「知恵ある心を得させてください」(2020年11月1日礼拝説教)

詩編90:1~12
ヨハネによる福音書14:1~6

 今日は召天者記念礼拝。主にある聖徒たちの天上の礼拝と、地上の礼拝が結ばれていることを覚え、また、私たち各々の先に召された、愛する方々を覚え、また自らの世の生涯を思い、すべてが神の御旨の中にあることを覚えて礼拝をささげます。
 お写真を前に励まされる思いがいたします。死は怖くない、神と結びあわされているところに私たちは居るのだ、と語ってくださっているように思えるのです。

 今日は詩編90編をお読みしました。
 旧約聖書を読む時、何とも不思議だなと思うことがあります。それは旧約聖書というのはイエス様が世にお生まれになる以前に書かれたイスラエル民族の書物であって、イスラエル民族、ユダヤ人としてお生まれになられたイエス様は、旧約聖書として私たちが持っているすべての文書を読んで知っておられたということです。とりわけ、イエス様は詩編を愛され、イエス様の語られるお言葉には、詩編からの引用がとても多いのです。この詩編90編も、イエス様の心に絶えずあった詩に間違いはありません。
 詩編は長い年月の中で書かれ、ユダヤ人の礼拝の言葉として歌い続けられてきたものです。今は知る術もありませんが、すべての詩には曲がつけられており、神殿で、またシナゴーグの礼拝の中で歌われていたのです。私たちは、礼拝で詩編交読をいたしますが、この交読の形、司式者と会衆が交互に読むこと、このような形で、曲が付けられて、礼拝で司式者と会衆が歌っていた、そのように考えられているのです。

 詩編90編は150編ある詩の中で、出エジプトの指導者であり、旧約聖書最大の人物と言われるモーセによって歌われた詩であると言われる、ただひとつのものです。
 モーセは、イスラエル民族、ヘブライ人の子としてエジプトで生まれ、その頃、エジプトのファラオの命で、ヘブライ人の男の子はすべて殺すことが命じられている中、ナイル川の葦の茂みに籠に入れられて置かれるのですが、それをファラオの王女が見つけて憐れに思い、モーセはヘブライ人の殺される筈の子であったにも拘らず、ファラオの王女の子として、また実のヘブライ人の母を乳母として育てられるのです。
40歳になった頃、大きな転機が訪れます。自分がヘブライ人の血を引いていることを知っていたモーセは、同族のヘブライ人がエジプト人に虐げられているのを見て、そのエジプト人を殺してしまいます。
そのことがファラオに知れ、モーセは追われる身となり、遠くミディアンの地に逃げ、そこで家庭を持ち、羊飼いとして40年間過ごします。そこで生涯を閉じると思っていたに違いないですが、主のなさることは不思議です。
モーセは80歳になった時、主なる神に出会い、80歳にして、主に導かれてイスラエル民族の指導者とされ、出エジプトをし、律法を与えられ、その後、イスラエルの民の罪により、荒れ野での40年間を過ごすことになるのですが、その間、神の言葉を預かる預言者として、イスラエルの指導者として生きることになります。
そして約束の地カナンを望みつつ、約束の地に足を踏み入れることは許されないまま、120年という長い生涯を終えたのです。
モーセの生涯は、モーセ自身の最大の願いであった「約束の地」に足を踏み入れることなく終わりました。しかし、神の御心はモーセを通して成し遂げられていました。モーセ自身にとっては苦労の末に、最後の望みを遂げられない人生であり無念であったに違いありませんが、主の御心はひとりの人の思いや誉れを成し遂げることではなく、次の世代に繋げて行くこと、時代を超えて人を用いて神の御心を成し遂げることでありました。人間の人生の中心は、私たち自身の思いを超えて、神の御旨の中にあります。
この歌はそのような生涯を生きたモーセの祈りです。

