コリントの信徒への手紙5:1~13
敬愛してやまない私たちの群の大切な兄弟、YK兄が、7月30日木曜日、天に召されました。今年の春、ご夫妻は少し遅れた金婚式を祝われ、その日はご夫妻で、御馳走と共に、これまでのご夫妻の道のりのさまざまなことをじっくりと語り合われたことをおうかがいしていました。
7月30日、午前中、検診のために病院に行き、お昼にお寿司を美味しい美味しいと言って元気に召し上がり、その後、4時前、胸の苦しさを訴えられ、救急車が到着した時には呼吸がほぼ停止しており、心臓に電気を加えることで蘇生を試みられましたが、病院に到着後、午後6時16分、医師による死亡が確認されました。
私とTご夫妻はその時、立ち会わせていただきましたが、それはそれは静かな、死というものはかくも自然ないのちの営みのひとつなのかと思わされる、不思議なまでの時でした。
あまりにも突然で悲しいことですが、最期まで骨太に全力で「走りぬいた」Hさんの84年のご生涯でした。今、H兄が主の御手に抱かれていることを覚え、主に栄光を帰したいと思います。
Hさんは「神の義」がこの世に於いて実現することを強く求めておられ、殊に「平和」を求める活動に全身を傾けておられました。包容力に満ち、献身的で見返りを求めず、少し強面に振る舞われることがあることと正反対に、この上なく優しいお人柄でした。しかし「平和」について、この国が憲法9条を守り抜くことに於いては、寸分の隙もないほどに、頑固すぎるほどに譲らない厳しさを持った方でした。
今日の御言葉でパウロはコリントの教会の人々に対し「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを知らないのですか」と警告を発していますが、この意味は、パンを作る時、今は主にドライイーストと呼ばれる膨らし粉を小麦粉に少量混ぜて、発酵させて膨らませますが、当時のパン作りは、古いパンの一部を残し、発酵したものを、新しい小麦粉、また大麦粉に混ぜて全体を発酵させることでパンを膨らませていたそうです。子どもの頃、お店のパンに青黴、赤黴・・いろいろな色の黴がついていたのを見たことがあります。それを見つけて「おばちゃん、こんな風になってるよ」とお店のおばさんに言ったことを覚えています。そのような黴なのでしょうか、それを少量入れると、小麦粉全体に影響を与えて、パンを膨らませるのです。「汚れた」ものが入ったという印象は拭えないでしょう。
旧約聖書のレビ記14章では、家に生じる黴を見つけたら、それを徹底的に除去しなければならないことが語られていますが、それと同様に、僅かな古く発酵したパンの黴が一塊の新しい小麦粉を膨らませる―古い黴、良からぬものが全体に影響を与え全体を支配していくと申しましょうか、そのように聖なる神の支配にそぐわない何かが神の支配の中に入り込むことを聖書は厳しく厭い、無骨に頑固なまでに退けようとするのです。
「少しくらいいいじゃない」と、私たちは心の中で思ってしまいますが、聖書は徹底して僅かな悪しきものが一塊の練り粉―ここでは練り粉は教会共同体に譬えられています―に入り、全体に影響を及ぼし、全体を腐敗させることを厭うのです。頑固なほどに。時にそこまででなくても良いんじゃない?と思わされるほどに。少しだけ、H兄の、平和を守るための頑固なまでの徹底した一途さと、聖書の汚れを厭う徹底している姿は重なり合う気がいたします。
コリントの教会はパウロ自身がつくった教会でしたが、パウロが去った後、多くの問題が起こっていました。コリントの町は交易の拠点となる港町。教会のひとつの問題として性的な乱れという問題がありました。ここでは「ある人が父の妻をわがものとしている」という問題が取り上げられています。
この手紙の10:23に「『すべてのことがゆるされている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない」という言葉がありますが、この「すべてのことが許されている」という言葉は、コリントの教会がよく使っていた慣用句であったという見方があります。「私たちには信仰があるから、何をしても良いのだ。人は、行いによるのではなく、信仰によって救われる」というパウロの信仰義認の教えを曲解していた、そして信仰があるのだから何をしても良いのだ、許されるのだと高を括り、そのような特権を謳歌出来るのだと高ぶって、みだらな行いをしていた、そういう人々がいたと考えられるのです。
そして、その人の私生活の状況を知りながらも、教会のある人々は同様の思いをもって受け入れて、その人たちは教会で信仰者然とした振る舞いをしていた、ということなのではないでしょうか。しかし、それらに疑問を持つ人々もいたために、このことはパウロの耳に入ってきたのです。
そのような人を教会の中にそのままにして、問題にしないような教会のあり方に対して、パウロは徹底的に糾弾いたします。
そしてパウロはこの時、コリントから離れた場所にいますが、「霊はそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を裁いてしまった」と言うのです。更に「わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」と。
厳しい言葉です。また不思議な言葉で、明確なことは分かりません。
パウロがイエスの名を行使することで、イエス・キリストの力を受けてみだらな行いをした人を肉の裁きに引き渡したということでしょうか。イエスの名を使って祈る時、パウロはイエスの名を用いることで、イエスの力を受けた―イエスの名による祈りはイエスの祈りと同じ力を持つものとなるからです。そのために、私たちは「イエスの名」を祈りに於いて使っています。
そして、パウロと心を同じくする人々が場所を別にしながらも霊に於いて集まり、「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」と。
