箴言8:22~31
ヨハネの黙示録21:1~4
2020年、コロナ禍にあって、さまざまな混迷のある年を過ごしてきておりますが、それでも時は巡って行きます。
今日から降誕前。21週続いた聖霊降臨節が終わり、旧約聖書の出来事をイエス・キリストの救いに至るまでの救いの出来事として捉え、神の創造のご意志に思いを馳せながら、御子イエス様のご降誕、クリスマスを見据えて神の創造と神の救いの御業を辿る時となりました。
私たちは神が創造された世に生きています。しかしこのことは、科学では証明することが出来ません。なぜなら、「科学」というこの世の秩序も、神が創造されたもの。それは計り知れず精密で、人間の体も神秘に満ちており、人間は自分の体すら極め尽くすことは出来ません。先日人間の体に新しい臓器が喉に発見されたという記事を見つけました。21世紀の現代、体内の臓器すら人間には未知のものがあったことに驚かされました。
改めて考えてみれば不思議です。私たちはどこから来て、ここに存在しているのか。世には労苦があり、必ず定められている死がありますが、それらから多くの人は目を背けるかのように、世の見えるもの、聞こえること、この世の価値に従って生きていますが、人間を超えたことは、世には計り知れずあります。私たちはそのことを謙遜な思いをもって受け入れなければならないのではないでしょうか。
旧約聖書コヘレトの言葉3章には(神は)「永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と語られています。人間の知恵、論理ではこの世のことも何に於いても、極めつくすことなど出来ないのです。神の御業は人間を超えて遥かに大きいからです。
またパウロは「私たちは見えるものではなく見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(二コリント4:18)と申しました。
あくせく生きる世の現実にありながらも、ふと人間を超えたもの「永遠」を目を上げて思う心を人間は誰しも持っており、「見えないもの」を知りたい―例えばこの世で誰も見たことのない死後のことなど―また、世の不条理の意味を知りたい、人は見えないものに心を動かされる心を神に与えられているのです。
そのような人間に神は、神の言葉「聖書」を与えてくださり、ご自身を聖書の御言葉を通して顕されました。永遠なる神、見えない真理は、聖書の御言葉に隠されています。神は私たちが聖書の御言葉を通して、教会の礼拝を通して神を知ることを求め、神に近づくことを待っておられます。
今日は旧約聖書の箴言をお読みしました。
「箴言」という書名は、聖書の中国語訳に従っているそうなのですが、この「箴」という文字は鍼灸=病気を癒すために用いた針の意味が込められた文字で「寸鉄人を刺す」(短く鋭い言葉で人の急所を突く)ということわざがありますが、そのような意味合いのある書名です。「格言の書」とも訳されている書物で、短く鋭い言葉で、人間が生きるための知恵が語られています。
「知恵」旧約聖書ヘブライ語でホフマー、ギリシア語ではソフィア。四ツ谷にあるカトリックイエズス会が母体の上智大学はSophia University と呼ばれていますが、聖書の「知恵」を表す学校名であることに間違いはありません。
「知恵」という言葉を国語辞典を調べてみますと「物事を道理がよく分かり、判断・処理がうまく出来る能力」と記されてありました。
そして箴言1:7には「主を畏れることは知恵の初め」という御言葉があります。
聖書に於ける「知恵」というのは、国語辞典に書かれている「知恵」とは少し意味を違えています。「知恵」とは、人間がこの世に於いて賢く生きて行くために必要なもの、そのことに聖書に於ける「知恵」の原点があります。
私たちの人生に於いて、「主を畏れること」、主を知り生きることが何よりも大切あり、「主を畏れることが知恵の初め」=主を知らなければ、世をまことに賢くは生きられない、それが聖書の語ることです。主を畏れる―これは主を怖がるという意味では勿論ありません。主を畏れ敬う、主を私たちの人生の中心に信仰をもって据えることです。
この「知恵」という言葉が「箴言」、そして今日の御言葉を紐解くキーワードとなります。
