申命記16章16~17節
マタイによる福音書5:21~27
「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」
このイエス様の言葉に「自分には関係ない」と笑って聞き流せる方はおられますでしょうか。私は何だか心の闇をえぐられたような気がして、尻込みしそうになります。また、このような御言葉が、「だからキリスト教は私には合わない」「私には敷居が高い」などと思わせる御言葉のひとつなのだろうと思えます。
子どもの頃、私は感情の起伏の大きい子どもで、自分の思い通りにならないことに腹を立てて、よく母親と喧嘩をしていました。幼稚園だったか、小学校の低学年の時だったか、「ママのばか」と叫んだ時、母はきっ!と怒り、私を睨み付け、「人に対してばかなんて言ったらいけない!」と私を叱りつけました。その迫力があまりにも凄かったので、私は黙ったと思うのですが、それ以降、「ばか」と言いそうになるとき、言葉を選び、またそう言いそうになる自分の罪が心に突き刺さるようになりました。それは現在に至るまでも続いていて、「人にばかと言ってはいけない」という、そのことを教えてくれた母に感謝しています。
イエス様の「山上の説教」は、「メシアのトーラー(救い主の律法)」とも呼ばれ、旧約聖書の律法と、その時代の解釈に対し、イエス様が主なる神の御心に添い、形ではなく、人の心の奥底に問いかける、新しい教えをなされたものと言えましょう。先週は、イエス様は「律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために」来られたことをお話しさせていただき、律法の完成とは神の愛のうちに生かされていることを自ら覚え、神を愛し、隣人を自分のように愛し重んじることに於いて完成されることをお話しいたしました。そのことは、今日の御言葉、また続くイエス様の教えのすべての根底に流れています。そのことを覚えつつ、7章まで続く山上の説教を読んで行きたいと願っています。
21節の「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺したものは裁きを受ける』と命じられている」という言葉は、モーセの十戒の第6の戒め「殺してはならない」に加えて、民数記35:30~31で「人を殺した者については、必ず複数の証人の証言を得たうえで、その殺害者を処刑しなければならない」と語られていることが合わさり、言い伝えとして語り継がれていた言葉のようです。
それにしても、「複数の証人の証言を得た上」ということが、今から3000年以上前に語られていたということ、律法というのは、非常に進歩的と言いますでしょうか、公正さを貫く教えであることを改めて思います。現代社会も忘れてはならない人道的な考え方が根底にあります。律法は表面的に捉えると、残酷に思えたりするものもありますが、その根底には、イエス様が「律法の中で何が一番大切か」と問われた時に語られた「神を愛すること、自分を愛するように隣人を愛すること」が、貫かれていることを覚えます。
また「裁き」ということ、聖書に於いて、「裁き」ということは、神の公正に於いて、公正に裁かれるということですが、「裁き」ということ、ちょっと恐ろしく感じます。
しかし聖書は裁きをはっきりと「裁き」を語ります。しかし、覚えておかなければならないことは、イエス・キリストが十字架と復活の出来事の後、神の御前に私たちの受けるべき罪の裁きは、イエス様が私たちの身代わりとなって受けてくださり私たちは赦されて歩む道が開かれたことです。私たちは自らの罪を知り悔い改めて、イエス・キリストの十字架が「私のためであった」ことを知ること、イエス・キリストこそが救いであることを信じる信仰によって裁きを免れ、救われる道が拓かれました。このことはキリスト教信仰の中心です。このことを心に留めつつ、イエス・キリストの御業を感謝を持って受けなければなりません。
そして「殺してはならない」という掟は今も生きています。私たちは痛ましい程に日々殺人という事件が起こる世に生きているからです。
しかし今、ここにある私たちは「人を殺す」ということは自分には関係しないと感じられる方が殆どだと思いますが、世の中は悲惨です。
先日、テレビをつけていましたら、ウガンダの若い女性が、過去に少女兵として内乱で前線で戦わされて、語ることが出来ない記憶として、戦場では「殺す」ことを命じられることがあったことが語られていました。小さな少女に自分の意志に関わらずそんなことが強いられる、世の中にはそんな悲惨なこともあるのです。私たちは聖書のひとことも、自分と関係ないこととして聴くべきではないことでしょう。
しかし、更にイエス様は、「人を殺した者は裁きを受ける」という教えと同列のこととして続けて言われます。「兄弟に腹を立てるものはだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と。イエス様は、「殺す」ということを、単に「人の体を殺める」ということに限定をしておられないのです。
このイエス様の言葉は、私たちひとりひとりに対して非常にリアルな問題なのではないでしょうか。「腹を立てる」ということ、このことは残念ながら、おそらくここにおられる方、ひとり残らず経験なさっている筈です。私たちは、一人残らず裁きの対象になるとここからは読み取れます。「兄弟に腹を立てる」ことで、人は裁きの座に着かされるのです。