「肉において」、とはこの世の体、この世の罪を帯びた体が「滅ぼされるように」というのですから、非常に厳しく、「恐い」と思える言葉に聞こえます。実際、パウロはそのような「父の妻をわが者としている人」の肉に於ける滅びを祈ったということなのでしょう。
この言葉を聞く時、マタイによる福音書5章29節のイエス様の言葉「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」という言葉を思い出します。
イエス様のこの言葉は、右の目の罪を右の目が償ったならば、それは右の目の罪で終わったことであり、全身が滅びに至ることは無いことを語っています。
どちらも私たちはぎょっとしてしまう言葉でありますが、神が、そして聖書が、私たちの「命」というものをどのように見ているか、ということでありましょう。
「サタンに引き渡した」という言葉を、パウロはもう一箇所で使っています。テモテへの手紙一1:20「わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡したのです」。
「サタンに引き渡した」理由は、テモテに於いては、「神を冒涜してはならないことを学ばせるため」であり、この箇所では「主の日に彼らの霊が救われるため」であると言うのです。「主の日」とは、終末=終わりの日のことです。
ヨハネの黙示録20:14に「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」とありますが、この御言葉は、終末の裁き、最後の審判のことが語られています。その中で「第二の死」が語られるということは、「第一の死」があるということです。第一の死とは、私たちのこの世の体に於ける死、私たちが「死」と呼んでいる命の終わりそのものです。
聖書は、命は世の死をもって無くなるもの、終わるものであると語っていません。聖書は、終わりの日の「裁き」、「最後の審判」があることを告げています。パウロの「主の日に彼の霊が救われるためです」という言葉は、「主の日」=「終わりの日・終末」に、「彼の霊が救われるため」、「父の妻をわがものとする」罪を犯している人が、第二の死を経験することなく、全き命=イエス・キリストの復活に与るまことの命へと入れられるためである、そのように語っているのです。神の目に、人間の命は人間の目に映ることでは終わらない。命にとって、何より必要なことは、最後の審判に於いて、その命がどのようなことになるのか、そのことこそが、神の目に世の命に於ける死を超えて重要であることを語っています。飛躍しますが、イエス様、そしてパウロのこの言葉は、世の理不尽と思える死の先に、用意されたまことの救い、まことの命の道があることも暗示しているようにも私には思えています。
そして6節「あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」の、「あなたがたが誇っている」とは、自分たちはイエス・キリストを信じているのだから、何をしても良いと誇り、忌まわしい行いにふけっている人がいることを指すのでしょう。それは、教会共同体の中の、古く悪意と邪悪に満ちたパン種であると言うのです。
加えて教会の中に11節に語られる「兄弟と呼ばれている人で、みだらな者、強欲なもの、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人のものを奪うもの」、それらのことがあるならば、付き合うなと。取り除けとパウロは語っています。
こうしてコリントの信徒への手紙を時々ですが、それでもくまなく読みはじめていますが、このような言葉を聞くにも語るにも辛いものです。
教会は、すべての人を受け入れ、決して人を退けたりしない。イエス様は、地上のご生涯を歩まれる中で、病気の人、貧しく世に於いて苦労をしている人、悲しみの中に居る人々に対し、はらわたがちぎれるほどの憐れみをもって相対されました。教会もその姿に倣うべきです。
イエス様の姿に私たちは心引かれ、「誰をも受け入れる」ということに教会は心を尽くします。しかしその「誰をも」に当たるのは、イエス様の深く関わられたような病気の人、貧しく世に於いて苦労をしている人、悲しむ人という意味なのではないでしょうか。
「みだらな者、強欲なもの、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人のものを奪う者」というのは、イエス様が関わられたような人々とは違う。一度は悔い改め、イエス・キリストを受け入れても、相変わらず、11節に挙げられているようなことから離れられず、教会を混乱させるならば、それはイエス様の憐れまれた人々とは違う。悪意と邪悪のパン種となり、教会全体を腐敗させることになる・・・厳しいですが、時に教会は厳しい判断を強いられることもあることを覚えるべきでありましょう。「いつも新しい練り粉のままでいられるために」。
イエス・キリストは、過越の小羊として、十字架の上で屠られ、死なれました。出エジプトの時、主なる神は「酵母を入れないパンを焼き食べる」ことを命じられました。イエス・キリストによって新しく贖い取られた民は、出エジプトの出来事がそうであったように、「パン種の入っていない」、ただキリストの十字架の贖いの恵みにだけ立って生きる、罪を贖われ救われた純粋で真実のパンとして、共同体を形成していくべきなのでありましょう。そのことを、私たちは心に留め、私たちの教会共同体のあり方を見つめてみたいと思います。
このことと共に、今日は「主の日に彼の霊が救われるためです」という言葉から、死、第二の死、最後の審判、そしてまことの命についても触れました。
そして純粋な真実のパンとして、世を走り抜かれた春樹さんのことを思います。
Hさんは、世の命、第一の死を超えられて今、神の御手のうちにあられます。「命の書」に名前が刻まれているHさん、いつの時か、滅びではなく、イエス・キリストにある復活の命、まことの命に生きる者とされる。その確信の中、悲しみを超えて、私たちも心を高く上げたいと思います。