旧約聖書は39巻の書物からなり、これらは紀元前900年代から紀元前160年頃まで、800年近い年月の間に書かれたものと考えられますが、大きく分けて「律法」「歴史」「預言書」「知恵文学」「黙示文学」に分けることが出来、「箴言」は「知恵文学」と呼ばれるものに属します。知恵文学とは、具体的にはヨブ記、コヘレトの言葉、雅歌、箴言がこれに当たります。
旧約聖書の時代、恐らくはソロモン王の時代、人間がこの世で賢く生きるために必要な格言のような素朴な知恵の言葉が集められたと言われているのですが、しかしながら、聖書の「知恵文学」は、単純に「人間がこの世に於いて賢く生きていくために必要な知恵」とは言い難い内容を含んでいます。ヨブ記には人生の不条理が語られ、コヘレトには人生の空、虚しさが語られ、雅歌は恋愛詩と読めます。しかし、根底に流れていることは、「主は万物の創造主であられる」、すべてを統べ治めておられるということが共通する事柄です。
このことを語るためにさまざまな書かれ方をされていると申しましょうか、神、聖書は、人間存在の複雑さを知り抜いており、「知恵」というものが単純な人間の経験値では計れないものであることを知っており、「知恵」は、「人間がこの世に於いて賢く生きていくための必要な知恵」、「イスラエル民族の知恵」から、大きくすべての民族、さまざまな苦労を負う人々、また「永遠を思う心」を持つすべての人間に対しての疑問に答えるような広がりを見せるようになっていきます。
さらに「知恵」はいつしか、「知恵」という存在となり、知恵自身が「語り始める」という、ちょっと不思議な展開を見せるようになるのです。それが今日お読みした箴言8章です。
今日はお読みしませんでしたが、少し前の12節には「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている」と、「知恵」自身が「わたし」と一人称で語り始めています。このことを神学の言葉で「知恵の人格化」と呼んでいます。「知恵」がひとりの人格を持つ存在として、言葉を発し語り始めるのです。
今日の御言葉のはじめ22節をもう一度お読みいたします。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」。この「その道の初めに」造られたものとは、「知恵」であるとここで語られているのです。
この言葉を聞いて、思い出される新約聖書の御言葉はありませんでしょうか。ヨハネによる福音書の冒頭1章1節をお読みします。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。
この御言葉はクリスマスによく読まれる御言葉ですが、神の言とは、イエス・キリストを表す―このことは、私自身もよく説教で語らせていただいていることです。そして、三位一体なる神を表す御言葉でもあります。イエス・キリストは神の創造の初めからおられた神の言であられると。
旧約聖書には、イエス・キリストを指し示す、その到来を預言する言葉が多くありますが、今日の御言葉、「知恵」も、イエス・キリストを指し示しているのです。
30節に目を向けていただきたいと思うのですが、「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって」とありますが、これは「子としてのイエス・キリスト」を彷彿させる言葉です。神の御もとにあって、主を楽しませる者となると言うのですから、三位一体の神、御子イエスは父なる神の子どものような存在として神の傍らにおられたと言えましょう。
そして「知恵」―人間が生きるための知恵、人格化された知恵とは、イエス・キリストであられる。イエス・キリストこそが、神の知恵。人が人として生きるべき知恵そのもののお方。
更に神は万物の創造の主。そのあり方は父・子・聖霊、三つにいましてひとりのお方。箴言の言葉はそのことを彷彿させる御言葉であると言えましょう。
22節「主は、その道の初めにわたしを造られた」、この「造られた」という言葉ですが、この言葉の原語の意味の一番は「得る」という意味です。新改訳聖書は、「そのみ業のはじめから、わたしを得ておられる」と訳しています。
