歴代誌下6:12~15
マタイによる福音書6:9~10
10月に同じ「主の祈り」の概要について説教をさせていただきましたが、その時、「主の祈りを私たちは唱えることによって、イエス様の祈りとひとつになることが出来る」ということを、お話しさせていただきました。
「主の祈り」は、イエス様が私たちに教え、与えてくださった祈りですが、与えられた祈りを口に出して「唱える」時、私たちは、はじめは心と、発する声が一致していないと思えるかもしれない、これは私の言葉ではないと思ってしまうかもしれない。しかし「主の祈り」を私たちが「唱える」時、はじめは単に口から「発する言葉」であったものが、私たち自身のものとなって来る、「言は肉となって」私たちのうちに宿ってくださり、唱える言葉が私たちの存在を形作り、イエス様の思いに私たちを導いてくださる祈りだ、そのようにお話しさせていただいたと思います。
そして主の祈りの内容は、一つの呼びかけと、七つの願いからなっており、この願いのうちのはじめの三つは「あなた」と神を呼びかける祈りで、後半の四つは「私たち」の願いとしての祈りということをお話しさせていただきました。
今日は、その中の前半。一つの呼びかけと、三つの「あなた」と呼びかける祈りについてお話をさせていただきます。
「一つの呼びかけと三つのあなた=あなたとは主なる神」が、主の祈りの初めの半分を占めているということは、私たちの信仰は、自分中心、自分の願い中心ではなく、主なる神が私たち人間にとって一番大切なお方であるということです。それは私たちは神によって造られた存在であり、私たちの存在そのものは元来、私たちをお造りになられた神に属している――属していると言っても従属した存在ではなく、主なる神は被造物なる私たちを愛しておられ、神との愛の関係の中に私たちを立たせてくださっている、神の愛に包まれた存在である、そのことこそが、人間存在の原点であり、私たちが認識すべきことだということです。
祈りのはじめは「呼びかけ」です。「天にまします我らの父よ」と。
「天」とは何処でしょうか?空の果てが天でしょうか?
今日は旧約朗読で、歴代誌下のソロモン王の祈りをお読みしましたが、ソロモンは「両手を天に伸ばして祈った」とあります。旧約の時代の祈りは、天を仰ぎ、両手を上げて、祈る、そのような祈りの姿でした。心を高く上げて、天を仰ぎ、上に遥か雲の彼方に天がある、天は第三の天まで円を描きながら地の上にある、そのように聖書の時代、考えられていたのです。
その祈りの姿は正しい姿だと思います。自分の内側に語り掛けるのではなく、広く天を仰ぐ。
土気の空は広く美しく、私はここに来て空の美しさを多分初めて知って、いつも空ばかりを見ている、自分でも変だなと思うのですが、その美しい色彩や雲の動きは、神の造られた素晴らしい世界を思わされ、心ときめき、神の御業を思います。神はおられる、空を見て、そのようにいつも感じてしまうのです。でも、現代科学をほんの少しは知っていますので、地球は自転していますし、「天」というのが私の真上の固定した場所ではないことを知っています。私の感じる「ときめき」は神が造られた世界の素晴らしさへの憧れだと思っています。
それでは天とはどこでしょうか?宇宙の彼方でしょうか?分からない。私たちに分かることは、天とは神の居られるところ、そこは神の愛と義しさに溢れる、神の支配のある場所。私たち人間の認識し得る時空を超えて、遥かにある―心を神に向かって広げて神のおられる場所である「天におられる私たちの父よ」と祈りなさいとイエス様は教えられました。
そのように勿論、手を上げて天を仰ぐのも良いでしょう。また祈りはどこでもささげられることを覚える時、私たちが目を閉じて、心を神に向け祈る時、そこが神との出会いの場所、そこに「天」が拓かれている、私たちのすぐ傍に時空を超えたかのように天の国は訪れているのではないでしょうか。イエス様はルカによる福音書17章で「神の国=天の国は『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国=天の国はあなたがたのただ中にあるのだ」と言われました。祈りは、天の神と私たちを繋ぐ場所なのです。私たちが神に心を向けて祈る時、そこに天の国が拓かれます。そこには、私たちの「父」なる神が、そして今は天の父なる神の右の座についておられるイエス・キリストがおられるのです。