 この詩は、モーセの信仰告白から始まります。「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。山々が生まれる前から 大地が人の世が、生み出される前から 世々とこしえにあなたは神」
 私たちは今、この地上に生きています。この地は、主なる神が造られた地です。自分一人でここに立っているように、寄る辺のない者のように時に思えて不安になったりすることもあるかもしれません。特に歳を重ねることで、愛する人たちが、ひとり、またひとりと天に上げられ、自分が世に残されているように感じる年齢になる時など―私自身、そのように感じることがあります―しかし、私たちにはまことに「宿るところ」がある、それは主なる神の御許なのです。
主は私たち、「私」と共に今もおられる。天にある兄弟姉妹も、そして地にある私たちも、実は同じ主のもとにある、造られた者たちにとって、主なる神の御許こそ、私たちが宿るところなのです。
 その意味で、天と地の教会は、ひとつに繋がれています。

 モーセの120年の生涯は苦労と波乱に富んだものでした。主から隠れるように生きていた時期もありました。80歳で主なる神の顕現に出会った時も、モーセは「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう」と、咄嗟に神からの「道をそれる」ような思いを、あくまで神顕現の出来事の傍観者であろうとする思いを持ったモーセでした。主の光の中を歩めない、罪と闇の時代がありました。

 人の罪は「神の怒り」のもとにある―モーセのこの詩は語っています。
 すべての人間は罪人である―聖書の語ることです。それは初めの人アダムから始まる神への背き、その「原罪」と呼ばれる性質が人間にはあるからです。
しかし人間は、なかなか自分の罪を認めようとはしません。罪と言うと例えば盗み、人の命を奪うこと、そのようなことがまず頭に擡げ、「私はそんなことはしない」と思い、またそのようなことをしないことを生涯に亘って全うされる方々は多くおられますが、聖書の語る罪は何よりも、「神への背き」、神に背を向けて、自分の思いのままに、自分の欲求を満たすことを求めて生きる生き様です。

 更に神を真ん中に置かず、自分自身を「私」という世界の中央に置くことで起こってくる、さまざまな欲望、他者に対する嫉みや憎しみ、さまざまな問題は、神への背きという罪から始まっていることを聖書は語ります。「そのような悪いことはしたことがない」「私はそのような人間ではない」、そう言い切れるならば幸いである、かもしれませんが、私にはそのような思いも、自分は正しい、また自分さえ良ければよいというような自己中心的なまた偽善的な罪の思いに感じられてしまいます。

人生は複雑です。順風満帆な時には傲慢になり、また戦争や災害など自分ではどうしようもない問題の中に生きる時、思いがけない自分の罪、人に言えない心の問題など、自分自身ではどうしようもないことであったにせよ、ぶち当たると言いますか、起こって来ることがあります。やむを得なかった・・・そういう思いを抱えつつ、苦しみ悶え、それらを誰にも言えずに、生涯を終えられる方は多くおられることでしょう。
8月には過去の戦争を思い起こし、さまざまな戦争体験を語られるご高齢の方々の姿をテレビを通して見ましたが、戦地に行かれた方、戦争で大きな悲しみを負われた方は、その出来事の衝撃の大きさ、また傷みが深ければ深いほど、家族にも口外出来ないものであったことを思わされました。
 そして歳を重ねてようやく口を開かれた人々の証言の言葉はあまりにも重いものでした。しかし「仕方なかった」、そのようなことも、究極のところで人間の罪が抉り出されたのではないか、私にはそのように思えることもしばしばでした。

 人間には隠れた罪、傷みがあります。罪があります。罪は神の「怒り」のもとにあります。人生は計り知れず複雑です。私たちの「隠れた罪」、誰にも言えないような隠れた罪も、しかし神の御前に、神の光の中には明らかにされています。神はすべてを御顔の光の中に置いておられます。
人間は神の怒りを恐れます。
 しかしながら、「怒り」と言うと神を私たちはただ闇雲に「恐い存在」と思ってしまいそうになりますが、神の怒りは、神の悲しみであり、神の人間に対する狂おしいほどの愛でもあります。神は憐れみ深いお方であられ、どのような罪を犯す人であっても、愛してくださり、何よりも罪に気づくこと、根源的に持っている罪に気づき、悔い改めることを待っておられます。人間は「隠れた罪」をも、神の御前に認めなければならないのです。

