ろうとされていることは、神と人との愛によって結ばれた関係、また人と人との愛、互いに相手を優れたものと思い、互いに重んじあうこと、それらが律法の根本にある、イエス様は「愛」を完成させるために来られたと言われたのです。

 また、「愛」とは20節の「あなたがたの義」「ファリサイ派の人々の義」と語られる「義」とも結びつきます。「義」という言葉を聞くと、私たちは「正義」ですとか、さまざまな正しい行いをまず思い描くと思いますが、聖書に於いて「義」とは、何より神と人との愛によって結ばれた関係、神と人との和解された関係を表す言葉です。さらに、和解され、義とされたことから表される神の愛に相応しい行いもそれに当たりましょう。

 イエス様は旧約聖書の古い秩序の中にある世に来られ、いびつに歪められたユダヤ人社会に対して、まことに神の愛、神の律法に立ち帰ることを叫ばれ、そして、ヨハネによる福音書15:13でイエス様自ら語られた「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」という言葉そのものに、十字架に架かり、すべての人の罪の代価として、贖いとして死なれ、新しい時、人間の行いによるのではない、人間は生まれたままでは罪があり、代価を払って買い戻されなければ、贖われなければ神の義とされる道はないことを認め、イエス・キリストの「私のために」命を捨てるまでの愛のもと、自らの罪を悔い改め、十字架の愛のもとに生きる、イエス・キリストの十字架によって贖われ、罪赦された者として、神と共にある者、神の義をいただいた者として、キリストを証ししつつ生きる道が開かれたのです。
この時、イエス様の前にいる貧しく、律法を守りきることが出来ない人たちに、この時、新しい救いが、律法によるのではない救いの道が開かれようとしているのです。律法はキリストの十字架、愛によって、「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで」一点一画をも消え去ることはなく、残され全うされるのです。
 
 それにしても、今日の御言葉の後半、「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」という言葉をどう理解いたしましょうか。
 律法学者、ファリサイ派の人々の、いびつに歪んだ熱心さですが、彼らも神の愛の中にいることは確かなことです。彼らは間違ったかもしれないけれど、与えられた律法を見つめていました。神は人間の過ちを赦される方です。また今日の旧約朗読でお読みした「神の選び」というものは、破棄されることはないのですから。神は、約束された言葉を反故にされることなどありません。
19節で、「天の国で最も小さい者と呼ばれる者とされる」と言われているのは、律法学者たちのことなのではないでしょうか。彼らは、律法を貫く神の愛を忘れている、しかし、神に愛され、選ばれ、律法を見つめた者として、天の国の最も小さい者として赦されて天に入れられるということなのではないでしょうか。
 そして「あなたがた」と呼ばれる、この時イエス様の前にいる貧しい人たち、そして、2000年後の今を生きる私たちに言われていることは、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」という言葉です。
 律法学者たちの義とは、律法に生きようとするけれど、それを破ってしまう者の義=神との関係です。天の一番小さい者としての義です。そのような義=神との関係にまさる義とは、イエス・キリストの愛によって愛され救われた者として、イエス・キリストを通して表された信仰に生きることです。行いが先にあるのではありません。罪の悔い改めとイエスの名を信じる信仰が何よりも大切です。その上で、イエス・キリストが生きられた道に思いを馳せ、イエス・キリストに倣い、世を力の限り誠実に生きるのです。
 そして例えば自分を過大評価して大きな者だともし思っていたならば、悔い改め、隣人をあるがままに見つめ、また自分みたいな者を神は愛される訳は無いというような、神の愛を過小評価するような思い込みがあるならば、その心の罪も悔い改めて、愛に生かされている者として、恵みを受けている者として神を愛し、同様に隣人を神に愛されている人として大切に生きるのです。
 その時、天の国が開かれ、神の律法は全うされることでしょう。「神は愛」であられるのですから。
 命を捨てるほどの神の愛に私たちは生かされていることを信じ、そして今という時代は悪い時代に思えますが、それであっても、完全な救いに入れられる未来の時がくるということに希望を持ち、前のものに全身を向けて、十字架の救いを基点として歩ませていただきたいと願います。その時、きっと私たちは先々週共に読みました、地の塩、世の光とさせていただけるのでしょう。
 神の愛の支配に、今週も私たちひとりひとりが希望のうちに生きることが適いますように。