イエス様は、神を「父」と呼んでおられました。「父」、ここで使われている言葉のニュアンスは、子どもがお父さんに語り掛けるような呼び方です。イエス様が当時お話しになっていたアラム語ではアバ。
イエス様がアバと天におられる神を、子どもがお父ちゃんを呼ぶように呼んでおられました。その同じ呼びかけに、私たちも招かれているのです。イエス様はご自分と父なる神との親しい愛の交わりに、私たち人間も加えてくださっておられ、私たちも神を「父」お父ちゃんと子どもが親に甘えるように呼ぶことの出来る、信頼と愛の関係へと招いて下さっているのです。イエス様の祈りの世界に、私たちが入ることをイエス様が赦してくださっているのです。いえ、イエス様を通して、私たちは主なる神に繋がることが出来るのです。
そして「わたしたち」とは、まさに「わたし」であり、尚且つ、「わたしたち」と唱えることをイエス様から教えられる時、主の祈りは、教会共同体の祈りであるということをイエス様は伝えてくださっているのでしょう。
私たちは礼拝で共に「主の祈り」を唱えます。マタイ18:20でイエス様は言われました。「二人また三人がわたしの名によって集まるところには、わたしのその中にいるのである」と。イエス様は、この只中におられます。そして「わたしたち」のひとりとして、主の祈りを各々ここで献げることが出来ますし、また、私たちの信仰は「わたしたち」という信仰共同体の信仰であるという面もあります。その両方の意味での「わたしたちの父」との呼びかけでありましょう。
また、祈りのはじまりに「天におられるわたしたちの父よ」と語り掛けるということは、「誰に祈るか」という、祈る対象を明確にすることが祈りにとってどれほど大切なことであるということを告げています。闇雲に祈るのではありません。祈り向き合うお方がどなたであるか、そのことを明確に告げること、これは私たちの自由祈祷でも大切なことです。
このことで、私には今も胸の痛い記憶があります。私の高校時代からの友が9年ほど前に癌で天に召されましたが、彼女が死を前にした苦脳の中で「祈りたいけれど、誰に向かって祈って良いのか分からない」と、私に「祈りを教えてほしい。イエス・キリストが知りたい」と懇願したことです。死を前にした苦脳の中で、彼女にとって「祈る対象はどなたであるか」それこそがまず第一に知りたい、そうでなければ祈れないと知ったことでした。そして、最期、召される数時間前に、「イエス・キリストが主である」と信仰の告白をして召されました。主は求める者にご自身を豊かにあらわされるお方です。彼女は、祈るべきただおひとりのお方がどなたであるか、生涯の終わりに見出し、平安の中で召されました。
呼び掛けの次に来るのは「あなたの御名があがめられますように。」この祈りの言葉もあくまで主なる神。神の御名があがめられる、人間ではなく神の名があがめられる、そのことを祈るのです。
出エジプト記20章に、主がモーセに与えられた十戒の掟が語られますが、その第三の戒めは「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかない」とあります。
「神の名」とは何でしょうか。「名」聖書に於いて名とは、その名を持つ存在の権威、人格を表します。出エジプト記3章でモーセは神の顕現を前にして、そのお方の「名」を尋ねました。古代に於いては、その名を知られることは名を知られた相手に「手の内を見せる、弱みを握られる」、そのような意味があったようです。それが人間のひとりであるモーセが、名を尋ねるとは、ちょっと不遜なことに思えます。しかし、神は、モーセの質問に対し、答えられました。「わたしは『わたしはある』という者だ」と。
「神の名」については、ことは非常に複雑です。旧約聖書で「主」と訳されている言葉は、四つのヘブライ語の子音のアルファベットで記されており、十戒で「みだりに唱えてはならない」と戒められているために、その子音のアルファベットにあいうえおのどの母音を繋げて読んでよいのか、分からなくなってしまいました。今はその名はヤハウェと呼ぶのが相応しいと考えられていますが、モーセに顕れた時、「わたしはある」と言われ、ヤハウェの名は語られませんでした。この答え「わたしはある」は、名前であると同時にそれは名前でないことを表してあり、「あってあるもの」すべての創造のはじめからおられた唯一のお方であることを表す名でありましょう。