私には「造られた」と言うよりも「得ておられる」という言葉の方が、主なる神とイエス様の関係を知る上でしっくり来る気がいたしますし、原語にも忠実であると思えます。「造られた」と言うと、イエス様は神の被造物のように聞こえてしまう。そうではなく、神の御子であられますので、子を「得る」という意味で読むべきと思うのです。
そしてイエス・キリストが神の御子である、そのあり方というのは、主なる神は、永遠の昔、この世界に何ものも存在していない時、「わたし」=知恵=イエス・キリストはその時から祝別されていたと言うのです。
この「祝別された」という言葉は、「聖別する」、また「立てられる」と言い換えて良いでしょうか。この言葉は本来、「ぶどう酒を注ぐ」ことを意味し、聖書に於いてこの言葉は、メシア、救い主を示すために用いられる言葉です。すべての創造に先立ち、御子イエス・キリストは救い主として、王として聖別され、立てられていたと言うのです。
万物の何も造られはいない時、存在していない時、「わたしはそこにいた」、神の御子であられ、神の知恵であられ、神の言であられる御子イエスは創造に先立って主なる神と共におられたのです。
そして主なる神、父なる神が万物の創造を始められたその時、主が天のその位置を備え、深淵の面に輪を描いて境界とされた時、主が上から雲に力をもたせ深淵の源に勢いを与えられたとき、大地の基を定められたその時、知恵なる御子イエス・キリストは、父なる神の御許におられ、「巧みなもの」―これは「建築士」を表す言葉であり、神の知恵であられる御子イエスは、父の傍らに居て、父と共に、万物の創造の御業を建築士のように司られ、父の力強い協力者となられ、また子として、日々父なる神を楽しませるお方として、絶えず父の御前で楽を奏し、子として父の傍らで遊んでおられた、そのように語られているのです。
さらに「知恵」は神の協力者であり、31節「人の子らと共に楽しむ」とありますが、知恵は「人の子ら」、人間と共に楽しむと言うのです。神が人の間に来られることを彷彿させる御言葉です。
イエス・キリストは、世に人として来られ、十字架の死によって、すべての人の贖いとなられ、神と人との和解の道を拓かれました。
神の知恵なるイエス・キリストは、神と人との仲保者、父なる神と人とを結ぶお方であられる、箴言はそのようにイエス様のことを語るのです。
もっと申せば、知恵なるイエス・キリストは神の霊=聖霊として人間と共におられ、人間=人の子らの内に住まわれ、神の愛と恵みを奏でられ、示さます。
神は三つにいましておひとりの神、そして永遠の初めからおられるお方であり、万物の創造主である、そのことを箴言は密かに語っているのです。
私たちは神の創造の御業の中にあり、創世記によれば、「神の似姿」として造られた者たちです。
主なる神は御子イエスと共に、すべてのものを造られた、そこに聖霊なる神が共に働かれ、すべてを作られ、私たちは神のご支配の中に今生かされている。このことを、私たちは御言葉を通して、遥か高くにおられる神を見上げ、神に信頼しより頼みつつ、世にあって神の知恵であられ、神の言であられるイエス・キリスト、その霊であられる聖霊が共にいてくださること、このことが、旧約聖書に於いても語られていることを覚え、私たち人間が世を生きるまことの知恵の源は、イエス・キリストであることを覚える者でありたいと願います。聖書の御言葉に寄り頼みつつ人が生きる時、まことに世を生きる知恵がイエス・キリストを通して与えられる―このことを覚え、主を私たちの人生の中心に据えて生きるものでありたいと願います。
そしてもう一箇所、今日は聖書の終わり「ヨハネの黙示録」21章をお読みいたしました。
万物を創造された主なる神は、万物の終わりを定めておられます。神ははじめであり、終わりであるお方、アルファでありオメガであるお方です。聖書ははじめがあり、終わりがあることを告げています。
この世には苦労があり病があり、さまざまな苦しみがあります。死という終わりの悲しみが、誰にも襲ってきます。
しかし、主なる神は私たちの悲しみを、苦労を、死を、そのままに見過ごすお方ではありません。すべてのものが過ぎ去った後、新しい天地が現れ、病もなく、苦しみも無く、神と人が共に住まう、永遠の命が与えられます。
万物を造られ、終わりを定め、人を永遠の命へと導くお方、新しい天地に於いても統治されるのは、主なるイエス・キリスト、このお方を心から信じる者でありたいと願います。