しかし、人間は、「怒る」ことがありますし、それが必要な場合もあります。「社会悪」というものは厳然とありますし、「不正」「差別」など理不尽な問題に対して「怒り」を感じるということは、「怒り」を感じた行動が、「不正」を正す方向に働く場合がおおいにありますし、必要なことと思います。また、湧き上がる感情を押さえ込んでも、人の心と体になんらかの「ひずみ」が起こす場合もあり得ます。怒り、人をばかと言う時「最高法院に引き渡される」ということは、人の怒りはの思いその怒りが正しいかどうか、裁きの座で公正に取り扱われるべき問題と言うことになりましょう。
更に『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と言われております。自分を高みに置いて、人を嘲り侮り「愚か者」と言うならば、終末の厳しい裁きに立たされるというのです。
怒りの感情を持った挙句に人をののしる言葉を発するとき、それは、神様の目から見れば、「人を殺す」ことと全く同様であるとイエスさまは仰っているのです。
それは、他者の人格を「殺す」ことに他ならないのではないでしょうか。神の目に於いて、大切なのは、人間の世の生命だけでなく、それを含めた人の命の全体(人格)なのです。
私たちは、人の生命を奪うことはしないかもしれない。しかし、人の心を、その人格を殺してしまう言葉を安易に発してしまうことが、私たちにはあるのではないでしょうか。主は、人間ひとりひとり、その人格を重んじておられ、愛しておられます。私たちは自らの言葉を吟味しすべて神の御前に自らを悔い改める必要があります。
そして更に、私たちは神の御前で時に、「何もないそぶり」をして、神は何もご存じないかのように、さも正しい者のような顔をして御前に立つことがないでしょうか。しかし、神は私たちの心の隅々まで知っておられます。
そのことを見据えてイエス様は、次の23,24節では、「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい」語られます。
ここでは、自分自身の怒りの問題から、兄弟、隣人の「怒り」に話は転換しています。
私たちが言葉や態度で、また心で兄弟に対して犯した罪、人間は人からされたことは忘れませんが、自分が人にした罪はすぐに忘れます。しかし、その罪に気づいたならば、兄弟が自分に反感を持っていることを思い出したならば、その時は救いの時であることをイエス様は言われるのです。
「祭壇に供え物を献げる」ということは、神への礼拝の姿ですが、兄弟の怒りを身に受けたまま、神様を礼拝したところで、それは神様にはまことには受け入れられない、だから、供え物はそのままにして、まず兄弟のところに行き謝り、仲直りをしなさいとイエスさまは言われるのです。それが神の赦しの道だと。
しかし自分から自分に反感を持っていると思われる兄弟のところに行き、謝るという行動を起こすということは、何と難しいことでしょうか。反感を持つ「兄弟」、その相手の持っているものは理不尽な怒り、反感であり、心を見つめられる主から見れば、裁きの座につくべき怒りかもしれません。
しかし、それでもなおかつイエスさまは、兄弟との和解を求められます。それは勇気の必要なことです。そして、相手の話を聴く忍耐力と冷静な言葉を語る知恵も必要でありましょう。また、少々ぶつかっても、時間が掛かっても、心を割って話すことも必要でしょう。上からの目線で諭そうとしたり、やたらにへりくだるのでもなく、自分自身の罪を認め、心を割って話すことは、相対する人の人格を重んじることになります。そして、心を割って話したならば、自分の発した言葉に責任を持つことです。
ヨハネによる福音書20章23節に次のような御言葉があります。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。人間が互いに人格を重んじ合い、赦しあうことをまことに主は求めておられます。
さらに、訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい、そうしなければあなたは牢に投げ込まれ、最後の一クァドランス、当時の一番小さな硬貨を返すまでそこから出ることは出来ない、と語られます。
自分で支払う・・・これは、一見イエスさまの十字架の恵みと矛盾しているように感じられます。イエスさまの十字架は、私たちの罪の代価であり、わたしたちの罪のすべてを覆うからです。しかし、私たちが神を愛すると言って礼拝したとしても、人を憎む気持ちが心のうちにあるならば、それはまことの神への愛でなければ、まことに神に受け入れられる礼拝とはならないのです。神は献げ物の動物に「聖さ」を求められたように、私たちにも「聖さ」を求めておられます。
律法の完成者であるイエスさまは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」と語られます。神を愛することと、隣人を愛すること、それは表裏一体のように神様の御前でひとつであるのです。
わたしたちが、自らの怒りのなかにとどまり続けるならば、それは悪魔に隙を与えることになりましょう。怒りは私たちの魂を蝕みます。神から私たちを引き離します。怒る私たちが神に立ち帰るためには、人間同士の和解が必要なのです。
最後にパウロの言葉をお読みします。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ロマ12:9~10)