名前は呼びかけることを可能とし、名を呼ぶ相手との関係を作ります。また、多神教の神々といわれるものには名が付けられていました。名を持つという考えは、多神教に於ける考えでもあります。主なる神は、多神教に於ける名のついた「神々」とは違う、「わたしはある」とご自分が、万物の創造主であられ、はじめであり終わりであられる、あってあられるお方であることを宣言されました。
しかし、主=ヤハウェという名も否定をされておられません。出エジプト記34章では、ご自身を「ヤハウェ、ヤハウェ、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」そのようにも宣言しておられます。
神秘に満ちた「あってある者」「ヤハウェ」と宣言される神。このお方の名は、どのものにも侵されざる名。イエス様は、私たちに神の名が、その名に相応しく「憐れみ深く恵み富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」たものとして、用いられることを望んでおられます。
世は私利私欲に満ち、悪の力が支配する世ですが、そのようなもののために、神の名を用いるのではなく、「あなたの御名があがめられる」ように、聖なる神に相応しく用いられること、神の恵みと慈しみが世に表されることを願いつつ、「あなたの御国とあなたの御心が、天に行われるように地にも行われますように」と祈るように教えてくださっています。
そして、イエス様が世に来られ、十字架と復活によって栄光を受けられた後、私たちに与えられている神の名は、「イエス」。私たちは「イエスの名」を用いて祈ることが赦されています。その名に相応しく祈り求めることが求められているのです。
さらに「御国が来ますように」とは、終わりの日の、イエス・キリストの再臨を待ち望む祈りの言葉でもあります。
世は人間の罪によって、悪の支配する世となってしまいました。
近代を思っても、私たちのこれまで生きて来た戦後の時代というのは、この国、私たちがこの地上に於いて置かれている日本という国は、発展を目指し、自由で比較的裕福な平和な時代だった、と今、過去形にして思えています。
新型コロナウィルスは、世の暗部を今、剥き出しにしているように思います。政治家たちは国にある人の命を非常に軽んじていることが剥き出しになり、自分たちと一部の人たちだけの利権利得を求めて、庶民とは別世界のところで政治を行っていることが、私の目にも明らかになってきました。今のこの国のあり方は、天の国と真反対の有り様だとはっきり覚えます。世を支配する悪の力に翻弄されている。私たちは、世に働く悪の力に対し、もっと正しい恐れを持って祈るべきです。そして、人はさまざまな不安から、自分自身を見失ったかのように、世の力のあるところにおもねようとし、悪意のある言葉や差別がまかり通っています。先日のアメリカ議会での暴動も、それに類することが根底にあるように思えています。
天の国は今、地には見えない。神の御心である愛は失われている。
しかし、イエス様は私たちに今も求め、教えてくださっています。
「天にまします我らの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と。
やがて神の完全な支配が、イエス・キリストが再び来られる日が来ます。世にどのようなことがあろうとも、私たちは希望を失ってはならないのです。主なる神、「わたしはある」と宣言されたお方は、世に救いのご計画を持っておられます。
心を高く上げて、心の目で神を見つめ、祈りによって天を開き、神の御名にふさわしい愛と平和と慈しみに満ちた支配が必ず到来することを、希望を持って生きる。絶えず、イエス様の教えてくださった「主の祈り」を唱えながら、天の支配が私たちのうちに、また私たちを完全に覆ってくださる日がやって来る、この聖書の約束を信じて、世にあって祈りつつ、神を賛美しつつ歩むのです。
私たちは主のもの。主なる神は、その御名の権威によって、今も私たちを包み、私がちが「主の祈り」を祈りつつ、御名に相応しく整えられ、世を生きることを望んでおられます。
主を待ち望み、主に祈りつつ、今日を歩みましょう。