 モーセにも隠された罪がありました。モーセは殺人を犯したのですから。そして逃げたのですから。しかし、もしかしたらそんなモーセであったからこそ、神に出会ったのではないでしょうか。
 私たちのうちにも、誰も「正しい者」はおりません。皆罪人であり、ここに集うということは、自分の罪を知っている者たちでる筈です。そのような者であるからこそ、神の憐みのもとに置かれ、神を深く知り得るのです。
 何故なら主は、エゼキエル書33章で語られていますように「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」と私たちに告げてくださり、罪ある者をご自身のもとに招いておられるお方です。私たちが自分本位の生き方、世の利益や世の価値観から、愛の神に「立ち帰る」ことを待っておられます。
 すべての人間には罪がある。そのことを認め、神の御前に悔い改めることなしに、まことに主なる神を知ることは出来ません。罪を知らない者には主のまことの愛を知ることも出来ないのです。

 その神は、「大地が、人の世が、生み出される前から」「神」であられたお方。万物をお造りになられた創造の神。私たちはこの主なる神によって造られ、本来神の所有であり、神ともにある者です。神は私たちにとっての宿り場なのです。

 すべての造り主、命の源であられる主なる神は、人間を土の塵からお造りになられ、その鼻に命の息を吹きいれられ、人は生きる者となりました。このことは、旧約聖書創世記の2章に記されてあります。
 そのように人に命を与えられた主は、その命を有限なものと定めておられます。10節では「人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません」そのように、人生の時が、限りある人生の苦脳が語られています。主は命を与え、またそれを取られるお方です。
その人生の終わり、この世のこの体の生の終わり、主なる神は「人の子よ帰れ」と言われる、と言うのです。土から造られた人間を、土に帰らせるのです。
今日、私たちは敬愛する7月30日に、世の命を全うされ、主によって命の息を引き取られた、渡邊春樹兄の体を、墓所に埋葬いたしますが、この時、生きた体、骨を埋葬することまで、私たちの世の体の出来事であると言えましょう。
土の塵から造られたこの弱いからだを、塵にお帰しし、そして人の命はすっぽりと、神の懐に入れられるのです。

120年を生きたモーセです。モーセはこの詩で、人生には労苦と災いしかないほどのものであり、世にあって人は移ろいやすく、儚いものであることを語っています。
人生そのものを、世を生きることだけを見ていると人間の人生というものはあまりにも不条理に満ち、また悲しみや労苦だけが多いように思える時があります。
この国で私たちは戦後75年、その多くを平穏と思える上昇の時代を歩んで来たかに思えていましたが、今、世界中が新型コロナウィルスをはじめ、さまざまな分断が起こり、人の心は冷え切り、私たちは困難な時代を生きる者とされました。
 この世のすべてが神の怒りの中に置かれているのか、そのようにすら心に過ぎることがあります。

 しかし、私たちはただこの今の現状にのみ生きる者ではありません。私たちは神の造られた世界、たとえ神から人間の罪によって離された世であったにせよ、この世は、既にイエス・キリストが来られ、主の赦しの十字架が立てられた世です。神の御力が、豊かに働き、また神のご計画の中にある世を生きる者たちです。
この世の目に映ることだけに惑わされて、落胆したり、闇雲に悲しむことは止めたいと思います。
 そして「生涯の日々を正しく数える」ことが出来るようになりたいと願います。それは、今目の前にある現実がいかなるものであったとしても、「神が共にいてくださる」、「神の御心が世に必ず表される」ということを見据えて生きることです。どのような罪も、イエス・キリストにあって赦されていることに信頼し、主の復活の命に与り、日々新たに生きることです。
 モーセ自身は自分自身の最後の望みを叶えることは神に赦されなかったかもしれない。しかし、モーセの次の世代は約束の地に入り、神の御心は表されて行きました。そして今も、私たちは神のご支配の内にあります。
 そのことを絶えず仰ぎ望む者でありたいと願います。
 神はすべての創造主であられ、神の懐こそ、世の命を超えて、生死を超えて、「私たちの宿るところ」、このことを覚え、絶えず神を見上げ、神に祈り、神を賛美しつつ命のある限り歩む、それがモーセが語る「知恵ある心」なのです。